坐禅をされている方、または関心のある方に朗報です。
藤田一照著「現代坐禅講義」-只管打坐への道ー佼成出版社
一照さんは、兵庫の安泰寺で出家、ボストンの山の中の
禅寺で20年程住職して、現在は曹洞宗北米禅センターの
所長。ぼくも年月だけは長く坐ってきましたが、だいたいが
イイカゲンなものやから、うやむやとやってきたのです。
一照さんのものは、以前にある機関誌に坐禅のことを
連載しておりその頃から、注目しておりました。いままで
坐禅のことをここまで丁寧に深く掘り下げているものは
ないと思う。是非読まれることをお進めします。かくいう
ぼくも最近手に入れたばかりで、ゆっくりと読み進めて
おります。ちょっとその内容を本分の要約から。
「坐禅というのはこころの平安とか精神統一、あるいは
悟りといったその他もろもろのまだここに存在していない
(と本人が思っている)何かを目的として設定し、それを
達成するために行うものだ」という通俗的イメージに対して、
無所得無所悟(得る所なく悟るところなし)の態度で、
ただ坐禅をするために坐禅をするのが坐禅だということ。
などとつづきます。これはなかなかのものです。
藤田一照著「現代坐禅講義」-只管打坐への道ー佼成出版社
一照さんは、兵庫の安泰寺で出家、ボストンの山の中の
禅寺で20年程住職して、現在は曹洞宗北米禅センターの
所長。ぼくも年月だけは長く坐ってきましたが、だいたいが
イイカゲンなものやから、うやむやとやってきたのです。
一照さんのものは、以前にある機関誌に坐禅のことを
連載しておりその頃から、注目しておりました。いままで
坐禅のことをここまで丁寧に深く掘り下げているものは
ないと思う。是非読まれることをお進めします。かくいう
ぼくも最近手に入れたばかりで、ゆっくりと読み進めて
おります。ちょっとその内容を本分の要約から。
「坐禅というのはこころの平安とか精神統一、あるいは
悟りといったその他もろもろのまだここに存在していない
(と本人が思っている)何かを目的として設定し、それを
達成するために行うものだ」という通俗的イメージに対して、
無所得無所悟(得る所なく悟るところなし)の態度で、
ただ坐禅をするために坐禅をするのが坐禅だということ。
などとつづきます。これはなかなかのものです。