炬燵

2012-10-17 20:05:30 | 日記
 今日は久しぶりに部屋にこもっている。明日は哲学の勉強会なの
でそれの予習である。前にも書いたかもしれないが、そもそも哲学
をしなくてはと思ったのは私たちのふだん使っている言葉、概念語

の多くが、明治以後西洋からはいってきた言葉の翻訳語であると
思ったからである。愛、自由、歴史、進歩はキリスト教の専売だっ
たし個、普遍、平等、主観的、客観的などなどじつに多いのだが、

その意味はほとんどなんとなくのイメージだけで使われていて、
あらためて学ぶとそうかと、我が勉強不足を嘆くことしきりなの
である。
 
 たとえば、個についてキリスト教では神の前で1人で立つこと
を意味する、」そこにはじめて自由がうまれるという。一方、
アリストテレスはひとりの人間、一匹の犬、つまり人間、犬と

いう普遍的本質にかかわっている個物、代理可能なもの、絶対の
個ではない。この個や普遍がやがて科学を育てていく。
 
川原栄峰さんの「哲学入門以前」からである。この本、昭和
42年に出版されているけれど、いまだに版を重ねている大切な
ものである。ぼく自身もじつに30年ぶりに読み返している。

 ここ10年ほど哲学書をかじって来て、入門書を開いている。
入門書というのはじつはとても有り難いものである。おおよそ
大枠でつかみ取らないと、つまり鳥瞰図を自身の中に持って

いないと特定の個人の論理だけにほんろうされて、ぜんたいの
流れ西洋人の思惟方法がわからないからである。
 彼らの思惟方法が少し見えてくると、東洋の、日本人の思惟方法

が逆に照射されてなにか構造的にさえ見えるような気になる。
その意味では木田元さんの「反哲学入門」もたいそう
おもしろかった。

 そんなことどもをいよいよ炬燵にはまりこんでやっている。
やっぱ炬燵がいいの、季節なんである。
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