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サンガ通信 NO37

2013-10-07 21:10:02 | 書簡集

 前回も紹介したかとおもいます。学友が出しているサンガ通信である。今回のも面白いので、ご紹介します。修羅を題材にしています。

 修羅。迷いとしての六道(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)の一つ。人間より下で畜生より上の道とは何を表しているのだろう。宮沢賢治は『春と修羅』という詩集の中で、自己の位相をここに重ねたのだろうか。ある人は、憂悶(ゆうもん)と悲傷と、しかし深い洞察力をも、この修羅はかねそなえているという。ーーが、しかしわたしにはまだよくわからない。 ー中略ー

 宮沢賢治『春と修羅』より

   いかりのにがさまた青さ  四月の気層のひかりの底を

   唾(つばき)し はぎしりゆききする

   おれはひとりの修羅なのだ

   ーーー

   まことのことばはうしなはれ

   雲はちぎれてそらをとび

   ああかがやきの四月の底を

   はぎしり燃えてゆききする

   おれはひとりの修羅なのだ

 

自瞋ということばをみつけた。おのれ自らに瞋(いか)るということなのだろう。瞋とは、貪(むさぼり)、痴(おろか)とともに三毒の一つで懺悔すべきものなのだが、他人に対するいかりではなく自らに向う瞋とはどうなのか。賢治はおのれの内側へと向い、唾をし、はぎしりしながら、修羅のこころを重ねたのだろうか。

 ちょっと疲れた、続きはまた明日だぁ。


稲刈りだぁ

2013-10-06 21:39:43 | 書簡集

 今日から稲刈りでした。お天気のいい日が続いていたから、さぞかし田んぼも乾いているかとおもっていたけれど、どべっているところがあり難儀した。暑くてもちろん半袖一枚なれど、それでも暑くて汗を一杯かいたから、風呂上がりのビールの美味しいことと言ったら、そりゃねぇ。てなわけで、稲刈り初刈りでした。

 モチ米から入ったから、お供え用に一株お供えした。


通信原稿

2012-09-23 21:08:39 | 書簡集
  「ワタシというもの」 

うまくなりたいと思っていた。もう
迷わなくていいと思った。悩むことは
必要でないと思っていた。なにより、
技術が身に付いてくることが楽しかっ
たのだ。そうして振り返ると、あれか
ら幾年の秋を迎えることになってしま
ったのか。
 そこに毎年花が咲いてくれているこ
とに、心動かされることもなく、三日
月の淡い光のなかで、すべてのものが
今ここに照らされていることの不思議
さを、感応道交しているよすがをも知
らず、ただこの身そのものがまるでそ
この機械のようになり果てていること
に思いいたらず、作り続けていくこと
だけになにやら取り付かれたように、
手を動かし続けていた。
 そういうありように気づかされたの
は、消毒の匂いがするベッドの上だっ
た。窓の向うに青い空が広がり、白い

雲がポッカリ浮かんでいる情景が、ず
いぶん懐かしい感じがした。身内の周
りの人たちのこちらに差し伸べられた
視線や手が、なんともあたたかいもの
であったことにはじめて気がついたよ
うに思った。
 水が一口呑めることのうれしさ。ご
飯を頂けたことの有り難さ。しかしそ
んな感慨もそこを出て一週間もすると、
そんなことどもはすっかり忘れて、相
変らず思いだけを立てて暮している。
体力がついてきても、さすがに以前の
ような好きなものだけを食べ、呑める
だけは呑んだような豪傑ぶったような
ことは止め、健康に用心している。
 また元の通りのように元気になった
頃には後輩たちをしかり、上には気遣
う日々が戻ってきた。このワタシがこ
の社会を日本を、この世界をつくって
いるのにもかかわらず、まるでこのワ
タシは部外者、とうのモンダイの張本
人であることなどは念頭にもなく、ど
こかの評論家センセイと同じように、
理屈を並べて、憤っている自身に酩酊
している。
 そんな時だった。たった1人の息子
が進学校に入って安堵していたのもつ
かのま、妻に言われて彼の顔をのぞい
た時、彼の顔はもうものと化していた。
勉強に追われ、仲間ともうまくやれず
もがいているうちに、自らがゲーム機
になってしまったかのようである。
 その時、家族のためとやってきたこ
とが、今までのありようがまるで砂上
の楼閣のように一気に崩れ去った。家
族のためとやってきたことが、たんに
ワタシの思い入れとしてのみあり、妻
や子とつながっていたと思いこんでい
たものが、じつはそれぞれバラバラで、
それぞれが勝手に自らの思いの中に埋
没してしまっている。
 ワタシのあれほど懸命にやった技術
は、会社の中では先輩も後輩もみな技
術者ばかりで、何かあると思っていた
ワタシにあるのは、ジブンはジブンは
というスキキライ、イイワルイ、タカ
イヤスイを奏でるだけのただの装置だ
った。
 家族や仕事などが自身の寄る辺、支
えているものと思っていた。しかし、
それらもひとつの幻であった。人とし
て生きていることは寂しさであり、悲
しみであり、哀しさとしてあった。 
            村田 和樹  



葬式仏教

2011-09-20 09:37:37 | 書簡集
 葬式仏教ということばがある。いつ
ごろから使われだしているものなのか、
さだかには知らないでいる。しかしな
がら、あてずっぽうのままいえば、戦
後もおそらく高度経済成長とともに流
行りだしたのではなかろうかと、勝手
におもっている。
 何故かと言えば、檀家制度という封
建制度の遺物のうえにのっかって、い
まだに僧侶たちは、葬式や法事だけを
おこなうだけで、人々に仏教を教える
こともなく、寺のなかであぐらをかい
ている。それは、家を中心にうごいて
きたけれど、いまは個の時代なのにそ
れにきちんと対応できていないという
意味が、そこにはこめられているとお
もうからである。
 今から40年前、こんなにも社会と
いうものが、かんたんに変わるもので
あるとは思いもしなかった。

 こういう社会というものは頑強なも
のだといまだに頑に思っているところ
があるけれど、なに経済活動というか
ものの力によって、もろくも変わる。
いや、諸行無常なればすべては変わる。
ということであろうか。
 人というものが、脳を発達させてき
たことの理由はいろいろあるのだろう。
ひとつには効率と合理化という要素が、
わずか数万年という時間で、狩猟採集
生活から現代文明を築き上げることが
できたのだとおもう。
 宗教とはなにかと、定義するのは厄
介である。いろんな教祖たちの教義を
論議つくすことも、それはそれで大切
なことではあろう。しかし、今わたし
たちがもっとも必要としているのは、
意味とか意義よりも人として生きてい
くことの方向性を、からだの軸でとら
えることであるまいか。
 



 西洋でも日本でも近代以前の宗教に
は絶大なる力があり、そこでは人のも
つ効率と合理化さえはいることがで
きないものとしてあった。それは人が
ほんらい生きているということは、無
為であるということをおのがからだに
刻みつけるということが、もっとも大
きな責務としていた。
 それは人の生きる方向性を効率と合
理化で決めると、道を誤るからである。
ちなみに余談ながら、原発はその効率
と合理化の頂点にある。いのちを生き
ているということを、心底理解できな
くて、いつもその時の現象にだけ幻惑
されて右顧左眄する。
 いのちというものがもつ深さ、大き
さは効率と合理化という人の浅はかな
知恵ではとうていとらえることができ
ないものとしてある。それゆえ、古へ
の師父たちは、無為、無用、なんにも


ならない行を、人に課したのが宗教で
はあった。それを葬式仏教であると揶
揄したのは、やるせない知恵である。
もちろんそれの功罪は、はっきりとみ
すえないといけない。
 悼む、弔う、祈る、参る、念ずる、
座るという具体的な姿が、今も暮らし
の隅にまだのこされていることに、安
堵しなければならない。
 しかし、仏壇や神棚のある家が全体
の半分にもみたないらしい。かつて、
明治に来日したある外国人が日本では
ごくふつうの家庭でもみな教会を抱え
いるといったのはじつに的確な表現だ。
 仏壇や神棚という無用のものがどこ
の家でも中心的存在であった。現在の
家の中心にあるのは、ものとお金と情
報である。わたしたちの自我欲求のま
まに、役に立つ、立たない。タメにな
る、ならない。イイ、ワルイ。スキ、

キライでほとんど動いており、そのせ
いであろうか、人間不信、情緒不安の
様相が多くなったのは。
 日の出を、夕日を拝む。山や海を、
滝や巨樹を拝んできたのは、日々の暮
しのなかで仏壇や神棚に参ってきた身
体に染み込んだ智慧である。家のなか
にそれらがなければ聖なる場をあらた
につくろう。近くのお寺やお宮さんに
お参りにいこう。このなんにもならな
い行が、生きることの方向を定め、悲
しみ、愁い、苦しみをも安らうものと
してあった。

信ずる

2011-07-30 15:35:14 | 書簡集
 あなたは何を信じていますかと問われると、多くの日本人は何も信じてませんと答えるらしい。 つまり特定の宗教にかかわることがない。無宗教であるということを、ある種の安堵の思いをもって語る人が多いというのである。
 よその国のありようはおいて、この国のなかではたしかにどこぞの宗教に属して活動的というか、「真理」や「ほんとう」を振り回して自らの正義や情熱で人を裁いていくようなところがあるから、そういう人を敬遠するという意味ではなんとなくであれ正しい判断をしていると思う。
 しかしながら、よく思いめぐらすと、信じているということはなにも宗教のことに限らない。今のぼくたちに共通しているのは、お金があれば、なんでもできるである。お金に対する信用は絶大である。新聞、テレビ、ネットなどの情報にたいしても生活のうえでは、これがないと生きている意味が失くなるようにさえ思っているところがある。もっと根本的には言葉。言葉にたいする信頼のうえにぼくというものが成り立っている。その言葉に疑いを持つと、ぼくというものの生きている意味もおのずと問われていく。
 はじめの問いにかえって、信じているものは何、と問われてナニナニ宗教ですと答える高校生や大学生はまれである。そしてこういうことを友人同士で会話の話題にものぼらないだろうということは、承知しているつもりである。しかしながら、新宗教に入信している人の数が高校生、大学生の若者に多いということも事実である。それほど今の社会のなかでは信じうるものが失くなったということでしょうか。
 信ずるとはどういうことをいうのだろうか。あらためて考えてみよう。信ずるとは、国語辞典では、まことと思う。正しいと疑わないとある。宗教のことはちょっとわきにおいて、お金のこと、言葉や情報のことは、ぼくたちの毎日の暮らしそのものに直結していることだから、このことに疑いを抱くと自身の生きている意味がゆらいでいく。
 自分とは何かと鋭く自身に問うと、今までなんとなくであれ何の疑いもなくあれこれとやりすごしてきたことの一つ一つに疑問符がつく。大学に入るって何。働くって。親って。家族とは。生きるとは。わたしとはと次から次と色んなものに。疑問が生じるとそれに対して今までなんとなくやりすごしてきたことだから、そのことについてうまく答えられない自分がいる。そうやって信じうるもの、ちゃんとした答えをあたえてくれるもの探す。探しているうちに気がついたら何か新宗教のグループの中にいたという人もいる。
 新宗教のグループは商業化しているところがあり、そこではどれだけ人を多く勧誘するかをつねとしているから注意を要する。宗教そのものについてはあらためて考えるとして、ここではなにか特定のグループにはいることで、ホントウの自分に目覚める。とか、今までの苦しみ、悩みが消えてスッキリ、さわやかに暮らせる。とか、何かイイ方向に転回すること。ぼくたちが潜在的にかかえているであろう問題が、入信することで解決、解放されるというあり方、誘い方は現実的で魅力的であるけれど危険である。
 宗教とは自己自身を生きることだと定義するものにとって、この信ずるという問題は根本的なことである。結局、ぼくたちがもっとも信じていることは自分のおもいである。たとえば、自分が入っている教団の神様を本当だとどれだけ力説しても、それを本当だと思っている自分の思いを、強調しているにすぎないことになる。その思いがぶれずにまっすぐ信ずることがもっとも正しいというか、熱心な信者になるというわけである。しかしそれは同時に第三者からみればただの狂信者となったり、ひとつのかぶれ方でその熱が冷めれば、または自分の思うような形に転回しなければ興ざめすることになる。
 大切なことは、そういう自分の思いを強めることが信じていることであったり、何かの見返り、こうすればこれだけ良くなるとか、解決するから信じるというのも、心情のうえからはよく理解できるがはなはだ功利的で、それは大切なことを見落とすことになる。
 信ずるというのは、わたしが信ずるという方向が破れる。このわたしがここにこのままいたということが、すでに絶対的な信のなかにいた。わたしといえるものがここにいたという事実が信である。
 神様という言葉を使えば、神様から信じられてここにおる。それを身の回りの感覚からいえば、草や木や虫、動物たちそしてお月さま太陽、大地に支えられつながりてここにおるということが、絶対的な信である。ところが、人は、人だけは自分という思いのなかに暮らしている。その自分の思うようになることを頼んだり、願ったりすることが信ずることと、ずいぶんと得手勝手に勘違いしている。その自分がという思いが破られて、はじめてこの自分の直下にすでに信じられてここにいたというありかたとしてある。それはそのつどあたらしくわたしの信ずるは、はじまるものとしてある。
                      2011年1月10日