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さびしさ

2014-02-16 21:27:17 | 書簡集

 私の意識、思いが変わったと、言えるときはどんな時だったろうかと思いめぐらしている。幼い頃から持っていた病気のことかなと思ったり、親との関係、学校でのこと、先輩や先生との出会い、きっとそんな諸々の経験が、今の私を形作っているにちがいないとおもっている。

 しかしながら、そんな直接的な経験以外のところで、決定的な影響力を本人も知らないあいだに受けているものがあるのではないか。それは、私たちが住んでいる時間、空間がいつのまにか、狭くなった、縮んでいるということが、私の意識、思いを本人も気がつかない間に変えさせている根本なのではないか。

 農業の現場でいえば、農業機械、農薬、化学肥料の登場は、昭和三十年代当時、画期的な様相があった。驚くほど仕事が省略化され、おまけに収量も増加する現実に、またたくまに機械化農業が普及した。そして事実、やっと米の自給率百%に達するのは、昭和三十年も後半にはいってからなのである。

 周知のように、このことは農業人口の大半がその後の高度経済成長を支える労働力として流れ、都市はますます拡大し、道具や商品は街にも村にもあふれるようになった。そうやって四十年余り現在の農村地帯はどうであろうか、あれほど若き声や活気があったところも山間地の農村では(全体の三割)年寄りがほとんどの忘れられた状態なのである。忘れられた状態の村は、新しく移り住んだ私にしてみれば、静かで落ち着いた場所なのであるが、それにしても毎年村人が減り続け、それとともに歯が欠けたように、耕作しない田んぼを見るのは、とても辛いものがある。

 そんな村人たちと喋っていていつも思うことがある。皆、昔の話になりだすとその大変な苦労話を活き活きと語りだすのに、それ以後の話はいつもすすまないのである。自らの手や牛馬を使って耕運などをやっていたときは、精出してやったぶんだけが確実に、収量として出てくるわけだから、やり甲斐も生き甲斐も十分手応えがあった。けれど、機械化するということは、その道具の扱い方はもちろんのこと、化学肥料や農薬の実際のやり処は、農業指導員などに指示を仰ぐしか、方法がなかったのである。このことは、自らが苗を見、触れながら育ててきた自身や勘どころを、なかば放棄せざるをえない破目におちいったのである。

 この喪失感は、農業の現場にだけ起きた現象ではない。あらゆる分野、私たちの暮らしのすみずみまで機械化、商品化の流れが行き渡りその結果として人をして、時はカネなりの標語そのままの暮らしを、しいられてきたのである。        つづく。


他者 2

2014-02-15 23:26:22 | 書簡集

 しかしながら、事実として仔細に私がここまでやってきたことを振り返ると、多くの人のやさしさや思いやりのなかで暮らしてきたのではなかったのか。その御蔭で今ここに立っていることができているのではないか。そしてなによりも、神の栄光とはこの何者かを私であると言い放っていることそのものが驚きであり、喜びであったということである。

 レビィナスはいう。顔はみな「助けてくれ」「寂しい」と叫んでいる、と。この叫びに出逢うということが他者に出会うことであると。「助けてくれ」で想いだすのはやはり、赤ん坊の泣き声である。あのオギャオギャという声ほど切なく甘いものはない。切なく甘い声なれど、切迫しているのである。あの声を聞いたものは、もう放っていることができない、なにかしないとと義務づけられている声なのである。

 人はみな赤ん坊であったのだ。そしてじつは今でも赤ん坊のままなのかもしれない。それではあんまりだから自意識という服をたくさん着こんでしまっているのかな。尖ったままの自我がしゃべりだすと自分でなにもかも頑張って生きているつもりである。しかしじっさいは私たちの暮らしの根っこはすべてにおんぶに抱っこのありさまなのではないだろうか。

 他者に出逢うということは、私が私に出会うことでもある。そのことは同時に私の「助けてくれ」「寂しさ」に出逢うこと。「寂しい」ものとしてここにおかれていたと、私が私に認めることだった。

 意識のうえで「助けてくれ」「寂しい」を認めてしまうと、まるで自分というものが壊れてしまうような、または敗北感を味わう予感がして、立ち止まる。その「壊れる」や「敗北感」はそのまま正しい。まさしく、自我が折れるその時だからである。

 自我が折れることで「他者」とまっすぐ出会い、そこに自己自身も現成している。そしてまたあたりまえのことながら、この折れてしまった自我は直ぐ復活し、その残像だけを残しながら、かたくなに私を生きている。

    おわり。


他者

2014-02-14 21:06:55 | 書簡集

 このところ、以前に書いた物を少し手直ししながら書いている。今回もそうである。しばしおつき合いください。

 

    「他者」

 顔ほどおもしろい表現物はない。あたりまえだが、どれひとつとて同じものがないことにあらためて驚く。そしてどの顔もそれぞれ引きつける何かがあり、あきらかに他の動物とは深みが違うと思う。好き嫌いという判断を 立てないで、顔を一つの表現物、芸術作品とみなすと、驚きや発見の連続なのである。それほどに顔がある意味その人のぜんぶを表現しているのではあるまいか。

 不思議なことに、あまたある顔の中で自分がどんな顔をぶらさげて見せものにしているかは見ることができない。鏡で見る顔は、自分が見るための顔をすでに用意してしまっているようで、自分が人前にさらしている顔はなかなか見ることができない。

 顔そして言葉というものは、自分のものというか、確かなもののはずなのに他者、相手と喋っていると、顔も言葉も相手の顔や言葉に反応して、またはひっぱられるようにして引き出されたり、引っ込めたりしている。だから、しっかりとしているようでなんだかいつも不安定なのである。

 レビィナス(仏、1906~1995)が他者という言葉をもとにして、神無き時代の神のありかたを探っている。私たちがふつう他者という場合、彼は素直だけど図々しい奴とか、彼女は可愛いけれど自分勝手な人などと、自分の感ずるところを言葉でなんとなく思い描いている。言葉でおおよそのところを概念化していないと不安だからである。まして、親しい友や夫婦、親子の関係ともなれば、自らのなかにすっかりとりこんで、私の一部分と化してしまっている。それはもう他者とはいわず、私の幻影である。

 レビィナスは、他者とは無限であり、つねに私の期待を裏切るもの、私を否定しうるもの、私の把握をすりぬけるもの、私の知を超えるものだという。このことを定義して次のように言う。他者とは超越であると、それは私より高みにいるからである。二つ目に他者はいつもすでに立ち去っているから不在である。もう一つは、私のなかにどんなにとりこんでいても他者はつねに私から切り離されているから絶対である。

 この超越、不在、絶対である他者に対して報いを、返しを一切期待しない善なる行為を示せと。その善なる行為をあらわしている自身のなかにおのずと神の栄光が現れる、という。一見すると、この言い方はなにか理想的なというか、理念的なかんじがしてちょっと入りずらいものがある。

     つづく。


山法師 2

2014-02-11 20:34:15 | 書簡集

  山法師というやつもここらでは多く自生している。その山法師の花も咲き出した。モミジの花は、梅の花を小さくしたような形である。しかし山法師の花はやはり枝先に咲いているが、花は葉の上に咲き、葉よりやや小さめだが、直径5、6㌢はあろうか、よく目立つ。広辞苑では「夏、細花を球状に密生し、その細花群の周囲にある4枚の苞は白色卵形で大きく、花弁のようで美しい」とある。

 陽当たりのいい、枝ぶりのよく張った木などは、遠くから見ると木ぜんたいのうえにモンシロチョウが群舞しているかのように、白くキラキラと輝いている。そうかといってハナミズキのような派手さはなく、しっとりと静かな印象をいつもあたえてくれる。

 こういう言い草は妙に聞こえるだろうか。木にもうっとりさせるほど可愛いものもあれば、何か異和のかんじでぎざぎざとしたものを与えてくれるものもある。山法師の場合、花も葉も妙にしっとりと落ち着かせる何かをあたえてくれ、それが名前の由来なのだろうと勝手に決め込んでいる。

 じっくりと対面するといってもたいがいの場合、感動しようという下心がすでにあるためか、感覚だけが先走っているから、対峙しながら素通りしてしまっていることもある。思いと言う奴はいつもわたしをとらえて離さないものとしてあるせいだ。それで山法師の素顔と対面しているようでなかなかできない。

 畑仕事に追われて、腰をかがめてせっせとそれに没頭していたとき、同じ姿勢のままでいたため、窮屈さに耐えられなくなった身体が伸びをした。その時、目に飛びこんできた山法師の姿は忘れがたいものとしてある。

 それは言うてみれば、わたしの思いで山法師を見ているのではなく、ナマの山法師そのものがそこにいたとでも言えばいいのだろうか。山法師と名前がつく以前の、そのそれ自身である。名前以前のナマの山法師と向き合ったということは、それは山法師自身の問題ではなく、こちらの問題である。

 わたしというやつがわたしのことを、思いでとらえているのではなく、ナマのわたし自身がそこに露出していたのであろう。わたしというやつも、いつもナマのわたしでしかないはずなのに、どうもそうはいかないらしい。ほとんど名前や性格、仕事などのわたしとして動いており、名前以前のナマそのものがあるということを、ほかならぬわたし自身が日常のなかでは知らないでいるし、周りの人もそういうことに無関心のような気がする。

 いつもナマの木や花たちから見つめられている。呼びかけられているのは、ナマのわたし自身といつも呼応しているのである。それゆえ、彼らに引きつけられてわたしの内面がゆらぐのである。

     おわり。


山法師

2014-02-10 20:34:47 | 書簡集

 

          「山法師」

 5月の連休頃、モミジたちに花が咲く。花といっても直径1㌢足らずの小さい花である。それが一枝の先に5、6個の花を咲かす。オオバモミジというちょっと大型の葉っぱのこいつは、ここらあたりに自生する。

 このオオバモミジの花は深紅である。真ん中に黄色の雄しべが出てて、その萌葱色の若葉の下に深紅と黄色がそっと咲いているさまはなかなかのものがある。とうぜん咲いている時期は短いから、気をつけていないとあっ、また咲いているなぁぐらいの印象で通りすぎてしまう。そこを通りすぎることなく、その花の開いているタイミングでゆっくりと向き合えばいいのに、なぜかいつも外にいる時は目的があってその目的のために動いているから、立ち止まれないでいる。

 モミジの実は、その花の中から結実してブーメラン型の実をつける。熟すと風の強い日は遠くまで飛ぶように設計してある。そのありようを最初に知った驚きはもうないが、立ち止まって彼らと見合っていると、またじわりと驚き、不思議がわたしのなかに広がっていく。

 このブーメランの実も緑から紅色に変わって、やがてすっかり実を結ぶころは茶色になっている。ゆっくりとみる。じっくりと対面するということは、もちろん細かく観察することになる。つぶさに見て、ほっほうといろいろ発見したつもりになっているのも、むろんいいものだ。けれど、そういうことをやりたい訳ではないことはわかっている。そのことよりも、わたしの内面にこれがどう触れているのかという、そのことを大切にしているらしい。通りすがりにチラッと目の端に入ってくる光景も、それはそれで印象深いものとしてある。それは、ぱっと見ているその一刹那に直感交流していることもあると思うからである。

 わたしは何を待っているのか。内面に触れるというが、内面に触れるとはどういうことなのか。よく考えると何を待ち、何に触れようとしているのかが解らなくなる。よく解らないが、何か探しものでもしているみたいに、たしかに待っている。触れようとしているなにかがわたし自身のなかで、いつも動いているようなのである。      つづく。