「私」というのは、歴史的所産でもあります。たとえば、現代日本人に決定的な影響として大きいのは、昭和に入ってからの戦争、そして敗戦、経済復興でしょう。
その戦争も末期の頃、鬼畜米英、神国日本と盛んに鼓舞されたのでした。ですから大人の大半がそうでしたが、当時の少年少女は固くそう思ったのでした。今から思えば、なんだか滑稽な話で一笑されてしまうところですが、真剣にそう思っていたのでした。それが敗戦とともにそれこそ一晩で価値観が変わってしまった喪失感と、それ以後もつづいた食糧難や物資不足のありようは、ともかく精神的なことより、食べ物が、お金が、なによりも経済的に豊かでなければ、人間らしい暮らしはできないという現在の下地をつくったのでした。
現在の私たちの「私」には、「自分」ということ、「個」ということ、「自我」ということがごちゃごちゃになっていて、それで「私」を生きるのが難しくなっているとおもうのです。この「自分」「個」「自我」ということを、はっきりと整理しなおすということが、今私たちの目的というか、学んでいくことと思うのです。
その戦争の時代から百年前というと、江戸時代です。今から160年前というとなんだか随分昔のこと。侍の時代なんて想像するだけで、大昔のように思ってしまいますが、私たちの祖父や曾祖父の時代で手の届く範囲なのです。「私」というあり方を探っていくのも、ここら辺りから調べていくと、現代との違いがはっきり解るかもしれません。
江戸時代のも学校はありました。侍の子は藩が運営する藩校へ、町民や百姓の子たちは近くの寺子屋で、読み書きそろばんを習ったのでした。今の県にあたる藩は三百余藩。一部の商人や侍を除いて、つまりはほとんどの庶民は藩から外へでることなく、一生涯をその地で過ごしたのでした。このことの意味はずいぶんと大きいことだと思います。私たちの意識はほとんど見た目というか、見聞覚知で占めているのですから、狭い村社会のなかで一生涯を送るということは、素直で従順なものが育つことだろうと思います。
つづく。