以前に書いたものである。
「安らうということ」
日々生きているということは、何か事が起きるということである。積極的にいえば、事を起こしている。それが、わたしの生きている現場になっている。しいて事が起きることを望んでいるわけではない。けれどわたしを生きてゆくことは事を起こしていくということで、ある。
ここら辺りの山は低いそれゆえ沢も小さい。沢は小さいが水は常に流れていて、それをどの田でも引いて我が水としている。田をする者、村に住む者にとってはこの沢こそ源泉で生活用水もすべてこれでまかなう。ふだんは細々と流れている沢も時にくる大雨が続けば、これがあの沢かと思うほど大蛇に変身して、田の何枚でも呑み込みそうな勢いである。
だから田の準備をする春先に、この沢に生えている草や灌木などは刈り払い、土盛りの弱いところは補強する。それゆえ田の耕地整理を大規模にするところでは、コンクリ溝を用水としている。用水としてのコンクリ溝は便利だし安心である。けれどメダカが絶滅種になったり、蛍の姿が見えなくなったのは、このコンクリ溝のせいであることは大きい。いったんコンクリ溝に落ちてしまったメダカや蛍の幼虫は、どこにも引っかかるところがなくて、そのまままっすぐ大きな川に流されてしまう。沢だと淀みや滯っている場所ができて、そこから田に帰ったり、そこを棲み処とするものもできて、沢の生きものたちにとってはよきところらしい。
思えばわたしたちの暮らしぜんたいがこのコンクリ溝のようにスムーズに流れるようにやってきた。滯ることが少なくなったわたしたちの暮らしでは、唯一もんだいなのはわたし自身ということが顕わになった。いつの時代であれ、もんだいなのはわたしというこの身のことである。だけどこの身はつねに時代や社会とともにあるもの。だから時代や社会の起きているものごとばかりに目を奪われて、そのつど驚き、悲しみ、愁い、喜んでいる。
現代ではわたしというものが絶対で、いつもわたししかないようにさえ思っているもの。それで今日もまたこの身をわたしの思いにだけ振り回して不満だの自慢だのをやりながらすごしている。
つづく。