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安らうということ

2014-03-12 18:34:37 | 書簡集

 以前に書いたものである。

   「安らうということ」

 日々生きているということは、何か事が起きるということである。積極的にいえば、事を起こしている。それが、わたしの生きている現場になっている。しいて事が起きることを望んでいるわけではない。けれどわたしを生きてゆくことは事を起こしていくということで、ある。

 ここら辺りの山は低いそれゆえ沢も小さい。沢は小さいが水は常に流れていて、それをどの田でも引いて我が水としている。田をする者、村に住む者にとってはこの沢こそ源泉で生活用水もすべてこれでまかなう。ふだんは細々と流れている沢も時にくる大雨が続けば、これがあの沢かと思うほど大蛇に変身して、田の何枚でも呑み込みそうな勢いである。

 だから田の準備をする春先に、この沢に生えている草や灌木などは刈り払い、土盛りの弱いところは補強する。それゆえ田の耕地整理を大規模にするところでは、コンクリ溝を用水としている。用水としてのコンクリ溝は便利だし安心である。けれどメダカが絶滅種になったり、蛍の姿が見えなくなったのは、このコンクリ溝のせいであることは大きい。いったんコンクリ溝に落ちてしまったメダカや蛍の幼虫は、どこにも引っかかるところがなくて、そのまままっすぐ大きな川に流されてしまう。沢だと淀みや滯っている場所ができて、そこから田に帰ったり、そこを棲み処とするものもできて、沢の生きものたちにとってはよきところらしい。

 思えばわたしたちの暮らしぜんたいがこのコンクリ溝のようにスムーズに流れるようにやってきた。滯ることが少なくなったわたしたちの暮らしでは、唯一もんだいなのはわたし自身ということが顕わになった。いつの時代であれ、もんだいなのはわたしというこの身のことである。だけどこの身はつねに時代や社会とともにあるもの。だから時代や社会の起きているものごとばかりに目を奪われて、そのつど驚き、悲しみ、愁い、喜んでいる。

 現代ではわたしというものが絶対で、いつもわたししかないようにさえ思っているもの。それで今日もまたこの身をわたしの思いにだけ振り回して不満だの自慢だのをやりながらすごしている。

    つづく。

 


学ぶということ 2

2014-03-03 20:12:16 | 書簡集

 それは勉強のことだけでなく、スポーツであれ、ダンスや歌であれ練習すればするほど、その足りなさやだめさ加減が少しづつ解って、なんとかしょうとおもうよ。そしてそれはその技量や技術のことだけではなく、メンタリティのことだったり人としての器というか。自分なんかより、ずいぶん大きいと感ずる人に会ったり、深く生きていると思えるような人に出会うと、自分の小ささ、つまらなさを痛感する。そんなときだよ、本気で学びたいとまじめにおもうのは。

 日常の自分というのは、もっと勉強しなくっちゃとか、もうちょっとちゃんとやらなくっちゃぐらいのことは、思っている。思っているけれど、人として生きることというのは、ときに自分の容量以上の虚しさや悲しみ、苦しみに出会っていく。そんな虚しさや悲しさ、苦しみに出会うと今までなんとなく思い描いていた「イイ大学」とか「イイ生活」「健康」「お金」などといったものが、ちょっと色あせてしまい、自分がほんとうに生きるって何。「人生」とは、「自分とは」などと真剣に自分自身に問うているよ。

 そんな問いが自分自身にはっきりとすればするほど、今までの学校での勉強や技術を習うだけの方向ではつかめないなということを直感するよ。

 ぼくたちは食べ物を食べて毎日を生きているけれど、じつはことばもたくさん食べて生きている。ことばというのは、ものを分けることから生ずる。ものを分けることによってひとつひとつに意味を与えていく。しかしながらぼくたちの生きていることの実際のひとつひとつはわけられない。意味づけできないもののうえにある。 

 ぼくたちは言葉を食べて生きているということと、意味づけできないナマなものとしているということと、まったく矛盾したまんまをやっている。そして厄介なことにこの矛盾したまんまということを、アタマというやつはわかろうとしないから、どこまでもわからないんだ。わからないというと、あっそうか、わからないんだと解ってしまう人がいるけれど、このわからなさはいつも現在進行形としてあるものだから、解ったという理解をすると、違う方向に流れるんだ。矛盾するということは、ものの真実のありようで、このことはじつは多くの大人たちもほとんどわかっていないからね。ゆっくり学べばいいと思う。

 知恵や知識、技術を学ぶということはもちろん大事なことだけど、それらをつめこむことだけが学ぶと言うことかというと、それは序の口の学びで、それからの学びは自らの問いが明らかになっていくことだよ。問いよりも答えを明らかにと思うけれど、じつは一つの答えが出てくると、その答えがもっと違う問い、つまり答えるごとに問いが深まっていくんだ。そういうことを繰り返していると、問いが深まり広まってそのことは同時にわたしという生き方そのものが深まり広がるんだ。

 学びというのは生きる力そのものだから。わたしというものの、どうも根幹なんだね。

  おわり


学ぶということ

2014-03-01 21:12:44 | 書簡集

  このところ以前に書いたものを、載録している。以下の文は、高校生向けに書いたもの。

    「学ぶということ」

  あなたは、学校へ行って楽しいかな。楽しいと答えた人は、うらやましいなぁ。ぼくは劣等生ということもあってか、学校という場は居心地のよいものではなかった。だから、学校が楽しいと思える人は率直にすばらしいな。

  学校という場は決して楽しくはなかったけれど、今から思うと色んなことを学んだ。国語や数学なども習ってはいたのだろうけれど、ぼくの場合そんなことの内容はすっかり忘れていて、その時の先生の態度や生徒一人一人の反応から、知らぬまにたくさんのことを学んでいたように思う。

  学校という現場は、ドングリの背競べというか、狭い集団社会の中で各自がかなり本気で角をぶっつけ合うから、傷つく者や驕る者などが露骨になっている。それは同時に自分というものがさらされる場でもあるから、大切な友と出逢う場でもあるよ。そういうことを身をもって学ぶ場が学校でもあるよね。

  世の中には色んな人がいるから、色んな学び方を身につけている。映画で人生の大切なことを学んだと思っている人。文学や音楽の出会いで人生を学んだという人。職人や学問の世界で学んでいる人など多様だよ。しかし決して忘れてならないのは、親や祖母たちの背中である。それは反面教師であれ、そうでないのであれ、最初の先生だよね。そして、あたりまえのことだけどつい見逃していることは、いつのまにか字が書けて読めて、算数もそれなりにできている。しかもふつうに人と自由に会話ができるようになっていることだ。へいぜいはちっとも気がつかないけれど、じつはこのことがもっともすごいことじゃないのかな。

 そうはいうてもそのことになかなか本気で驚けないよね。狼少年のことを知っているかな。犬の子が仮に猫のオッパイを吸って育っても、猫にはならないよね。そのお母さん猫を、母さんと思ってジャレついて、いつのまにか子の犬の方が大きくなってはいるけれど、ニャオとは鳴かずにワンと鳴くよ。しかしながら、人は違うというはなしだ。たまたま小さな時に狼に育てられた姉妹が、人に発見された時は、四つ足で歩きウオーンと鳴いたということなんだ。これは人は人だけは、人の子として生まれたから人になるわけじゃないということだよ。このことはじつはとても大きなことだ。君たちの中で仮に親や周りの大人たちに対して恨みを持っている人はいるかな。あなたが今ふつうに人と話せて、本も読むことができるというのは決してあたりまえのことではなく、小さな時に大事に育ててもらったから、今のぼくたちがあるということを。

 こんなことがあったよ。以前に児童養護施設を訪れていたことがあってね。そのときに会った彼の顔がいまだに強烈に焼き付いているんだ。のっぺぼうの怪談のはなしを知っているかな。要はこんな顔カエーと振り向いてみせる顔に目も鼻も口も何にもない顔のはなしだけど。その彼ぼくが会った頃は15歳と係の人が言っていた。初めて会った時、ほんとにぎょっというかんじで声は出なくて飛び上がったんだ。だっていままでそんなのっぺらぼうの顔に会ったことがなかったからね。

 どうしてそうなったのかとそこの先生が言うには、彼生まれてから親にまともに抱っこされたこともないのじゃないか、食事も押し入れのなかでまるで猫にエサをやるようなかんじで与えられていたらしい。5、6歳のころに発見されてそれから施設にいるらしいけれど、もう言葉も話せないし感情もないかもと。そう狼少年の現代版だよね。

 学びはまねをするということからはじまっているから、ぼくたちは基本的に学ぶことが好きなんだ。生命欲求のもっともっとという意志が、自分を向上させたい、伸びたい、もっと進みたいとおもっているんだ。

    つづく。


「私」ということ 4

2014-02-27 20:44:22 | 書簡集

 フランスの市民革命などによって、この個は基本的人権を有する1人の人を誕生させたのでした。それは、私という一個の人が、この社会を、国を作っていくことで、その基本的人権を守り育てていくという民主主義の理念をたちあげたのでした。そうして現在にいたっているのですが、私たち日本人にとっての個は、ちょっとずれているようです。この社会や国を作っているのは私たちという意識よりも、いまだにどこかよそ事で、「お上」という政府にたいして、人権を要求するだけのねじれた個になっているようです。

 そして敗戦、経済復興と向うのですが、お米の自給率がようやく100%に達した1960年頃を境に社会の様相が著しく変化します。それまでの産業構造は、農業などの第一次産業が6割強、製造業などの第二次産業が3割、残りの1割弱がサービス業の第3次産業でした。それが、わずか30数年でその比率は逆転します。第1次産業が1割弱、第2次産業は変わらず3割、第3次産業が6割強なのです。こういう社会のあり方を、高度消費社会というのだそうです。労働者である私たちが同時に消費することで、社会全体の経済が循環する構造なのだそうです。

 このことは、「私」というあり方にも大きな変化をもたらします。自我の拡大です。それまでは、神という重しがあったり、日本人で言えば神々という怖れがあったり、世間体という常識観が自我を抑える歯止めになっていたのです。それが、自我は欲望そのものですから、私が満足することだけが優先されつつある社会になっているのです。そのことが、家族の崩壊、夫婦、親子ということの人間関係の基本的なあり方が見えなくなってしまった社会でもあるようです。

 私たちは、「豊かさ」が「幸せ」をはこんでくれると、今でも幻想を抱いて動いています。しかし、その影で貧困が、飢餓社会が戦争が起きているという構造も知りました。そして地球環境という私たちの生命基盤も、とてももろく弱い存在であるということも明らかになってきました。

 さて、私たちに未来は開けているのでしょうか。私たちの周りを見渡すと、相変わらず欲望を満たすための商品にあふれ、その一方で健康法、健康食品、ハウツーものの自分探しなどが氾濫しているのです。もう人類社会に未来はないのでしょうか。などという早急な結論を探す前に今の私たちは、却ってこの地球から、人類社会から、「私」というあり方が問われている時代なのだと思います。

 客観的には「私」と言う人も一個のものです。しかし、この何者かをわたしと呼んだ時、一個のものではなくなるのです。そこには大きな事件が広がっていることを、知ろうとはしません。個というのは言わば概念のはなしです。そうではなく、このものを私と呼べるのは相手があって初めて成立するのです。つまりあなたと呼べるものがいて、私がいるのです。いつでも関係存在のなかでしかこのものはありえないのです。もっといえば、あらゆるものとのつながりのなかで初めてわたしというものがここにいるのです。ヤマモミジを見て魂がふるえるというのは、古の人のはなしではなくわたし自身がすでにそういうものを秘めているからでした。

 「自分」「個」「自我」というあり方が、ごちゃ混ぜになっている私から、「私」を取りもどすには、この何者かをわたしと呼んでいることそのものが、答えとしてあり、同時に大きな問いとしてあるということを、私たちはこれから学ぶ必要があるのだと思います。

  おわり。


「私」ということ 3

2014-02-26 20:14:52 | 書簡集

 封建制度ということは、士農工商という身分制度がはっきりと定まっていることですから、なによりもお上のご威光というものを頂点にして、個人ではなく家を中心にして世の中は動いていたのでした。つまりは侍の子は侍に、百姓の子は百姓に、大工の子は大工にというように、よほどの天変地異か凶作でもない限り、平和で泰明な世の中であったらしいのです。事実、江戸末期ヨーロッパ諸国から訪れた人々の感想は、何れの町並みも美しく、治安はよく、みな清潔で、徳育がすぐれていることに驚きの声をあげているのです。

 この時の「私」の暮らしは、家というものが中心の生活のせいでしょう。何処の家でも必ず仏壇と神棚があり、毎朝毎夕ご先祖さまと神々との交流のなかで日暮しがあったようです。

 私、自分というあり方は一人称なのですが、同時に二人称や三人称にもなっていて、ときにはそこらの木や草や動物たちにも、この自分を同化していく。つまりは自分と言うありようそのものの境界線がはなはだあいまいであるのです。これは一つには神々がとても身近な存在としていたということとも関係が深いのだと思います。

 明治に入りました。富国強兵です。それまでの農本主義から産業社会へ建て替えです。そこで欧米から産業にまつわる機会から道具、技師までも輸入して力を入れました。そしてそれらにともなう政治や軍事システムを初めとして、法律、教育、医学、経済、芸術、文化などとあらゆるものを人をも含めて、輸入したのでした。

 この当時の西洋でも科学技術文明などの進展とともにキリスト教教会の権威は弱まるばかりでしたが、個と言う概念はある意味顕在化されます。ともあれ、個という思想が西洋文明の中心としてありますから、学びました。そのことが、政治や文学などにすぐ現われました。

 個という概念は、天地創造せし神から与えられたものでした。いわば神との契約によって生じた個であります。今でも日本人にとっての個は、上っ面の形だけのものしかありません。けれど彼ら西洋人はとうぜんのことながら何千年もかけてその個を暮らしのなかで、文化のなかで育ててきました。

   つづく。