以前に書いたものです。
「ほんとうのこと」
人として生きるということは何なのかということが解らぬまま、学生の時から身にあった仕事を選び、仕事をすることが人生だと何故かレールが敷かれてある。そこに疑問や戸惑いを感ずることは許されない空気である。しかしよく考えてみれば、私を生きるとはどういうことなのかがわからぬまま、どこへ行くともどこに向ってがぼやけたまま、生きてしまっていることに茫然自失する。
日常の営みというのはせわしい。仕事に追われ追われていると夜が来て、夜が来れば早や朝がやってくる。そして今日も一日が始まるというのが日々の過ぎ来し方だ。そういう日暮しをしていると、私がいつのまにか道具存在化する。私はたんなる道具ではない、機械ではないということを、さも証明するかのように、人は無用のことをする。1人さびしさをかみしめる。生きることの何たるかを考える。思い巡らす。読書する。やがてそんなことのくり返しにも疲れ、友との気楽な語らいに遊び、酒を、異性をギャンブルにと多くの人がやっているであろう人生のくりこし方を覚える。
生きていることの真実、ほんとうさというものは、真正な問いから生まれてくる。それも唐突に訪れる。この真正な問いは、なんとなく解っているとか、だいたいこんなことなのだろうなどという高のくくりかたとは対極のところにある。いわゆる感覚だけはその生きることの問い、躍動感を身体のどこかで誰もがおぼろげながら知っている。その知っていると言うことだけで、もう何事かが解ってしまったようにさえ思っている。そこから先、己がむなしさやさびしさと対峙し、私自身を見つめつづける間がいる。つまりせっかく訪れている真正な問いに立ち向かおうとはせず、その場限りの日送りをしてしまう。 つづく。