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大根

2015-08-24 20:50:43 | 書簡集

  大根の種まきである。昨日は畑の草刈りだった。今日も草刈りからはじめて、耕耘、畝立てなれど、耕耘の前に草刈りをしたものを畑から出してやらにゃ耕耘して草をすきこんでしまっては、後の作業が面倒になるのだ。これが結構手間がかかる。種をまくのは大根、大蕪、小蕪、玉葱。大根は冬になくてはならぬものだし、沢庵もたくさん漬けるからかなりの面積を使うのだ。そんなこんなやっていたら畝を立てるだけで、種まきは明日以降になったのら。


不安ということ 7

2015-02-27 15:29:47 | 書簡集

 京都の内山興正老師のところには、そんな胸に穴の空いた、虚無を抱えたものたちが内外をとわず集まっていた。1970年代のことである。内山老師は、坐禅は思いの手放しの姿勢であると言われた。だからご提唱の折も、かたはらのハンカチを手に取って掴んで持ち上げた手を放すとハンカチは落ちる。握りしめて自分だ!自分だとやっているけれど、放てばこの通りなんにもなく落ちます。皆さん、思い手放しが大事です。と、繰り返し申された。

 ところが少しでも坐禅されたものなら解ることですが、足を組み、手を組んで壁に向かってただ坐っていると、アタマののぼせは下がるどころかはじめのうちは、まるでアタマの中が沸騰するかのように手持ち無沙汰が高じてか、思いはこれでもかと次から次とでてくる。やはり血の気が盛んなあるアメリカの青年が、ついに我慢できず老師のところに悩みを打ち明けに。日本の雲水たちは、ある時間になると居眠りするものが多いけれど、わたしなどは気持ちよく居眠りもできず、坐っているあいだだじゅう妄想がひどく襲いかかってくる。特に女性のことを考え出したら、今まさにそこに裸体の彼女が出現するくらいで、これは日本人のように淡白でないせいなのでしょうか。わたしなどは坐禅に向いていないのでしょうか。と。

 その頃の僧堂の日程は、毎日1日9時間の坐禅。それに摂心というて毎月5日間は無言で、1日14時間の坐禅を集中してやっていた。彼のアメリカ青年はけっして人ごとではない。老師はそのことをみんなに紹介しながらおもむろにいわれた。わたしもそうです。いまでこそ年の加減でそんなことにふり回されないのですが、基本は同じです。その都度思い手放しがたいせつなどといわれるのだ。

 そんなことをしながらも悶々と日々を重ねていたある日、アタマのなかにかかっていた霧や雲が一挙に晴れ上がって、なんとも言われぬさわやかなかんじ、すべての人やものと一体になって今ここにあらゆるものとひとつになっているような感覚を味わうことになる。こんな思いも自分を邪魔する。老師は、それはたまたま温度と湿気の加減でそうなっただけのはなしで、そんなものを掴んでサトリなどとふり回さないようにと、諭されるのである。


古事記のこと

2014-10-29 20:36:29 | 書簡集

 古事記のことを山本健吉が色々書いているが、「古事記が古代の日本民族の想像力の発現を、もっとも広いひろがりにおいて見せているということである。そこに展開される心象は、あるいは超自然的なものであり、あるいは社会的なものであるが、それらはある象徴的な表現によって普遍的な意味を担いながら、彼らの思想や喜怒哀楽の生活感情を生き生きと再現しているのである。」物語としては神話であるから、退屈するかと思っていたところがあった。これは見事にはずされた。1300年前に書かれたということは、個人の一生という時間のサイクルから見れば、途方も無く遠い昔のことになる。しかし氷河時代の4万年前にこの列島に今の人種が入って来たハンターたちからみると、古事記に書かれていることははなはだ私たちの感覚そのものである。とても人間くさいのである。ともあれ読み方次第で如何様にでも読めると言うか。こちらが深く読めば読むほどに手応えも、充実感も増すということは言える。そんな読み物なのである。


通信

2014-09-26 20:10:06 | 書簡集

  「災害と祈りと」

 人が営む場には、必ずといって

いほど、災害は起きるものとしてある。

それはかんたんに言えば、この人とい
うものそのものが、大地にとっては災
いであるからであろう。
 地球という天体の皺にしがみつくよ
うにして生息しているわれら生物は、
太陽の黒点が増えた。どこかの火山が
噴火した。地下のプレートが少しずれ
た。というだけで、そのたびごとに何
やら大騒ぎである。災いを災害を恐れ
おののいて暮らしているのである。
 狩猟採集の民のころよりわれら人族
は、この荒ぶる大地に祈りを捧げるこ
とで、かろうじてこの皺にしがみつい
てきた。
 ところがこの人族が、この地球上を
いつのまにか我がもの顔で占拠し、道
具や技術の優れ物を使うようになって
から、なんでもこの道具や技術で、人
の力でできるものと錯覚してしまって
いる。
 その頃からわれら人族は、祈るとい
う行為を忘れてしまったかのようであ
る。グローバル化という経済主義は、
わたしというものを一個のものと化し、
そこの点と線を埋めるものだけに落と
しめている。それゆえ自力作用の強い
ものだけが、その点と線を拡げること
ができるかのように、一つのゲームと
して展開している。
 ほんらい、いのちというものは見え
ないものにつながれ、ありとあらゆる
ものに支えられ、あらそいながら共に
ここに生かされている。経済や国家が
あってわれらが生きているのではない
ことを、こんな時代ならばこそ、はっ
きりとさせねばならない。
 われらは新聞やテレビの窓から、茶
の間にいながら戦争や飢餓、また災害
を知っている。知っていながら、日々
の現象に追われ追われて、おのができ
ごとのなかだけで閉じている。いちば
ん願うべきは、この大地にひれ伏すこ
と、祈るという行為なれど、そんなこ
とどもはすっかり忘れて、まるで地球
外生物かのようにそれらを望遠してい
る。思へば、人がこの祈るという行為
を忘れた時から、それらの災害はもっ
とその荒ぶるさまを見せつけているよ
うにもおもわれる。
 この地球という星も、わたしといっ
ているこれも、なんのいみもりゆうも
なく、ただここにおかれている。
 それは奇跡などという知った言葉で
は表現できない。それこそ、仏典に示
されるように、大きな大きな岩を千年
に一度、天女が降りてきて、その羽衣
で岩をなでる。そうやってなでてこす
られることで、大きな岩が土になるよ
うな、そんな途方もない時なのだ。そ
れはおおよそ、人族ではとうていはか
り知ることができない時間、空間を経
て、そのわずかな縁によって、ここに
ただおかれている。そのものを地球と
いい、わたしといえるものとして、今
のこの生を与えられている。
 なれど、このわたしはわたしの力で、
わたしの思いでなんとかできると、ど
こまでもかたくなである。
 このわたしのなにを、どうできると
おもっているのか。食べること、出す
こと、人と出逢うこと、その一つ一つ
は支えられ、動かされるものとしてあ
るということを、このわたしはすこし
も思っていない。自分で、自分の力で
生きていると、どこまでもかんちがい
している。それゆえ、このわたしとい
う一人の上においても、祈りを日々暮
しのなかでおさめていくより、すべが
なき身の上なのであった。
 われらの先祖たちは、祈りを怠るこ
とは考えもできぬこと。祈り、そこに
はわれらの意味も理由もとどかない。
ただ五体投地することで、かろうじて
この地球上のすべてのものとつながっ
ている、安らかにという願いである。
それはまた同時に、どこまでも自分と
いう思いを中心にしてしか、ふり回す
ことができぬものの懺悔の姿でもある。
念仏や坐禅がそうである。家に内仏が
ある者はそこに手を合せる。近くに気
に入った宮さんやお寺があれば、そこ
にお参りする。自意識をなぶることし
かできぬこの身を、しばし大地にあず
けるそれが祈りであった。
            村田 和樹 


ほんとうのこと 2

2014-04-07 20:31:27 | 書簡集

 真正な問いを培養させない理由のひとつは、真実とかほんとうという言葉が日常のなかから消えかかっている。言葉が私たちの生きている確かな唯一の現場である。その言葉そのものが膨大な情報量とともに、はなはだうすく軽くなった分、真実とかほんとうなどはみえにくい。私たちがいつでも誤解してしまうのは、真実やほんとうなどというものは、言葉の問題ではなく人として生きていることの根幹そのもののことである。

 その意味では真実やほんとうなどというものはどこにもない。探さなければと思うと、この世間のどこかにそして誰かとまるで落とし物でもしたかのように探そうとする。しかし仮に見つかったとしても、それは私のなかのほんとうのものは何と言う思いの反映、つまり虚像であったり、真実というもののカケラにすぎない。

 真実やほんとうなどというものは、今ここでこのもののことを私といっているこれそのもののことである。この事実をぬきにしてどこにも探しようがない。とうぜんそのことは、時代とか流行りの問題などであろうはずもない。ところが私たちのありようは時代や流行りのなかで右往左往する。それならばこそ、はっきりとそのほんとうをこそ明らかにする必要があるのに、享楽的とでもいうのか、今が楽しければそれでいいじゃない。わざわざ辛気臭いことや面倒なことを考える必要がどこにあるのと、この身を誘う。オンリーワン、一度だけの人生、自分にしかできない生き方、楽しいライフプランなどと、もっとも大事なところで勘違いしている。

 生きていることの躍動感というのは、おもしろたのしく多くの人と出会っていくこととでも思っている。私と言うものを真っ直ぐ問うていくと、私と言うものは無い。無いということ無い無いだから、すべてのすべてのものが私である。そのありようのひとつひとつがじつは驚きと不思議の連続の連続である。

 けれど、私はと言っているこのこれは私の囲いであるから、この囲いは破られない。私というものは、この破られないということと、破られてしまっているということが私の身の上におきている。その事実を躍動と呼ぶので私が多くの人に飛んだりはねたりしていることではない。

 私が私として生きているということは厳粛な事実。この事実を真実といい、この事実を真実といい、この真実に触れるべく私たちの生は、却ってこの真実からうながされるようにして、今ここを生きている。  おわり