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迷う 4

2011-07-03 15:11:49 | 書簡集

そのつど、わからなさに出会っていくんだね。

 だからね、ちゃんと悩む。ちゃんと迷える人は古今、芸術家とか哲学者、宗教者になっているよ。グズグズ、クヨクヨ、イライラというのはいわばあたりまえでね。そこに落ち着くことなんか決してできないけれど、さりとて逃げるというか逃れることばかりをしなくてもいい。なにかねほんとうはこの世の中に決まったことなんかひとつもないしこれが正解、絶対正しいということなんていうのも無いんだ。ただ人っていつも集団でしか生きていけないから、その時のルールがあるということだけでね。じつは何もないし、みんななにか解ったような顔をして歩いているけど、結局のところ何もわかっていないんだ。

 ぼくたちは、なんとなく人生とか、人間とはなんていうことをどこかで解ってしまっている。というか錯覚してやっているよ。その意味では横一線に人間を並べて、そこに自分というものもはめこんで、あーでもない、こーでもないと比べ合いをするのが大好きなんだよね。

 悩むということや考えるということを、ちゃんとやったことがないよね。比べ合いの中で傷つけたり、つけられたと思ってグルグルするだけでね。ほんとうは何をやりたいのかやろうとしているのかとまじめに自分自身に問うとね、悩むよ。真剣に迷い、考えざるをえないよね。

 どんなにためになるような話を聞いても、おいしい言葉に出会って得した気分になっても、それらはいずれも自分で悩み、考えるうえでのヒントでしかないからね。悩むのも考えるのも自分だからね。すごくあたりまえのことだけど、自分しか自分のことを真剣に悩んだり、考えたりしないものね。


迷う 3

2011-07-03 12:17:43 | 書簡集

 いまここを生きる。ぼくたちは誰でも自分で想像するよりはるかに大きく深く、これそのものを生きている。絶対事実として大いなるものに守られ、支えられてしまっている。あんまりあたりまえすぎて、残念ながらほとんど実感が感じられないでいるね。そのありようと、これそのものから分かれてこれをぼくと言い放つということは、すでに分けてしまっているから、迷うものとしておかれてあるよ。

 つまり矛盾しているんだ。矛盾したまま一つのもの、手の平の内と外みたいなものだよね。手のつかむ方を開いてみると、その裏側は見えなくなるよ。見えなくなっても、別になくなる訳じゃないから、内と外とは同時にある。アタマの中では矛盾するけれど、いまここ絶対にこのままで完了しているということと、同時にぼくという世界は分けるということだから迷うということでね。まったく違う性質のものが同時に起きているんだね。

 アタマというか自意識というやつはいつでも自分中心に納得したがるというか整理したがるものやから、ここはどこまでもわからない。わからないまま、放り出すことはできないから、いつでも探しているし、求めているからね。


迷う 2

2011-07-03 11:38:37 | 書簡集

しかし思い通りにたいがいはやることできないから、グズグズ、クヨクヨする。

 そうやって緊張の糸をある程度、張ったりゆるまったりしている状態が、まあふつうのありようだよね。けれどその緊張の糸が何かのことで切れてしまうと、ひきこもってしまったり、病んだりということになるよ。緊張の糸がきれてしまうと、自分の殻をますます小さく固めて、オドオド、ビクビクやってしまうよ。

 どうもね、人っていうのはじんかんと書いて人と人の間でしか生きられないようにできているらしいんだ。だから孤りになってしまったと思うと、急にしぼんだようになって自分をもっと追い込んでしまうようだ。だけれどもね、ちょっと思い出して欲しいんだ。この自分のことをわたしと呼んでいる大いなるものがあるということを。あわてなくていいからね、誰でもが悩む、迷うものとしてはじめからあるということをね。

 だけれど、じっさいのところはもっとちゃんと悩んだり、困ったりすればよいものを、どうにかしてラクに治そう、立ち上がろうってそのことだけにある意味必死でね。何で悩んだり、困ったりしているのかということもどこかへ追いやって、治そう、立ち上がろう、こんなままじゃダメという思いにせかされるようにして、イイことを探しているよね。

そんなことでけんめいに何かをつかもうとするから、詐欺にひっかかったり、「宗教」にはまったりする人たちも多いよね。


迷う

2011-07-03 10:50:30 | 書簡集

 ぼくたちは誰でもが、いまここを生きている。いまベッドの上で入院している君や、部屋にひきこもってしまったあなたもその現実のまま、いまここを生きてしまっているすごさがある。そこは誰とも比べられないぼくっていう絶対事実のありようを生きてしまっているからね。すごいことなんだ。

 そうはいうものの、いまここという絶対事実をぼくたちは生きてしまっているけれど、いつもぼくたちはそのもっとも大切なことを忘れてしまって、グズグズ悩んだりクヨクヨ嘆いたりするよね。それって、絶対事実としてのいまここということより、自分の思いの方が強いからね。いまここということは、もっともリアルな現場なんだけれど。誰もこの臨場感をクローズアップなんかしてくれないし、いまここということを集中して思えば思うほど、かえって通り過ぎていくものとして意識するよね。

 それに生命活動というものがほんらいもっているであろう、もっともっとという躍動感が、今落ち着かせない。そこに向上心や進歩観までもあって、つねに今のこの状態ではダメで、先に何かイイことがありそうな幻影を追っているよ。それで頑張らなくては、努力しなくてはと責めている。


安らうということ

2011-06-11 23:21:55 | 書簡集

 

 

 

 

 日々生きているということは、何か事が起きるということである。積極的にいえば、事を起している。それが、わたしの生きている現場になっている。しいて事が起きることを望んでいるわけではない。けれどわたしを生きてゆくことは事を起こしていくということである。

 ここら辺りの山は低い、それゆえ沢も小さい。沢は小さいが水は常に流れていて、それをどの田んぼでも引いて我が水としている。田をする者、村に住む者にとってはこの沢こそ源泉で生活用水もすべてこれでまかなう。ふだんは細々と流れている沢も時にくる大雨が続けば、これがあの沢かと思うほど大蛇に変身して、田の何枚でも呑みこみそうな勢いである。

 だから田の準備をする春先に、この沢に生えている草や潅木などは刈り払い、土盛りの弱いところは補強する。それゆえ田の耕地整理を大規模にするところでは、コンクリ溝を用水としている。用水としてのコンクリ溝は便利だし安心である。けれどメダカが絶滅種になったり、蛍の姿が見えなくなったのは、このコンクリ溝のせいであることは大きい。いったんコンクリ溝に落ちてしまったメダカや蛍の幼虫は、どこにも引っかかるところがなくて、そのまままっすぐ大きな川に流されてしまう。沢だと淀みや滞っている場所ができて、そこから田に帰ったり、そこを棲み処とするものもできて、沢の生きものたちにとってはよきところらしい。

 思えばわたしたちの暮しぜんたいがこのコンクリ溝のようにスムーズに流れるようにやってきた。滞ることが少なくなったわたしたちの暮しでは、唯一もんだいなのはわたし自身ということが顕わになった。いつの時代であれ、もんだいなのはわたしというこの身のことである。だけどこの身はつねに時代や社会とともにあるもの。だから時代や社会の起きているものごとばかりに目を奪われて、そのつど驚き、悲しみ、愁い、喜んでいる。

 現代ではわたしというものが絶対で、いつもわたししかないようにさえ思っているもの。それで今日もまたこの身をわたしの思いにだけ振り回して不満だの自慢だのをやりながらすごしている。

 大根の種蒔きをする。大根の種を蒔くよき日は四、五日くらいしかない。ここではそれが八月二十日から二十五日のあいだである。もちろんその二週間前だろうが、後だろうが、種蒔きをすれば芽は出る。しかし二週間前に出た芽は虫に喰われることが多く、二週間後のものは、成長がまにあわなくて雪が降ってもまだ細いままである。農薬や化学肥料に頼らなくてやろうとすると、おのずと蒔く日も限られてくる。

 草を刈る。耕運機で耕す。鍬で畝を立てる。畝はここでは六十センチ幅である。そこに二条植えをする。ふかふかになった畝の上を地下足袋で三十センチ間隔で踏んでいく。先方まで踏みしめたら今度は、千鳥になるようにして帰ってくる。その踏みしめたかかとのところに、種を五、六粒パラリとくっつかないようにしてまくのである。基本的に野菜たちは雑草と比べたら、はるかに過保護な育ちなのだ。だから双葉が開いて十センチぐらいの菜っ葉に成長するまでは、虫に食害され、残暑の乾燥にも弱い。集団で育ててある程度の大きさの時から、間引きといってちゃんと太ってくれそうなものだけを残して、二回から三回に分けて菜っ葉をつむのである。この間引き菜、これがまたじつに美味しいものなんだ。

 これら一連の作業はとうぜんのことながら、わたしがするのだけれど、大根から教えられるというか、その事そのものにわたしがついていく、したがっていくというかんじである。わたしを生きているという現象のほとんどは、じつは草が伸びたから刈る。時がきたから大根の種を蒔く。来客が来たからお茶を呑む。という具合で、じっさいはわたしの思いで振り回すどころか、それら土や種や鍬や鎌などとともにここにある。鎌を研いだり、鍬で畝を立てたりのすべは楽しい。本人はいたって大真面目であるけれど、それらと遊んでいるかのようだ。

 わたしというこの身がここにおる。存在ということを、とらえられそうでいつもとらえきれない。わたしというこのもの、ここにあるというまったく単純な事実に触れていながらいっこうに触れられない。いつも何かがそこにはさまってあり、いつも触れられないまま、モヤがかかっている。いざここにこのものをこの身をこのままおいておくと、人としての意味が剥奪されるような感触に襲われる。しかしそれはそのままただしい。

 ただここにこの身をおいておくことが、はなはだたよりないからこそ、現象や意味にすがろうとやってきた。けれどかえってその現象や意味から追いやられるような感じで、この身だけがこのままここにある。あらゆる人としての意味が剥奪されてただここにある。

 そのあるということが、人とかいのちということをも越え出て、安らうという感触もないまま安らいでいる。わたしという現象は、いつも悩み、迷い、悲しみ、歎き、喜び、泣き、笑っている。悩み、迷うというその自我意識のまま、その底でわたしという存在、あるがしっかりと支えている。     

 


                                                             2011年3月15日                                         

                                                                           輪島市三井町与呂見

                                                                                  村田和樹