私の意識、思いが変ったと、言える時はどんな時だったろうかと思いめぐらしている。
幼い頃から持っていた病気のことかなと思ったり、親との関係、学校でのこと、先輩や先生との出会い、きっとそんな諸々の経験が、今の私を形作っているにちがいないと思っている。
しかしながら、そんな直接的な経験以外のところで、決定的な影響力を、本人も知らないあいだに受けているものがあるのではないか。
それは、私たちが住んでいる時間・空間がいつのまにか、狭くなった、縮んでいるということが、私の意識、思いを変えさせている根本なのではないかと思った。
農業の現場でいえば、農業機械、農薬、化学肥料の登場は、昭和三十年代当時、画期的な様相があった。驚くほど仕事が省力化され、おまけに収量も増加する現実に、またたくまに機械化農業が普及した。そして事実、やっと米の自給率百%に達するのは、昭和三十年代も後半に入ってからなのである。
周知のように、このことは農業人口の大半がその後の高度経済成長を支える労働力として流れ、都市はますます拡大し、道具や商品は町にも村にもあふれるようになった。 そうやって四十年余り、現在の農村地帯はどうであろうか、特に大規模農業化しにくい山間地の農村では(全体の三割)、年寄りがほとんどの忘れられた状態なのである。
忘れられた状態の村は、新しく町から移り住んだ私にしてみれば、静かで落ち着いた場所なのであるが、それにしても毎年村人が減り続け、それとともに歯が欠けたように、耕作しない田んぼを見るのは、とても辛いものがある。
そんな村人たちと喋っていていつも思うことがある。皆、昔の話しになりだすとその大変な苦労話を活き活きと語りだすのに、それ以後の話は、いつも一向にないのである。
自らの手や牛馬を使って耕運などをやっていたときは、自ら精出してやった分だけが確実に、収量として出てくるわけだから、やり甲斐も生き甲斐も十分手応えがあった。
けれど、機械化するといことは、その道具の扱い方はもちろんのこと、化学肥料や農薬の実際のやり処は、農業指導員などに指示を仰ぐしか、方法がなかったのである。
このことは、自らが苗を見、触れながら育ててきた自信や勘どころを、半ば放棄せざるを得ない破目におちいっていたのだ。
この喪失感は、農業の現場にだけ起きた現象ではない。あらゆる分野、私たちの暮しのすみずみまで機械化、商品化の流れがゆき渡りその結果として人をして、時はカネなりの標語がそのままの暮しを、しいられてきたのである。
そしてこの喪失感は、人間だけのことではない。農薬、化学肥料漬けになった田んぼは、この四十年の間にほとんど土は瀕死の状態。田んぼに雑草はおろか、虫が住める環境でないところから穫れたお米が、人の、いのちを育む食べ物といえるだろうか。
この構図は鶏、牛、豚などもまったく同じである。余計な運動ができぬように狭いゲージに閉じこめ 、高タンパク質の飼料で、効率的に太らせる。その結果、とうぜん免疫力は低下、抗生物質の投与という姿はまるで今の人間社会の縮図であると思える。
およそこの商品化の流れは、とどまるところを知らず、知識や情報も無論のこと、人間自身も一個の商品になっている。
イラク戦争や各地の紛争、そしてグローバリゼーションという名のアメリカ主義の世界化も、実はこの商品化、経済効率のあいだで起きていることが根幹なのではないかと疑っている。
時間の問題も同じようなことになっている。商品は、日進月歩する。たとえば電話の変わりようはすごい。ケイタイと呼ばれる、色んな機能満載のものは、これからも日々進化進歩するものとしてあるのだろう。
この商品の進化のリズムが、何故か人間にもあてはまるような錯覚を抱いてしまっている。幼児期から少年期、青年期そして会社へ入ってからも遅れることがダメなのだと、どんどん進化することを要求されるのは、それら商品のもつ進化性の写しになっているのだろう。
ここでも人は、一人のひとであることよりも、仕事ができる有能な商品たることを常に要求されてしまっている。
時間も空間も、もはや生物たる人の範囲をはみでて、経済効率という商品がもつ幻想にひきずりまわされている。
私たちは、家族という人間関係のなかから生まれ、育まれ、やがて社会という共同体のありようを習得していく。そして世間、国家、世界というものがあることを学んでいく。
しかし、多くの場合この与えられた知識、情報がすべてであると思っていて、疑うことができないでいる。問いが自らのなかで欠落していて、答えばかりを探しているのだと思う。
およそ、百五十年程前の人たちは、仕事するとはどういうことか、生きるとは、人間とは、夫婦としてあるということはなどといった問いは、ほとんど不要だったはずである。侍の子は侍に、百姓は百姓に、商人は商人の道を生きるのが普通のことであり、そのありように疑いも、問いも特別の例を除いて、なかったと思える。その時代のありようぜんたいが、現代社会から見れば神話的世界のなかで、すっぽりと納まっていたからである。
そこには問いは、必要とされなかったのだ。そこには共同体が、文化がそしてなによりも時間、空間が人のぬくもりとしてあったのだと思う。
さて、一つの商品の開発、変化、進展が私たちの暮し、時間、空間を大きく変えさせてきたのは、前述の通りである。
この経済効率の流れは、人をも一個の商品になった。その結果、家族、共同体などの枠組みから無理やりはがされるようなかたちで、ひとり孤独観を各人が、それぞれの場で感じとっているのだ。
この寂しさから逃れるために、紛らわすために、色んな運動があり、事件があるのだろう。
この孤独観と一個の商品であるというあり方は、表裏一体の関係にある。一個の商品、言いかえれば、私が私にたいしての思い入れなどが一切通じないもの、ただの一個のものであるという自覚は、古来から宗教、哲学的に問われてきた大きな命題ではなかったのか。
そのことが時代の流れ、商品化のなかでこの一個のものであるというあり方が、いやおうなく私たちに顕わになってしまったのが、現代なのではないかと思う。
古への師父や先人たちは、この一個のものという自覚をえるために、その時代の共同体、世間、常識観と闘いて、それらを突き破るようにして獲得してきた、いわば少数の人たちであり、大いなる知恵であり、自らを培ってきた一番の栄養源なのだと思う。
ところが、現代では誰でもこの状態を見せつけられているのにもかかわらず、そのあり方をはっきりと認識できないでいるのが、今の私たちの姿なのではないかと思う。
宗教よりも科学の合理性に、活路を見出して、私たちは歩んできた。そして、その科学的合理性に裏付けされた経済学を、政治を試みながら、失敗を繰り返して現在にいたっている。
これからの私や、人類未来の先行きが、まったく見えない状況に、いま立たされている。かつてのような宗派的宗教はよみがえらないし、復活しても困る。さりとて、これからの思想原理などと模索しても、混迷を深めるばかりなのだろう。
今、私たちが味わっている孤独観を、あらためて見つめ直す時がきたのだと思う。
この孤独観の寂しさから逃れることなく、紛らわすことなく生きるのには、どうしたらいいのかと思う。
それは、返ってこのさびしさをこそ大切にするということが、私が私を生きていく道を開いていく。そのことが、私を生きていく力への意志となっていくとおもう。
さびしさを大切にするということは、どういうことなのだろう。
私たちは、ともすると一人で居ることは、寂しいこと、辛いこと、つまらないことと感じている。けれど、実際的に大勢の人の輪のなかでいるときや、気の合った友人たちといるときの方が、寂しさや孤独感をひそかに感じている時もある。
そして、一人になった時いつもテレビや音楽をつけて、ひとりという空間をそのまま放っておくことをさせないで、うつろでいる。
そんな自分から解放させて、ともあれボーとした時間をしばらく自分においてやる。
寂しさから、これまで無意識的、自意識的に遠ざけていたのを、寂しさはつらいことだけじゃない、大事なことでもあるぜと、自分にいいきかせてやる。
そうして、ひとりという空間を少しずつ味わっていくと、一杯の水やごはんが腹の底からうまいと言うだろう。
空の青さに、星の輝きに吸いこまれてしまうだろう。
名も知らぬ花が、いま私に向かって話しかけているのを、受けとめるだろう。
今、息を吸ったり、吐いたりしている自分にびっくりしたり、今そばにいる人がこんなにも、あたたかいことかと驚くだろう。
そんなひとりという場から、あらためて今の私のありようを、社会をとらえ直してゆく。そのあたりまえのさびしさという場からしか、このわたしはいつも出発できぬものとして、おかれてあるように思う。
2004年6月15日
輪島市三井町 与呂見
村田 和樹