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さびしさ

2011-06-11 23:18:49 | 書簡集

 

 

 

 私の意識、思いが変ったと、言える時はどんな時だったろうかと思いめぐらしている。

 幼い頃から持っていた病気のことかなと思ったり、親との関係、学校でのこと、先輩や先生との出会い、きっとそんな諸々の経験が、今の私を形作っているにちがいないと思っている。

 しかしながら、そんな直接的な経験以外のところで、決定的な影響力を、本人も知らないあいだに受けているものがあるのではないか。

 それは、私たちが住んでいる時間・空間がいつのまにか、狭くなった、縮んでいるということが、私の意識、思いを変えさせている根本なのではないかと思った。

 農業の現場でいえば、農業機械、農薬、化学肥料の登場は、昭和三十年代当時、画期的な様相があった。驚くほど仕事が省力化され、おまけに収量も増加する現実に、またたくまに機械化農業が普及した。そして事実、やっと米の自給率百%に達するのは、昭和三十年代も後半に入ってからなのである。

 周知のように、このことは農業人口の大半がその後の高度経済成長を支える労働力として流れ、都市はますます拡大し、道具や商品は町にも村にもあふれるようになった。 そうやって四十年余り、現在の農村地帯はどうであろうか、特に大規模農業化しにくい山間地の農村では(全体の三割)、年寄りがほとんどの忘れられた状態なのである。

 忘れられた状態の村は、新しく町から移り住んだ私にしてみれば、静かで落ち着いた場所なのであるが、それにしても毎年村人が減り続け、それとともに歯が欠けたように、耕作しない田んぼを見るのは、とても辛いものがある。

 そんな村人たちと喋っていていつも思うことがある。皆、昔の話しになりだすとその大変な苦労話を活き活きと語りだすのに、それ以後の話は、いつも一向にないのである。

 自らの手や牛馬を使って耕運などをやっていたときは、自ら精出してやった分だけが確実に、収量として出てくるわけだから、やり甲斐も生き甲斐も十分手応えがあった。

 けれど、機械化するといことは、その道具の扱い方はもちろんのこと、化学肥料や農薬の実際のやり処は、農業指導員などに指示を仰ぐしか、方法がなかったのである。

 このことは、自らが苗を見、触れながら育ててきた自信や勘どころを、半ば放棄せざるを得ない破目におちいっていたのだ。

 この喪失感は、農業の現場にだけ起きた現象ではない。あらゆる分野、私たちの暮しのすみずみまで機械化、商品化の流れがゆき渡りその結果として人をして、時はカネなりの標語がそのままの暮しを、しいられてきたのである。

 そしてこの喪失感は、人間だけのことではない。農薬、化学肥料漬けになった田んぼは、この四十年の間にほとんど土は瀕死の状態。田んぼに雑草はおろか、虫が住める環境でないところから穫れたお米が、人の、いのちを育む食べ物といえるだろうか。

 この構図は鶏、牛、豚などもまったく同じである。余計な運動ができぬように狭いゲージに閉じこめ 、高タンパク質の飼料で、効率的に太らせる。その結果、とうぜん免疫力は低下、抗生物質の投与という姿はまるで今の人間社会の縮図であると思える。

 およそこの商品化の流れは、とどまるところを知らず、知識や情報も無論のこと、人間自身も一個の商品になっている。

 イラク戦争や各地の紛争、そしてグローバリゼーションという名のアメリカ主義の世界化も、実はこの商品化、経済効率のあいだで起きていることが根幹なのではないかと疑っている。

 時間の問題も同じようなことになっている。商品は、日進月歩する。たとえば電話の変わりようはすごい。ケイタイと呼ばれる、色んな機能満載のものは、これからも日々進化進歩するものとしてあるのだろう。

 この商品の進化のリズムが、何故か人間にもあてはまるような錯覚を抱いてしまっている。幼児期から少年期、青年期そして会社へ入ってからも遅れることがダメなのだと、どんどん進化することを要求されるのは、それら商品のもつ進化性の写しになっているのだろう。

 ここでも人は、一人のひとであることよりも、仕事ができる有能な商品たることを常に要求されてしまっている。

 時間も空間も、もはや生物たる人の範囲をはみでて、経済効率という商品がもつ幻想にひきずりまわされている。

 私たちは、家族という人間関係のなかから生まれ、育まれ、やがて社会という共同体のありようを習得していく。そして世間、国家、世界というものがあることを学んでいく。

 しかし、多くの場合この与えられた知識、情報がすべてであると思っていて、疑うことができないでいる。問いが自らのなかで欠落していて、答えばかりを探しているのだと思う。

 およそ、百五十年程前の人たちは、仕事するとはどういうことか、生きるとは、人間とは、夫婦としてあるということはなどといった問いは、ほとんど不要だったはずである。侍の子は侍に、百姓は百姓に、商人は商人の道を生きるのが普通のことであり、そのありように疑いも、問いも特別の例を除いて、なかったと思える。その時代のありようぜんたいが、現代社会から見れば神話的世界のなかで、すっぽりと納まっていたからである。

 そこには問いは、必要とされなかったのだ。そこには共同体が、文化がそしてなによりも時間、空間が人のぬくもりとしてあったのだと思う。

 さて、一つの商品の開発、変化、進展が私たちの暮し、時間、空間を大きく変えさせてきたのは、前述の通りである。

 この経済効率の流れは、人をも一個の商品になった。その結果、家族、共同体などの枠組みから無理やりはがされるようなかたちで、ひとり孤独観を各人が、それぞれの場で感じとっているのだ。

 この寂しさから逃れるために、紛らわすために、色んな運動があり、事件があるのだろう。

 この孤独観と一個の商品であるというあり方は、表裏一体の関係にある。一個の商品、言いかえれば、私が私にたいしての思い入れなどが一切通じないもの、ただの一個のものであるという自覚は、古来から宗教、哲学的に問われてきた大きな命題ではなかったのか。

 そのことが時代の流れ、商品化のなかでこの一個のものであるというあり方が、いやおうなく私たちに顕わになってしまったのが、現代なのではないかと思う。

 古への師父や先人たちは、この一個のものという自覚をえるために、その時代の共同体、世間、常識観と闘いて、それらを突き破るようにして獲得してきた、いわば少数の人たちであり、大いなる知恵であり、自らを培ってきた一番の栄養源なのだと思う。

 ところが、現代では誰でもこの状態を見せつけられているのにもかかわらず、そのあり方をはっきりと認識できないでいるのが、今の私たちの姿なのではないかと思う。

 宗教よりも科学の合理性に、活路を見出して、私たちは歩んできた。そして、その科学的合理性に裏付けされた経済学を、政治を試みながら、失敗を繰り返して現在にいたっている。 

 これからの私や、人類未来の先行きが、まったく見えない状況に、いま立たされている。かつてのような宗派的宗教はよみがえらないし、復活しても困る。さりとて、これからの思想原理などと模索しても、混迷を深めるばかりなのだろう。

 今、私たちが味わっている孤独観を、あらためて見つめ直す時がきたのだと思う。

 この孤独観の寂しさから逃れることなく、紛らわすことなく生きるのには、どうしたらいいのかと思う。

 それは、返ってこのさびしさをこそ大切にするということが、私が私を生きていく道を開いていく。そのことが、私を生きていく力への意志となっていくとおもう。

 さびしさを大切にするということは、どういうことなのだろう。

 私たちは、ともすると一人で居ることは、寂しいこと、辛いこと、つまらないことと感じている。けれど、実際的に大勢の人の輪のなかでいるときや、気の合った友人たちといるときの方が、寂しさや孤独感をひそかに感じている時もある。

 そして、一人になった時いつもテレビや音楽をつけて、ひとりという空間をそのまま放っておくことをさせないで、うつろでいる。

 そんな自分から解放させて、ともあれボーとした時間をしばらく自分においてやる。

 寂しさから、これまで無意識的、自意識的に遠ざけていたのを、寂しさはつらいことだけじゃない、大事なことでもあるぜと、自分にいいきかせてやる。

 そうして、ひとりという空間を少しずつ味わっていくと、一杯の水やごはんが腹の底からうまいと言うだろう。

 空の青さに、星の輝きに吸いこまれてしまうだろう。

 名も知らぬ花が、いま私に向かって話しかけているのを、受けとめるだろう。

 今、息を吸ったり、吐いたりしている自分にびっくりしたり、今そばにいる人がこんなにも、あたたかいことかと驚くだろう。

 そんなひとりという場から、あらためて今の私のありようを、社会をとらえ直してゆく。そのあたりまえのさびしさという場からしか、このわたしはいつも出発できぬものとして、おかれてあるように思う。

                2004年6月15日

             輪島市三井町 与呂見

                         村田 和樹

 


そのそれ

2011-06-11 23:10:11 | 書簡集






 インドから一人の男が、中国の草深い田舎にやってきた。それから、百年ほどは発酵の時間だったのだろうか。が、唐時代に入って、俄然なにやら異様な男どもの集団がニョキニョキあらわれた。

 彼の集団は武装集団でもなく、さりとて女房、子供を養うわけでもなく、山深くを開き、田畑を耕しながら、ひたすら坐禅にのみ打ち込んだという。

 多くの人々は、彼の異様な集団をはじめは遠くから眺めているだけであったが、彼らの何れもが礼節正しく、すこぶる元気にさわやかに暮らしている姿を見て、坐禅宗と名づけたという。

 この唐時代、そんな異形のものたちが暮らしている山が、いくつもいくつもあった。そして、武者修行よろしく、一つの山寺で五年十年と過ごすと、あちらの老師のおる処へ、またこっちの山にはごっつい和尚がいるときけば、まさに行雲流水する雲水(修行者)の姿がいた。

 ある山では、そんな輩たちが五百人あるいは千人ほどもいるような大集団になっていた。そんな彼らはまだ禅宗とも名乗ることなく、百丈山のものです、などと答えたという。

 そんな唐時代に入って爆発するキッカケをつくった男がいる。初祖達磨から数えて六祖大鑑慧能である。この慧能和尚にはこんなはなしが残っている。

 慧能和尚は、樵夫であった。ある時、薪を背負って市中に売りに行った折、町角で金剛般若経の読経するのをきいて、にわかに発心し、五祖弘忍和尚のもとに参じた。

 弘忍和尚のもとでは、米つき小屋で臼を踏む仕事をしていた。

そうしたある日、弘忍和尚が大衆を集めてそれぞれの悟境を詩に、あらわしてこいと言われた。この大衆の中で、もっとも人格、器量ともに群をぬきんでていた神秀上座が、早速壁に詩を張りつけた。

 身はこれ菩提の樹、心は明鏡台の如し。

 時々に払拭して塵埃を惹かしむるなかれ。


 (身体は、さとりを宿す樹のごときもの、心はもと清浄で美しい鏡のごときもの、ゆえに、つねに汚れぬように払ったりふいたりして、煩悩のちりやほこりをつけてはならぬ)

 この詩を伝えきいた慧能が、無学文盲のゆえ、小僧に代筆させて次の詩を書いた。

 菩提、本、樹に非ず、明鏡もまた台に非ず。

 本来無一物、何れの処にか塵埃を惹かん。


 (菩提という樹も、明鏡という心もない。本来無一物だ。ちりやほこりのよりつくところもないから、払ったりふいたりする必要もない。)

 この詩を見た弘忍和尚は、慧能を自室に一人招き入れて、金剛般若経を講義したと。その中の一句「応無所住而生其心」(まさに住するところなくしてその心を生ぜよ)、慧能はこの句に至って、たちまち大悟したというものがたりである。


 つぎに南獄懐譲と馬祖道一のはなし。馬祖という雲水が懸命に坐禅修行をしておった。そこに師匠の南獄和尚がやってきて問う。

 「あなたの坐禅はなにをやっているのか」

 馬祖、「仏になろうと思っています。」

このとき南獄和尚そこらに落ちていた瓦を取り上げて、石上にあててとぎだした。

 馬祖ついに問うていわく、

 「師匠、一体何をしようというのですか」

 南獄いわく、

 「瓦を磨いて鏡にしようと思っている」

 馬祖いわく、

 「瓦をいくら磨いても鏡にはならないでしょう」

 南獄いわく

 「坐禅をしてどうしてそれが仏になるか」と。

 坐禅というとき、多くは厳しい修行とか、無念無想だの瞑想などというイメージをもっている。しかしここでのはなしはそうではない。

 道元和尚は、坐禅とは自己の正体なりという。

 自己の正体とは何か。

自己紹介する時、「私は○○からやってきました△△です」と言う。○○は居住地であったり、会社名、仕事の内容であったりする。△△は名前である。これが私の正体なのか。スパイ映画などでよくでてくる「お前の本当の正体は○○だろう」という話ではない。

 私の正体は何なのかと自身に問うてみる。真剣に問えば問うほど、答えに窮する。

 たとえば、ここに一本の木がある。これは何だと問うてみる。すると、ある者はこの木は「杉の木だ」と答えるだろう。「その杉の木とは何だ」とさらに問われる。すれば、この者はもっている知識を動員して答えるに違いない。「杉の木は、針葉樹で常緑で、春には花が咲き、その花粉が日本中をしてアレルギーを起こしている」などと答えるだろう。

 しかし、その答えは分類された概念の話で、これそのものの説明はこれだけではすまされない。「これそのものをいえ」と再び問われる。

 この者は、しずかにその木に近寄り、手で触れ、抱きしめる。そしてやおら

その木に耳をあてていたかと思うと、何とも神妙な顔をしながらいつまでもそこから離れない。

ゴオーともいえないような、妙な音が聞こえるのだ。この妙な音をきいたとき、はじめてこの者はこの木ともいえぬ、ナマナマしいいのちがたしかにあることを感応するのだろう。

 感応するナマナマしさは、実はこのわたしじしんのナマナマしさと共有、共感するものだった。

 私が私にたいして、どんな名前も職業も、理由も、言い訳も、正当化も、ごまかしも、あきらめのそんな私の思い入れ、思い込み以前にここにじかにとうとうと流れているナマナマしさが、自己の正体であった。

 仏教では、仏法という大海の中に、この私たちが住む世間があるといい、この世間を仮有の世界という。

 仏法とは、道元和尚は「自他の見をやめて学するなり」と。

 自他の見とは、比べ合いの世界。私の見ている世界である。イイ、ワルイ、最高、最低、大きい、小さい、好き嫌いなどなど、そして自分のことを何の疑問もなく、自分だと思っていること。

 この自他の見をやめるとは、この私のなかに流れている、ナマナマしいもの、否、すでにわたしというぜんたいがこのナマナマしさにいつも輝いている。それは、この私がそう思っても思わなくとも、そう信じようが信じまいが、そのことぐるみ、そのそれ、ナマナマしさとしてここにある。

 このことを道元和尚は、

 「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することを

もちいず、しかあれども証仏なり、仏を証してもてゆく」と。

けれど、アタマという働きはこの「そのそれ」をすぐ概念化、意味づけしようとする。それがアタマの、大脳の仕事なのだ。しかし、このとうとうと流れるいのちというナマナマしさを、どんなに合理的につかんだとて、その途端、たんなる私の思い入れのことに変化するものとしてある。

 それゆえ、古来から「そのそれ」を真如、仏性、如来、空、無、涅槃などと呼び名だけを与えて、決してその中身には立ち入らない。

先の南獄和尚と馬祖和尚の問答は、まだしばらく続くのであるが、道元和尚はこの問答をひきとり、坐禅のことを「磨塼」という。(ただ磨くのだ)と。

何かのため、何か目的、理由がないと動けない私。そんな思い入れ、言いわけ満載の私。まるでこのアタマが私の主人の如く、わたしを振り回し、疲れ、病む。

けれど、いまビュッーと風が吹く。その風がそんな私をゆさぶり、破いていく。

いま、梅の花がほころぶ。いま、草や木の芽が出る。いま、お陽様が昇る、沈む。

いま、この私もわたしじしんを、そのそれを生きている。

 

 

              2004年2月25日

                 三井町与呂見

                         村田 和樹

 


開くということ

2011-06-11 22:49:54 | 書簡集

思いというのは、自分をふまえるものである。そのつど思いはふまえていくことで、自分というものを確かめているようである。しかしながらふまえることができないことがある。例えば今回の大震災で愛しいひとが、不明のまま8千人、その身内の人たちにとっては、苦しさ、悲しさも宙吊りになったまま、愛しいひととは未だにおわかれすることもできずにいて、当然のことながら自分というものも、ふまえることができないから宙吊りになったままであるとおもう。こういう事態はそうあることではないが違うかたちで経験する。思いというのは、自分だけのものであるが、身としての自分というのはつねに関係存在としておかれてあるから(ほんとうは思いというやつも関係存在でできているのだろうが)惑わざるを得ない。この惑うということがとても大切なことなんだと思う。身としての自分というのはつねに開かれていて、だからこそ同時に数人の人と語れるし、そうしながらも鳥や風の声を聞くことができてしまっているという不思議さは、開かれたものとしてあるからだったんだ。
 けれどそれとはまったく反するようにふまえる自分がいて、つまり開かれている自分と、閉じている自分とが矛盾しながらここにあるんだ。この矛盾するということは、具体的にはいつもつらいことが多い。だからであろう閉じている自分の方が楽ではあるけれど、そこには躍動感は失せるのである。私は私とふまえておかないと不安定だから、いつもふまえることで安心し積みかさねもきくもの。だけんどそれじゃつまんないよやっぱり、で、開いて暮らしたいと願っている。