きょうは、京都平日歌会でした。 午前中は塔のアンケートの発送をして(お手伝いに4人の方にお手伝いいただきました)、午後は18名の歌会。
台風が心配でしたが、お天気も回復し、1時には全員が揃いました。 前半9首、後半9首にわけて、比較的ゆっくりめに進んでいきました。疑問点や、初めに出た読みとは反対の読みが出たりして、なんどもなるほどなぁと思いました。 ときどき、自分の体験のみを話す人や「ええ~??」というような意見も出るのですが、時間がゆったりしているせいか、そういうところまで楽しめるのがこの会のいいところです。
きのうは水曜日でした。 すっかり忘れていました。 水曜日は短歌の日です。 もう木曜日ですけど、このあいだ読んだ葛原妙子の『葡萄木立』からいくつかご紹介します。
・郵便受の硝子に月光の差しゐたりひとふさのみどりの葡萄をおもふ
ちょうど、いま葡萄のシーズンで、美しいみどりや紫いろの葡萄を見ていると、これは食べ物だろうかと思うことがあります。 郵便受の硝子(どういうものかわかりませんが)に月光が差していて、そこに完成された美しいものを見たのかもしれません。
・口中に一粒の葡萄を潰したりすなはちわが目ふと暗きかも
葡萄と目という組み合わせは、いまではよく見かけますが、昭和30年代ではまだ珍しかったのではないでしょうか。 塚本邦雄の「突風に生卵割れ、かつてかく撃ちぬかれたる兵士の眼」(『日本人靈歌』という生卵と目の歌を思い出したりしますが、葛原妙子の歌は自分の目に還ってきているところが余計に恐ろしい気がします。
河野裕子の「君は今小さき水たまりをまたぎしかわが磨く匙のふと暗みたり」(『ひるがほ』)はずいぶんあとの歌の歌になりますが、水たまりと匙に「君」とのつながりが見えてまた別の展開になっています。
・原不安(げんふあん)と謂(い)ふはなになる 赤色(せきしょく)の葡萄液充つるタンクのたぐひか
この歌はとてもよくわかる歌でした。不安や恐怖が兆すとき、これはどこからやってくるのだろうかと考えます。怯えたくないのに身体が感じ取ってしまうなにか。なにも恐れることはないはずなのになんでこうなるんだろうと思うとき、「赤色の葡萄液充つるタンク」みたいなものか、といわれれば、そうかもしれないと思います。赤色を「あかいろ」といわずに「せきしょく」と読ませたところが繊細で、「あかいろ」だとこの不安な感じは全く出ません。「せきしょく」だから、ちょっと黒っぽい、女性の身体からでてくるような赤い色を思わせて、それがたぷたぷとタンクに充ちているのは本当に恐ろしいです。
・消火器の深紅は家隈に立ちをりてなにぞしばしばもわれをおびやかす
消火器の深紅もぎょっとするのですね。 じっと見つめられているような気がするのかもしれません。自分の怖いものに挑んで歌にする姿勢に敬意を表します。怖いものを作品化するには凝視しなければならないので、題材はたくさんあっても作品化できないことが多い私は、見習わないといけないと思いました。
・ふとおもへば性なき胎児胎内にすずしきまなこみひらきにけり
胎児は母親の胎内に宿ってから何週目で光を感じるようになるとか、耳が聞こえるようになるとか、いまでは情報がたくさんありますが、自分の胎内にいる胎児がまだ性別もわからないのにまなこをみひらいているというイメージは、かわいいというより怖い感じがします。「胎児」と呼んでいるのもかなり突き放した言い方です。
私は2度流産をしましたが、「この子は育っていない」と医者にいわれたとき、窓の外に見えるキウイの蔓の先に溜る雨粒よりも小さい命ともうすぐお別れをしないといけないと思うと、本当につらくて、一度も雨というものを見ることもなく、終わっていく命が不憫でなりませんでした。 命はヒトとか魚とかという種類が先にきまるのか、雌雄が先にきまるのか、光を感じる機能が先なのか、そんなことをぼんやりと考えていたことを、この歌を読んで少し切なく思い出しました。