先週の木曜日は平日歌会とあなたを読む会のダブルヘッダーで、そのことも書きたいのですが、きょうは大阪府大のI-siteというところで行われた虫武一俊歌集『羽虫群』のことを。
私の住んでいるところから、微妙な場所にある会場。京都周りでJRで行くか、京都手前で折り返して京阪でいくか、奈良周りでJRでいくか。相当迷って、空いている奈良周りで行くことにしました。最寄り駅は南海高野線今宮戎。南海高野線は乗り慣れていますが、今宮戎でおりたことがありません。まぁ、だいたいの地図をグーグルマップで確かめて、着いたら駅員さんに訊こう、と思っていました。今宮戎の南側の改札をでたら、駅員さんのコーナーはシャッターが下りていました。線路沿いに難波方面にいけばなんとか着くだろうと心細く歩いているうちに、いきなり開けた通りにでて、若者が並んでいたので近づいていったら、そのとなりの建物が会場だったという偶然。
パネリストは穂村弘さん、染野太朗さん、大森静佳さん、魚村晋太郎さん(司会)。
・献血の出前バスから黒布の覗くしずかな極東の午後
・目撃者を募集している看板の凸凹に沿い流れる光
描写の純度の高い人。透明人間のスタンス。という話の流れで穂村さんがだされた歌でしたが、そういわれてみると、献血車両のことを「献血の出前バス」なんていわないし、目撃者は「探している」というけれど、あれは「募集」とはちょっとニュアンスが違うなぁということに気が付きます。だって、目撃者は「応募」するわけじゃないですから。目撃者というのは目撃した、という限られた人物なのに、「募集」というのはだれでも「応募」できるようなイメージです。「システム」から離れたところに自分がいて、そこからの視点で書いている。
・ロングシートにおにぎりを食う母子のいて四月電車のはずむ光よ
・堤防を望遠レンズに持ったまま駆けていくひと 間にあうといい
大森さんは善良、清潔な感じ、という歌として上の歌をあげていました。たまたま見かけたひとの幸せを願う感じ。そして、歌集後半にでてくる恋の歌で、
・繋ぐっていうよりつかみあいながらお祭の灯を何度もくぐる
のような歌にそれは生かされていることを言われました。自意識の歌はすとんと読めて物足りない、論理では読めない歌がいいという指摘。
・生きかたが洟かむように恥ずかしく花の影にも背を向けている
・ドーナツ化現象のそのドーナツのぱさぱさとしたところに暮らす
染野さんは、虫武さんの大きな特徴として言われている「内向性」というのは、ほとんどの歌人がそうなのではないかと指摘。社会のある場所に順応できなくて生きづらくなったわけではなく、もともと生きづらいひとが社会のある場所にでたら、「ぱさぱさとしたところに暮らす」ことになったんだということに着目されていました。
そのほか、印象に残ったこと。
植物、動物などの固有名詞がほとんどない。花の名前を具体的にせずにおくと、誰でもが入って行ける愛誦性の高い歌になる、マッピング、さまざま技巧、本歌取りもしくはふまえた歌、誰からも愛され、温かく迎え入れられていてはいけない。
司会の魚村さんもバランスをとりながら進めておられて、とても充実したいい会でした。いちばん驚いたのは、短歌を実作していない人、結社同人誌に入っていない人、結社同人誌に入っている人の割合がそんなに大きな差がなかったこと。短歌との関わり方によらず、さまざまな人が同じ場所で同じ歌集について考えるために集ったことはとても大きな意味があることだと思いました。
迷いながら、途中であきらめずに参加できてほんとうによかったです。
*写真の蝶のピンはきょうのレジュメにとめられていたもの。ほんとうに愛されているんだなぁ。