5月3日は鹿児島県南九州市で陸軍特攻隊1036名の慰霊祭がある予定だったが今年はコロナで中止となった。特攻遺族の高齢化が進み、生きていた姿を語る人が年々減っているようだ。叔父の沖縄嘉手納沖の特攻で被災した米軍艦船数隻の遺族会の活動がネットで検索すると15年ほど前から、活動が止まったように感じる。日本の先の戦争遺族会の活動も60年を区切りとしてやめた所も多い様だ。今年は戦後75年で知覧から特攻に行った少年は18歳くらいからあった。叔父は23歳で特攻死した。命日は5月20日なので不要不急と言われても70過ぎればコロナでアッという間もなく病死で骨で自宅に戻ることを想定したい。もうじき命の選別が医療崩壊であるかもしれない。70過ぎたら持病があった人から切り捨てられるかもしれない。アメリカはドライだ。
昨年三浦半島のXJAPANのヒデの墓もうでに行って、ファンの生花の多さに驚いた。政府の10万円で叔父の墓へ花を飾ってみたい。コロナで今花屋さんは結婚式も消え、感染蔓延ということで葬式もささやかとなり、生花の需要が消えた。先のないコロナであの世へ現金をもっていくことは出来ない。パチンコ屋で浪費するアクティブ老人よりましだと嫁を説得させる。
もし来年まで生きていたら、Xジャパンのヒデの墓もうでを5月の連休中に行ってみたい。三浦半島なら渋滞しても帰りは楽だ。
5月20日の日本陸軍の沖縄嘉手納沖の米軍艦船への特攻は知覧より10機ほど、台湾八塊基地より5機が特攻した。米軍の記録ではどちらの攻撃で被災したかは判らない。ただ台湾から出撃したのは一式戦闘機隼だったのでいずれわかるだろう。
台北にある日本料理店紀州庵という料亭のところに宿泊していて宴会の記念写真があった。最後の晩餐だった気がする。
2019年7月4日日本テレビの夕方の放送で台湾のことが報道されていた。戦前の台湾にいた女性で中田さんという人で、紀州庵で宿泊していた特攻隊員と交流があったという。
日本テレビの所で次のようにに書いてあった。
中田さんはある場所へ向かった。台北市内にある紀州庵(日本統治時代に料亭として使われ、現在は台湾の歴史を伝える記念館)そこには神風特攻隊の文字が。当時14歳だった中田さんは台湾から出撃していく特攻隊の兵士たちと交流があった。当時特攻隊員の宿泊所として使われていたのがこの紀州庵だった。終戦後初めてここを訪れた中田さんは「特攻隊員の無念さ、その人たちを忘れないために自分の思いを伝えたい」と話した。
神風特攻隊は海軍の特攻で多分戦後の日本人は多くの人に陸軍の特攻を忘れ去れて、知覧に特攻平和祈念館を設立させる機運となったと思われる。
ちなみに戦前の報道では神風はジンプウ、米軍はカミカゼ、米軍の一式戦闘機隼のコードネ-ムはオスカーと言っていたようだ。アメリカの映画の祭典のオスカー賞と同じ。
敗戦後、陸軍の第204飛行隊和歌山県田辺港へ帰還した。台湾からの引き揚げ船で帰還した。紀州だった。