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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

兵食としての福神漬 陸軍

2007年05月28日 | 福神漬
福神漬の昔と今より
陸軍糧秣廠 丸本彰造氏の談から
 大正12年7月20日開催の第9回缶詰開缶研究会において陸軍糧秣廠から3名の参加者があった。大正時代は福神漬の缶詰は『大和煮』『時雨煮』と『福神漬』は国内向けの缶詰として重要な地位を占めていた。
 関東では大和煮、関西では時雨煮といわれ 江戸時代には小規模生産で、産業として大きく発展するのは、明治になってからのことです。明治10年の西南の役において、陸軍省が大量発注を行ったのが刺激となって、佃煮製造業は次第に盛んになっていきました。
明治27年に起こった日清戦争では、缶詰食品として福神漬が重用され、戦地に大量に送られました。その後、明治37年の日露戦争においては、漬物の軍需用品としての適性が高く評価され、福神漬製遣業は大きな発展を遂げました。軍人からその家庭へ、そして一般庶民の食卓へと需要は広まり、日本の食卓には欠かせない副食品としての地位を確立していったのです。
明治維新によって、日本を近代化する必要に迫られた時、その手本としてイギリスやドイツ、フランス等にその未来を求めました。・
日本国内でその路線に対して色々な対立が生じました。陸軍と海軍の兵食論争もありました。和食かパン食か。これは日本の軍隊で流行った脚気の原因を追究することから来ています。福神漬はまず陸軍で採用されたようです。
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