年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

特攻で死んだ叔父へ

2020年08月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今日、戦争が終わって75年になる。昨年から娘の後を引き継いで叔父と父のことを調べていたがコロナで中断し、75年の節目に終わらなかった。
 昭和20年2月のある日に父と叔父が横須賀海軍基地で面会し、何を話したかは今は誰も知らない。この前下北沢であった、作家のK.Kさんの話では2月にはすでに陸軍の特攻計画が204戦隊に通告していたという。5月20日の特攻仲間の遺書があれば、確認できる。これも知覧の遺書保管の引き出しを開ければわかるという。知覧にも行けないもどかしさで時間が経過する。
 先妻を昭和20年1月21日に亡くした父とこれから死を予定した特攻する叔父とどんな話をしたのだろうか。負け戦を話せない所で何を叔父が父に委託したのだろうか。戦後私が生まれ、叔父を産んだ祖母の元に連れて行ったのは叔父の生まれ変わりとして連れて行ったのだろうか。記憶では東武野田線武州川辺駅の記憶が残る。ここは昭和25年に廃駅となり、移動し今の東武野田線南桜井駅となっている。
 特攻の遺書は親族の話では無いという。しかし、K.Kさんの話では遺書は皆が全員とも言って良いくらい書くもので戦後に事情があって処分した例もあるという。すべては理不尽な戦争だった。死んだ叔父も生き残った父も過去を伝える資料が消えて、勝手な解釈の記憶が残る。正しいか間違っているかはまだわからない75年の節目である。特攻が無ければ戦争が早く終わり、広島・長崎も無かったと言うのもある。特攻が無駄死にとか犬死にとか言われると子孫は切ない。叔父に代わってあれしか選択の無かった23才の青春だったと言いたい。叔父は特攻したので記録は各地に残るが、叔父の特攻隊の誘導機は未帰還で記録に残らず、消える。ただの戦死扱い。
 米軍の記録では日本の知覧と台湾八塊から出撃した特攻機の十数機で5月20日は米軍の5隻の船が破壊され、米軍戦死者行方不明者多数(百名以上)出している。米軍従軍記者アニ-パイルが戦死した伊江島海岸で物資.兵士輸送船USS.LST808の5月20日の特攻されて燃えている写真が今に残る。
 アニ-パイルパイルは今でも沖縄に地名として残る。アニ-パイル国際劇場から国際通りの名前が残る。
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