叔父の遺書処分の下調べで、都立中央図書館で昭和22年2月1日に日本の労働組合が予定していたゼネストがGHQによって中止命令の記事を探した。この時期は新聞も用紙が少なく、今の新聞縮刷版のひと月の厚さが、昭和22年では今の6か月分と同じ厚さと感じる。印刷の質も悪く見出しだけはっきり読める。
ゼネスト中止後の2月2日の記事を読もうとしたら、1日の記事の2面の上段に埼玉県が米の供出で全国で一番早い完納県という記事があった。確か春日部市史庄和地区編近現代では未完了のはずだった。これを南桜井村戦後史の本で2月29日現在で供出率52%の状況だった。この状況から3月に南桜井小学校に役場からの指示で農民の戸主が集められ埼玉軍令部のライアン中佐の供出米促進の指令電報が来ていた。カスリ-ン台風で不作で出せないことは解るが他の埼玉県農家が米を供出しているので未納は認めない。
この時の趣旨は埼玉県としてコメの供出目標を達成した地区がほとんどだが県東部地区の供出率が少ないので他の埼玉県農民に対して滞納県の汚名を受けている。米国も日本を見守っているという。このときは南桜井村の政治が革新系で税金と米供出反対運動をしていた。
この時のライアン中佐の演説で供出完了するため、隠匿物資の家探しをすると埼玉県東部の農家を脅していたようだ。52%のビラもあった。
この時期に叔父の遺品等が親族によって、コメの隠匿の家探しを恐れ処分されたと思うが今は誰も知らない。
明治のころはしばしば新聞記事の訂正があって、この後訂正が朝日新聞であったかもしれない。ライアン中佐の南桜井小学校の演説は埼玉新聞の記事で確認できるので、まだ2月初めには米の供出が出来ていないと思われる。ゼネストが予定されるくらい食料が不足していた。当時も配給制度は不完全と言われていたが昭和22年産が米が豊作でさらにアメリカの物資で落ち着き、安定したのが朝鮮戦争が勃発してからだろう。今長いデフレが終わりそうだが日本政府の力でなく、ウクライナとガザの戦闘でデフレ脱却となりそうだ。反戦・非戦の人の念仏ではデフレは終わらない。やはり失業を減らすには次の世代の仕事を作るしかない。戦争が不景気を打破するに一番簡単な方法と歴史は示す。
日本は平和な時に新しい仕事を作ることが一番苦手で改善とかの仕組みは得意と思う。今まで無い仕事を作る、評価することに慣れない。それは失敗すると日本は復活が難しい。事業で数多く失敗すれば経験値が上がるだがその経験値の評価が認められなく、失敗の記憶がずっと残る。
多くの実業家で失敗のない人がいない。何か失敗した時のリカバリ-ショットのようなものがあると思う。