4月28日、春日部市の特別天然記念物指定の藤を見に行ったが、もう終わりの様で入場料が値引きされていた。多分30日で緑の藤になりそう。
小学校へ入る前から東武野田線で春日部市から単線になって南桜井駅までの間に藤の牛島という駅があって、気になっていた。今は住宅が密集していて面影はないが当時は田んぼだけで名所があるとは思えなかった。ネットで調べると例年は4月下旬から5月の連休までが見ごろで今年の桜の開花が異常に早かったと同じように開花が早く、終了も早そうだ。
駅から歩いて10分ほど歩くのだが、見ごろの終わりで誰も歩いている人もない。コープラという大きなパチンコ屋の所に藤花園の臨時駐車場としてパチンコ屋の駐車場が解放されていた。無料の様だ。でも閑散としていた。
藤を見た後、特攻で亡くなった叔父の墓のある南桜井駅から15分ほど歩き歓喜院を訪問し住職と叔父の遺書の無い理由の意見交換する。どうやら住職も今の野田市にある千葉県立清水高校(当時は野田農工学校)の出身で、校風から軍国少年を養成する学校でなく、どちらかというと満蒙開拓団院の養成教育と感じていた様だった。あの時代は国策だから仕方がない部分はある。
住職と1時間ほど話した後、叔父の出身校の川辺小学校を訪問し、きむらけんさんの著書を贈呈する。やはり特攻で亡くなった卒業生がいるという話は地域の記憶から消えている。何があったのだろうか。叔父はほんの少し、川辺小学校で教師生活をした様で小学生の慰問袋が生家に届いていたようで、これも残っていない。台湾へ部隊移動前に叔父が自宅と川辺小学校上空を超低空飛行した話しも消えている。
平成に入って地域の記録の出版は東京都立中央図書館で眺めていると少ないと感じる。さらに戦後の混乱期(講和条約が発効するまでの短い期間)の記述が少ない。その中で春日部市庄和地域の現代史は充実していて、その理由を歓喜院の住職が話していた。埼玉県立庄和高校の地暦部が夏の40日で著わした南桜井村戦後史は高校生の物とは思えないくらい価値があって、村の戦後史を子孫の若い人に伝えようとする気持ち見える。
あの戦後は配給だけで生きることは不可能な時代で、暴力もあってその一番の被害者は生き残った人たちと感じる。いま時計の精工舎が当時は軍の協力工場で南桜井で高射砲の部品を作っていた。ただ戦争開始後に移転したため、米軍の空襲を受けることなく、工場と従業員宿舎が戦後に無傷で残っていた。そこに精工舎の人、外地からの引く揚げ者、戦災孤児の収容と小さな農村なのに戦後日本の縮図のような村だった。人口が8000人で農民系が3000人、戦前の野田市の労働争議の残留人から地域の左翼のたまり場となった。そこに米軍の日本への指導方針が急変し、左翼弾圧に向かって、さらにカスリ-ン台風の被害から、供出米の割り当てが未達成問題を引き起こし、地域の農家の隠匿物資を捜索するという脅しの集会もあったようだ。
地域の余り触れたくない話題が高校生の聞き取りということで長老たちが話したようだ。その本が庄和高校の隣接地にある春日部市立庄和図書館に無く、県立図書館に3冊所蔵されている。
