奈良市にあった平城京がシルクロ-ドの東の果てなら長崎街道-別名ーシュガ-ロ-ドの果ては江戸時代江戸商業の中心にあった本町と大伝馬町と思われる。
石崎融思が 唐館図・蘭館図絵巻を搔いたのは大田蜀山人が長崎会所で勤務していた時より2年ほど前の1802年頃に描いたという。ここの絵巻物には大量の砂糖と思われる物資が出島の砂糖倉に搬入されている風景が見える。当時は物流の進歩が少なく、江戸時代通じて同じような容器と運搬の方法だったと思われる。200キロ以上あると思われる砂糖俵(籐か竹のの様な植物を編んで俵のようにした容器)かもう少し小さめの砂糖袋で唐船や蘭船から艀(はしけ-小型の運搬船)に積み替え出島に搬入した。長崎会所を経て、長崎街道を通り(船で他の地域に運ばれた方が多いと思われるが)北九州の小倉まで運ばれた。そこで船に積み替え瀬戸内を航海し、大阪の薬種問屋の多いところ付近に派生した砂糖問屋に運ばれたようだ。江戸時代も後期になると江戸に於いての砂糖消費が増え、浅草長命寺の桜餅の砂糖消費量は莫大な数字として記録に残る。