年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

裁判報道

2011年02月04日 | 福神漬
明治16年夏の東京高等法院で福島事件の裁判が始まると東京で発行されている大新聞や小新聞までも高等法院での公判記録を新聞に連載記事として載せていた。さらに地方新聞にも公判記録が連載されていた。
加波山事件始末記-歩いて書いた民権激派の記録田村幸一郎著によると徳富蘆花の熊本でも公判記録を載せた新聞があったようである。

『思出の記』徳富蘆花
『かの福島事件が天下を騒がした時期など、その裁判筆記の出た新聞が来ると、引き裂くように争い読んで、河野、愛澤、平島、花香、田母野諸士の艱難苦心を思っては熱き涙のホロホロ頬を潤す事を覚えている。今そこに飛んで行って、その縄目の食い入る手に接吻し、警官の剣の鞘尻に突かれたその背中を撫でもしたく、暴官憲の非道、その非道をかばう政府のやつらの髭ずらを思う存分殴って蹴って踏みにじってやりたく、その雪中を素足で引きずり回した事を聞いては、僕らもいつかはあの志士の跡を踏んでゆくこともあるかも知れぬ、その時の覚悟を試してみようと、ある雪夜に素足になって外に立ったこともあった。』
この様な文章を書かせる位地方の方にも裁判報道がなされていた。当時の報道姿勢は反明治政府だったので記事の内容も自由民権運動支持となっている。この後明治政府は自由民権運動の事件を公安秩序の裁判から、強盗とかの刑事事件の裁判にするように変化している。
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