明治42年11月4日 東京朝日新聞
不正醤油全滅
日本醤油醸造株式会社尼崎分工場の製品に多量のサッカリンを混入したる為、大阪出張所の1600余樽(一万円)を押収したるは昨紙に記載の如し、然るに会社側にはしばしば隠蔽策を講じたるも片端より看破され二日午後に至り尼崎醸造所に於いて星野技師自ら売品全部にサッカリンを混入したる旨を白状した。(大阪)警察部にて事態極めて重大なりとその処分に付き内務省に伺い方針確定の上全国に販布せる同社製品の数万石はことごとく廃棄を命ずるに至るべく会社の損失はほとんど計算できない。
同社製品は売出しの当時より評判悪く芳香と甘味において著しく欠けているところがあってこの悪計を企てたるものにて技師の手一つにて該薬品の混入をなし職工すらこの不正手段を知らなかったとはよほど注意したるものと見えた。
尼崎工場の建築には多額の固定資本を要し、一方製品はさらに売れず紛議を重ね、結局大将軍毛利公爵家令田島信夫氏が社長となり岩下清周氏が取締役に加わり某銀行より多額の融資を受け営業を続けている有様なれば今度の打撃の結果については非常に悲観している者が多い。
日本醤油醸造は資本金一千万という資本で始まったので、出資者が株価下落の心配があった。
明治42年11月4日 東京朝日新聞
甘精使用について(サッカリン)
醸造試験所某技師は大阪警察本部の検挙しつつある甘精事件について語って言う。
日本醤油醸造株式会社が甘精をその製品醤油中に入れたということはもとより着味に用いたるは明らかな重大問題である。通常醤油の着味はとしては野田(千葉県)等にては、飴(グリコース)を用い着色用としては焼糖(カラメル)を用いつつある次第にて日醤も同じく飴・グリコースを用いならば今回の失態は無かっただろう。思うに現今サッカリンの輸入税は百斤60円にて随分高価に当れば到底飴や砂糖の代品として儲かるべくものにあらざるに、もし日醤が事実サッカリンを使用せしば数年前に見越し輸入された残品であるだろう。何れにせよ欧州諸国と同じ本邦にても法律をもって飲食物に混入を禁じている以上あえてその禁を犯したるは日醤会社の大失態と言わざるを得ないという。而してサッカリンが果たして衛生上有害であるか否やは未解決の問題にて、たとえ有害でなくとも、また滋養物にあらず、ことにサッカリン使用増加は各国ともその財政上少なからざる打撃を蒙るものなればこの点よりこれの使用を禁じるを得策とする云々。
サッカリンには高価な輸入税がかけられたので大量の駆け込み輸入があった。
梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
サッカリン問題は鈴木藤三郎にとって皮肉なことだった。
明治34年10月「人工甘味質取締規則」内務省令第31号として発令。
この規則は販売用の飲食物にサッカリン等の人工の甘味の使用を禁止しただけで。治療の目的で使用したり、個人で使用することは許されていた。
この規則が発令した明治34年10月から砂糖消費税(税率30%)が実施されていた。鈴木藤三郎は前年に創立した台湾精糖と日本精糖の社長であった彼は砂糖消費税を実施するには時期尚早と強く反対した。しかし、税収を確保する必要があった明治政府は糖業者を保護するため、砂糖消費税に実施と同時に人工甘味質取締規則を発令したのだった。鈴木藤三郎の運動で作られたサッカリンの取締規則で日本の精糖業は長い間保護されたのだった。
それでも安価な食品を作る業者はサッカリンを秘密に使用するものが絶えなかった。そのため糖業にかかわる業者たちは「サッカリンは毒物である」という宣伝を行なった。その方法はあらゆる機関を利用した。先ず、学者を買収してサッカリンは毒物説を流布させ、論文を書かせた。ビタミンを発見した鈴木梅太郎博士に、砂糖会社の資金で三越等の各所で「サッカリンは毒物である。」という講演をしてもらった。
精糖業者の努力と(日清・日露戦争の)戦費をまかなう明治政府は砂糖消費税収確保の取締のため、いつの間にか世間は「サッカリンは毒物である。」と信じるようになっていった。明治の当時は食品の取締は警察署が行なっていたので、各地の警察はサッカリンの使用の有無を度々調べていた。
鈴木藤三郎が率先して運動したサッカリンの取締り規則で彼が挫折したことは「因果は回る小車のごとし」という古い例えに鈴木藤三郎は良く当てはまる。
不正醤油全滅
日本醤油醸造株式会社尼崎分工場の製品に多量のサッカリンを混入したる為、大阪出張所の1600余樽(一万円)を押収したるは昨紙に記載の如し、然るに会社側にはしばしば隠蔽策を講じたるも片端より看破され二日午後に至り尼崎醸造所に於いて星野技師自ら売品全部にサッカリンを混入したる旨を白状した。(大阪)警察部にて事態極めて重大なりとその処分に付き内務省に伺い方針確定の上全国に販布せる同社製品の数万石はことごとく廃棄を命ずるに至るべく会社の損失はほとんど計算できない。
同社製品は売出しの当時より評判悪く芳香と甘味において著しく欠けているところがあってこの悪計を企てたるものにて技師の手一つにて該薬品の混入をなし職工すらこの不正手段を知らなかったとはよほど注意したるものと見えた。
尼崎工場の建築には多額の固定資本を要し、一方製品はさらに売れず紛議を重ね、結局大将軍毛利公爵家令田島信夫氏が社長となり岩下清周氏が取締役に加わり某銀行より多額の融資を受け営業を続けている有様なれば今度の打撃の結果については非常に悲観している者が多い。
日本醤油醸造は資本金一千万という資本で始まったので、出資者が株価下落の心配があった。
明治42年11月4日 東京朝日新聞
甘精使用について(サッカリン)
醸造試験所某技師は大阪警察本部の検挙しつつある甘精事件について語って言う。
日本醤油醸造株式会社が甘精をその製品醤油中に入れたということはもとより着味に用いたるは明らかな重大問題である。通常醤油の着味はとしては野田(千葉県)等にては、飴(グリコース)を用い着色用としては焼糖(カラメル)を用いつつある次第にて日醤も同じく飴・グリコースを用いならば今回の失態は無かっただろう。思うに現今サッカリンの輸入税は百斤60円にて随分高価に当れば到底飴や砂糖の代品として儲かるべくものにあらざるに、もし日醤が事実サッカリンを使用せしば数年前に見越し輸入された残品であるだろう。何れにせよ欧州諸国と同じ本邦にても法律をもって飲食物に混入を禁じている以上あえてその禁を犯したるは日醤会社の大失態と言わざるを得ないという。而してサッカリンが果たして衛生上有害であるか否やは未解決の問題にて、たとえ有害でなくとも、また滋養物にあらず、ことにサッカリン使用増加は各国ともその財政上少なからざる打撃を蒙るものなればこの点よりこれの使用を禁じるを得策とする云々。
サッカリンには高価な輸入税がかけられたので大量の駆け込み輸入があった。
梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
サッカリン問題は鈴木藤三郎にとって皮肉なことだった。
明治34年10月「人工甘味質取締規則」内務省令第31号として発令。
この規則は販売用の飲食物にサッカリン等の人工の甘味の使用を禁止しただけで。治療の目的で使用したり、個人で使用することは許されていた。
この規則が発令した明治34年10月から砂糖消費税(税率30%)が実施されていた。鈴木藤三郎は前年に創立した台湾精糖と日本精糖の社長であった彼は砂糖消費税を実施するには時期尚早と強く反対した。しかし、税収を確保する必要があった明治政府は糖業者を保護するため、砂糖消費税に実施と同時に人工甘味質取締規則を発令したのだった。鈴木藤三郎の運動で作られたサッカリンの取締規則で日本の精糖業は長い間保護されたのだった。
それでも安価な食品を作る業者はサッカリンを秘密に使用するものが絶えなかった。そのため糖業にかかわる業者たちは「サッカリンは毒物である」という宣伝を行なった。その方法はあらゆる機関を利用した。先ず、学者を買収してサッカリンは毒物説を流布させ、論文を書かせた。ビタミンを発見した鈴木梅太郎博士に、砂糖会社の資金で三越等の各所で「サッカリンは毒物である。」という講演をしてもらった。
精糖業者の努力と(日清・日露戦争の)戦費をまかなう明治政府は砂糖消費税収確保の取締のため、いつの間にか世間は「サッカリンは毒物である。」と信じるようになっていった。明治の当時は食品の取締は警察署が行なっていたので、各地の警察はサッカリンの使用の有無を度々調べていた。
鈴木藤三郎が率先して運動したサッカリンの取締り規則で彼が挫折したことは「因果は回る小車のごとし」という古い例えに鈴木藤三郎は良く当てはまる。