goo blog サービス終了のお知らせ 

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治の大伝馬町界隈の伝染病

2006年08月25日 | べったら市
 日本橋・堀留東京織物問屋史考 白石 孝著より
明治になって海外から江戸時代と違って速度の速い汽船によって伝染病が日本全国に流行した。現在と違って衛生の知識不十分で一度発生すると多くの死者が出るのであった。特に人の出入りの多い日本橋問屋街は度々伝染病が流行した。
 コレラは明治12年6月の発生は神田・日本橋・京橋・浅草・本所・深川に患者が発生した。明治15年の流行は東京全体に広がったが特に多かった日本橋地区では患者5,824人(内死者4,565人)だった。明治19年のコレラの大流行は日本橋地区では東京の患者の2割以上を占め(患者2,339人・内死者1,952人・東京市の患者は1万人以上)。これに次ぐ大流行は明治23年で神田・浅草・京橋が多かった。コレラだけでなく赤痢・腸チフスのような伝染病が流行していた。このような状況ではべったら市の商材が“腐れ市”の時代の掛鯛・小鯛から浅漬大根に変わっても不思議でない。
 コレラ菌は塩分濃度が6%以下で増殖できるため、淡水や海水に分布し、加熱調理されていない魚介類を介して食中毒を引き起こすことがあるので当時の浅漬大根の塩分はどのくらいであったのでしょうか。べったら市が新暦の日時になり、一ヶ月早い開市になると、冬大根の自然の甘味不足を補うため明治になって安くなった輸入砂糖を使用したり、ドイツから輸入されたサッカリンを使用しました。(明治34年までサッカリン使用は違反ではなかった)明治末期から大正期になるとサッカリンの取締でべったら市の出店業者が警察に引致されたと新聞紙上に書かれてます。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする