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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸市中の沢庵漬

2006年02月21日 | タクワン
江戸市中の沢庵漬
江戸の庶民は自分では沢庵漬を漬けない人もあった。江東区 深川江戸資料館に江戸時代の八百屋(当時は青物屋と呼ばれていた)が再現されている。店頭には大樽に入れられた沢庵漬がおかれ、干した大根が売られていた.今と違って冷蔵庫もなく,舟運と牛馬・荷車による輸送では旬の野菜しか売られていなかった。
江戸の庶民の長屋で木樽を据えて、沢庵を何樽も漬けこむのは難しかった。頻発する火事などの火災に遭遇した場合、重石をのせてびくともしない漬物樽は、逃げ場を塞ぐ障害物になる危険もあったのである。
明暦3年(1657)、死者10余万人を出す江戸史上最大の火災となった。俗に明暦の大火とも呼ばれるこの大火は、江戸の人々に多くの教訓をもたらした。幕府は災害後の新たな対策として多様な都市改造を実施した。町人達の間でも災害対策の意識は浸透した。明暦の大火の以後は火事の際に荷物を持って逃げる者は少なくなった。しかし、江戸はこの後もたびたび大きな火事にみまわれた。
守貞謾稿より
京坂(京都・大阪)は、毎冬毎戸、味噌と香々は自家にこれを制す。香々、江戸に云う沢庵なり。江戸は各居塁地なきが故にか,自家これを制すこと稀なり。専ら味噌、巨戸は一、二樽を買ひ、中以下は百文二百文と大小戸とも毎時これを買ふ。また、沢庵は年用を計りて、城北練馬村の農家にこれを買う。毎冬、練馬農人、江戸得意の家に来たり、明年所用の沢庵を樽数を問ひ、また価を取りて、その戸の人数を計り、毎時馬をもつて沢庵を送る。
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