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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

福島汚染水の放出

2021年04月11日 | 築地市場にて
野党の指導者が(政府は福島県民、漁民、漁師の皆さんを馬鹿にしているのか)と叫んでいる。
 築地市場が豊洲へ移転時、豊洲の地下汚染で野党が同じように騒いでいた。都民の健康の安心安全と言って騒いでいた。もう移転して2年半経つが都民の健康 に影響があったという研究はまだない。
それでは豊洲地下の有害物が消えてしまったのかと言うことは無い。東京都中央卸売市場にHPで地下の汚染のデ-タが公開され、今でも汚染水が継続して出ている。もう誰も気にしていないようだ。あれほど騒ぎ、少なくとも数千億円の無駄な税金が政治家の思惑で消えた。もし移転していなかったら、国際公約の食の安全規約が(主に生鮮食品の衛生管理・主に温度管理)がオリンピック開催国で先進国を自認している日本が途上国並みとなるのを認めることになると東京都の中央卸売市場の衛生担当者が危機感をもって語っていた。築地の再建なら10年以上の月日を浪費し、さらに完成しても時代の変化と都税の不足(福祉予算が巨大化する。)ことを知っていた。
 福島汚染水を放出するところは黒潮が流れ、日本から離れる。もし公平に漁業補償を行うなら、廃棄するタンカ-の積んで、日本全体の海に公平に放水し、漁業補償すればよい。一部の政治家が福島漁民に口止めの金をばら撒くように思える。それによって一番風評被害を受けるのが豊洲の水産業者である。東北漁民を支援している人たちである。幸い近隣諸国は香港を除いて、日本の水産物の貿易制限しているので貿易禁止になっても恐れる必要性は少ない。ただ説明が科学的に行わないと、他国の原発事故に発言権が消える。
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個別訪問・都議会

2021年03月02日 | 築地市場にて
緊急事態宣言下、ある政党の支持者がマスク無しに2月13日に自宅を訪問し、候補者の支持を依頼してきた。
 その政党は築地市場の移転に関して一番強硬に反対している政党だった。前回の候補者は看護師だった。
少なくとも衛生に関しては知識のない人では無いと思っていたが豊洲の地下汚染に関して、強調していた。私はなぜ地下汚染が市場流通の商材に浸透し、危害を与えるかを聞くことは無かった。もし商材に汚染が付く、つまり水俣病のような水銀中毒を想定していたようだが、築地は日々産地が変わり、同一の地域を一年中食することがかえって消費地市場の特色で難しい。そこで築地市場で働く労働者が汚染の被害を最も受ける人と思っていたがその候補者は関心が無かった。
 豊洲へ移転し2年が経つがコロナの感染話題があっても、地下の汚染の関心は消えた。東京都中央卸市場のHPには毎月の地下汚染が出ている。ほとんど汚染は減っていない。あの騒動は結局政治家のおもちゃの騒動で少なくとも1000億円以上の無駄使いと時間の浪費だった。そして豊洲の汚染を書いたライタ-達はどう間違ったのだろうか。同様の問題が今豊洲で生じているが群盲象を評すと似ている。(ぐんもうぞうをひょうす、群盲評象)は、数人の盲人が象の一部だけを触って感想を語り合う、というインド発祥の寓話。多くのライタ-が勝手に自己の経験と取材を通して描いてるだけで全体ではない。
豊洲も築地も全体を知っている人はいない。従って平成の築地から豊洲への移転史を書けるライタ-はいない気がする。なぜなら地下の汚染を強調した水産仲卸が 移転するなり、すばらしさを言う。まるで敗戦前、鬼畜米英と叫んでいて、いざ敗戦・移転となれば豊洲移転は良いという無節操を感じる。まあ読者受けする文を書かねばライタ-の記事依頼もなくなる。でもそれで良いのだろうか。戦時中はどの新聞も戦争を煽っていた。そして敗戦となれば一億総ざんげ報道となった。

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コロナで歴史用語の復活

2020年05月13日 | 築地市場にて
コロナ騒動で歴史用語が過去の言葉でなくなりつつある。一番は鎖国だ。ペリ-による西洋の海軍力を見せつけられ幕府の基本政策となった海禁政策が消え、幕末の弱体化した財政悪化は今の日本を思い起こす。思えば江戸時代末期は天災人災が多く、さらに欧州の産業革命の後、生産された大量の商品が自給自足の効率の悪いアジアの各地を販売先とした。特に江戸幕府の弱点は浦賀の警備力でそこを封鎖されると多くの物資を和船で江戸市中に運んでいたので、物価が上がり、それでなくとも幕末には困窮していた下級武士や庶民の不満が出ていた。
 福神漬の歴史を調べてゆくと、長崎にオランダ国旗を掲げ、侵入した英国船はナポレオン戦争の余波だった。
 不意打ちの侵入で治安維持していることを自負している幕府の面目が消え、対外的には武力対抗とする論調が強くなった。しかし鎖国平和だった日本は武器の進歩もなく、戦争が続いている欧州の武器の進化と蒸気機関等の発達した海軍力で歴然とした差が異国人と対話した人たち(遠国奉行・与力・通詞)の危機感となった。
 過剰生産となった工業品は需要を求め世界に出るが、最後には需要創出させ、旧世界で平和だった国を支配し、植民地とした。日本は微かな異国情報で危機感を持っていたので植民地を免れた。
 石井研堂著の明治事物起源という本に(缶詰の始まり)という記述がある。文献として誤りが多くコラム的扱いで日本缶詰協会の本に出ている。まったく誤りではないが明治という時代が食の世界の軍隊を表す(缶詰)と日本の醤油の漬物から石井は福神漬を入れたのだろう。日本食の海外移民のための始まりとなり、タクワン貿易という言葉が40年ほど前には残っていた。
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平常には程遠い。

2020年05月08日 | 築地市場にて
他人事だったコロナの事件からこれほど対応が悪く、先の戦争で日本軍が失敗している事例が再び思い出す。末端の状況が不明であとから偽だった情報に惑わされ戦力を消耗した戦史があった。まだコロナという敵はその対応する武器という薬の効力が不明で苦慮しているようだ。役所の縄張り争いで本末転倒のことが起きているようだ。バラバラの対応で国内は多数派でごまかせるが海外から見れば感染状況が見えず、日本へ観光に行っても感染国日本から戻ることは出来ないだろう。

  築地が豊洲へ移転時に地下の汚染問題が東京都や市場幹部が軽視していて、混乱を招いた。地下がどんなに汚染されていても、今の市場にシステムでは食品に汚染が移転する前に市場から出て行ってしまうことを気が付いていなかった。今でも地下に汚染は残っていてもすでに1年以上汚染でクレ-ムは来ていない。あるのは広い豊洲でスピ-ドの出しすぎ事故が目立つ。
 
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敗戦の後の漬物

2020年05月04日 | 築地市場にて
戦時前の築地市場後の漬物状況は練馬のタクワン業者と地方の行政支援で農民を支援し、大根を栽培し、加工し、大消費地である東京・大阪等の都市にタクワン漬を出荷し、農家の生活を安定させる政策だった。漬物の大口需要者は軍隊と都市部の社宅・学生寮だった。都市庶民は野菜を購入し自家製の漬物が主流だった。そこで取引の少ない出来たばかりの築地市場に地方で生産されたタクワンが鉄道で出荷され、練馬のタクワンと競争した。品質の劣る地方のタクワンは不正な方法で生き残りを目指した。生漬かり、スカスカ詰め込み出荷、禁止されていたサッカリン使用等が今でも記録と記憶に残る。ただ地方のタクワンが生き残ったのは練馬で大根に病気が発生し、不作となったことから地方の行政組織がタクワン振興に向かったこともある。
出典 炎よ永遠に 東京漬物事業協同組合百年史 味の素食の文化センタ-所蔵
 先の大戦に向かってしまった軍人によるテロは一番語られるのは2・26事件である。戦後に戦争へ向かった農村部貧困解決をGHQの指導で農地解放を主として様々なことを行われた。アメリカ人には馴染みのない漬物はその指導から漏れてしまった。その一例として国語の文字制限で(漬)の字が1946年(昭和21年)当用漢字表から漏れてしまった。そのため新聞記事では(つけ物)と表記されてしまった。1979年に常用漢字表でに漬が入り、今のス-パ-売り場の表記も漬物となっている。
 神社はコメ関連の行事が多いが米国は略字の日本の痛恨のミスである。

糞尿を使った肥料から化学肥料へ、在来品種から種の品質管理等の指導があったようだ。このような政策も漬物業界への配慮は無かった。キュウリの在来品種は漬物・生食用の用途があったが、見た目が今ス-パ-で売られている品種より劣り、旧来のキュウリは国内では契約栽培のみとなり、海外に産地移転してしまった。安価な漬物用キュウリは農家の作付け意欲を無くした。今の国産キュウリは余剰となった時、加工用のキュウリ原料としては不適である。それは皮が固いためである。

 準鎖国となった今、国民を餓死から守るのが米しかない。耕作放棄農地を逆GHQ政策で国の土地とし耕作人を募集し、明治期の北海道の屯田兵のような、半農半環境保護者として、地域の活性化を図る仕事とし、非常時の救済策とする。

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TV再放送で昔は若かった

2020年05月02日 | 築地市場にて
コロナでTVの再放送が見る機会が増えた。同年代の活躍していた男優も女優も若かった。アナログ時代のTVからデジタルの時代となり、4K8Kとなれは気が付かなかったところもわかる。恐ろしい。昔の記憶は汚いところが消し去り、良い記憶しか残っていないのに残酷にもはっきり今のと比較してしまう。特に顔はそう思う。家族の記憶は苦しいことのみ今でも残る。
 深夜のTV通販タレントは昔活躍した人の生き残りと老人の記憶と財布が頼りだろう。ここも仕事で忙しくTVを見ていない世代は取り残される。過度の生産過剰は余暇時代を招き観光産業が発展した。今鎖国となり人が出歩かなくなり観光産業が瀕死の状態になった。昔はと言っても戦後の食糧難の時も米穀手帳などでコメを購入していた時代はまだ微かに記憶に残る。配給制度も戦時中はあった。今度のコロナで戦時中の記録が記憶に復活しそう。つかの間の繁栄がコロナで元に戻ったが前より余裕が消え不安が増した。やはり現金は最強ということを再認識した。
 TV画像の恐ろしさは昔と今が比較できるし、技術の進化で老後の姿も画像として出てくる時代となった。
閑になった人たちの家の中の整理をしているようだ。ごみが大掃除のように多い。
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不要不急の外出での変化

2020年05月01日 | 築地市場にて
犬の散歩と食の買い出し、病院送迎しか出ていないので近所の散歩。薬の店舗はマスク以外は余ってきたようだ。酒を出していた飲食店は昼も営業していて、弁当販売を始めたようだ。生き残りの繁盛を期待して様々な工夫が始まっている。
 戦時中、日本が米軍の空襲を受け、工場が被災し、生産力が落ちた。最初は鼓舞することから始まったが次第に空襲が常態化すると生活の工夫が新聞に出てくるようになった。
 昭和18年7月の朝日新聞だったと思うがキッコ-マンの研究者がコプラ粕から科学処理してたんぱく質を取り出す記事があった。これから大豆を使わないで済む醤油となった。戦後の食糧難の時の国民を飢えさせない工夫は戦時中から始まった。いつの時代でも総意工夫があったところが生き残る。見切りをつけて、外国人研修者が来ていない農業もありかもしれない。ネットの時代は地方と東京の文化格差が減り、活用を図ったところが良い人生となることもある。
 政府の金で一時しのいでも、コロナ戦争は長く続くし、政府の金も次は出ないと思う。中世のペストで人口が減り、世界史が変わってしまった。
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築地市場移転延期時の損失補填

2020年03月19日 | 築地市場にて
築地市場が豊洲移転延期時、東京都の損失補填があった。移転延期に伴う損失を補填したのだが各業者への事情聴取で様々な予期せぬ事例があったようだ。
 豊洲では市場内を走行する乗り物はすべて電動化するので築地市場で使用していたLPGガス使用・ガソリン使用のフォークリフト・タ-レ-(LPGは無い)は新規の購入となる。そのためかなり前から手配が済んでいてナンバ-も付いていたものもあった。
 この危機の対応で東京都の職員が慣れない業者の聞き取りに活躍した。この豊洲移転でかなりの仲卸が静かに消えた。あれだけ騒いだ地下汚染状況も都のHP上(中央卸市場)では今でも汚染が残り改善していない。今まで地下汚染で豊洲市場で販売されている食品からは汚染物質が検出されないし消費者の健康被害は無い様だ。今から思うとあの騒動は何だったのだろうか。少なくとも全国に築地市場というものが大切な日本食文化の中心地と認知された気がする。様々な人が築地に関してコメントしていたが今思うと外れは無かったが正確ではなかった。水俣のように固定した産地の食しか食べれないところと築地も豊洲も異なる。
 いまコロナで騒いでいるがいずれ終息した時、このことが次の世界の混乱にどう役に立つか検証する必要がある。バブルはいずれ崩壊する。今年の初めに今のようなオリンピック開催が地震でもないのに開催が危ないことを誰が予想していたのだろうか。もうじき原油がバレル20ドルになりそうだ。
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コロナは築地市場の地霊の呪い

2020年03月11日 | 築地市場にて
誰にも阻止できないと思われた東京オリンピック開催が危機となっている。そもそもの始まりは築地市場を移転させ、跡地再開発で長期不景気の日本を活性化しようとする東京都の官僚であった。それが長期政権となりそうな石原知事の目立ちたがる人々の共感を得て進んだ。一番困難な築地で働く人たちの移転に向けての合意形成だった。
この合意形成を作るため、都庁での会費制の会合もあった。なかなか進展しない築地移転会議がオリンピック招致ということで、やっと進み始めた・。
 日本橋にあった魚河岸が築地に移転するまで、鹿鳴館の建設などの欧風化政策の時代から、日本橋の繁華街の隣に、魚河岸があったので文明化に反すると移転を模索していた。しかし受け入れ先が見つからず、やっと関東大震災の戒厳令下で魚河岸の道路が不法占拠ということで、表向きは毒物を入れられる恐れがあると風評をでっちあげ、再度の魚河岸を稼働できないようにした。徐々に震災復興するうちに治安機関が日本橋魚河岸だけを解除しないので、他の占拠されないところに市場が復活した。この日本橋の軍隊による占拠問題のしこりが残り、板船権問題で築地市場の開業が10年以上遅れた。(板船権は道路上に店を出す権利。縁日で神社などに店舗を出す権利に似ている。)
 小池都知事の築地・豊洲の連立発言で築地の移転反対派がコロット騙され移転は実現した。
 築地の地下には松平定信の隠居生活を送った大名庭園が埋まっている。オリンピック招致という御旗でも築地の地霊・怨霊はまだ残っていた。これは災害除け・津波除けの神社に祈祷するしかない。3.11の今日にだれか築地の波除神社に祈祷に行かないか?
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偽の抗インフル食品

2020年02月01日 | 築地市場にて
TVの責任のない報道のうち、自国でなく他国の事象を引用してあたかも効果があるように報道した事例があった。SARSの蔓延していた時、韓国の報道を引用して、キムチの売り上げ伸びたという。あとで聞くとSARS2003年で香港で蔓延していた時韓国人の患者が少なかったということから、キムチ礼賛となったようだ。この時の日本人患者は韓国人より少ないのに沢庵・梅干しとはならなかった。
 今度のコロナウィルス騒動で中国の食文化が変わると思う。中国の食文化の特色は過熱することで食中毒を防ぐというのが基本である。日本は生の文化で汚れる前に食べる。生水は中国人は飲まない。同様に生卵も。従って生鮮市場で生きている動物を販売していても生で食べないので食中毒は起きない。しかしウィルスは市場に存在する。昔は遺伝子分析などがなくどこが原因かわからないで済ませていたが医学の進歩した今ではごまかせない。中国の為政者は今後生鮮市場で野生の鳥・動物等の販売を管理強化となるしかない。生きている動物を中国生鮮市場から消えるかもしれない。昔からある中国の食文化が一つ消えるかもしれない。日本でも同様の事例があった。サッカリン入りの食品は戦後の甘みの少ないとき、流通していた。今は漬物しか使用されず、絶滅寸前である。その理由は今の検査機器の検出精度が高く、工場を分離しないとサッカリンが検出される。一説には履いている長靴からサッカリンが混入する可能性があるという。
 練馬地区の大根の農薬検査で戦後まもなく禁止された農薬が今でも微量検出されたと聞く。放射能の検査でも築地市場にあった検査機器でビキニと福島のセシウムが分離して数値に出るというのを築地市場での食の安全管理者講習会で学習した。
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2003年 中国でSARSというコロナウィルスが流行した時

2020年01月31日 | 築地市場にて

今流行っているコロナウィルスによる肺炎騒動が2003年の春先にあったことを思い出す。かなり記憶が薄れたが豊洲移転時に余った大量の食品製造時に使う、使い捨てマスクが残っていた。中国に漬物原料の打ち合わせで出張していた人は帰国後、安全確認ができるまで出社しないで済ました記憶もある。
築地ではどちらかというとノロウィルスとか鳥インフルエンザの方が気になる。SARSの時韓国の人たちがキムチで防ぐ効果があったというが日本人は信じていなく、売り上げ貢献は無かった。
 そろそろSARSが広まった時のように梅干しとキムチが売れるのだろうか。目からの感染もあるというので食品では今回は無理かも。
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2006年9月以降の築地市場移転会議4

2020年01月29日 | 築地市場にて
豊洲市場の水産部と青果部の施設の最大の違いは卸・仲卸売り場の床の高さである。多くの海外の生鮮食品の所は衛生管理のため、外気と遮断する構造となっている。そこで市場外からトラックで搬送された青果物は一度少し高いプラットフォ-ムに降ろされ、別のフォ-クリフトでセリ場へ輸送する。築地の青果部ではトラック運転手が一人で荷物を降ろしてセリ場まで運んでいた。渋滞やフォ-クリフトの不足で築地では連休前は混乱していて、事故も多かった。労働災害が多発していた。
 リオに負けたことによって時間ができた築地市場青果部の業者側の主張は卸売り場の床の高さの問題を東京都と折衝していた。衛生管理を重視する都と実利を求める青果部関係者との会議・議論が水産部の進み具合をにらんで進んだ。この辺りの詳細な経緯はいずれ公文書が公開されればはっきりする。各事務所のトイレは温水便座・障碍者対応のエレベ-タ-・セリ場へ観光客の侵入を防ぐ・IT化の促進・OAのための床下配線が楽な事務所などがどんどん共通の設備が決まっていった。(築地では戦前の建物でエレベ-タ-やエアコンは自主整備だった。)
 水産の冷蔵冷凍トラックは最後部のドアが開くタイプが主流で青果のトラックはパレット積輸送が楽な横のドアが上にあがるウイング車が主流である。そのため青果部の床が道路面と段差がないことを要求していた。東京都の衛生管理者は畑の細菌等が市場内に入ることを懸念していたが青果に関して床を上げただけでは衛生管理が進まないと強調し床が道路と平らとなり駐車場の上に屋根がついて小規模青果買参人の便宜を図らって決着した。ところが水産部は移転反対の仲卸が会議の主役となっていたため、設備に関する会議の意見集約が進まず、取引の実情を知らない設計となって、いざ豊洲開業となると不満・不具合が多発した。豊洲移転反対なのでなぜ豊洲の施設設備のことを議論する必要があるのかという主張だった。
 豊洲移転時のクレ-ム多発は水産部の準備不足だった。混雑が減り、広い豊洲を高速で走行する電動タ-レは危険な乗り物となった。そろそろ走行時ヘルメット着用を労働基準監督署から勧告されるかもしれない。昔はバイクはヘルメット着用義務は無かった。
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2006年9月以降の築地市場移転会議2

2020年01月27日 | 築地市場にて
2016オリンピック招致で日本が東京となっても、築地の移転会議の質・回数・真剣さは増したが、水産仲卸の人たちの会議の状況が漏れ聞く限り、青果部より進行状況が遅れていると感じていた。記憶は定かでないが新市場内物流・衛生(ごみ処理)・電話を中心とした通信設備(ほぼNTT)の会議があった。築地を制する仕組みは全国の農林水産系の設備の前例となるので業者の意気込みは真剣である。大田市場の移転時にはWIN95以前でほとんどの青果業者はIBM系のコンピュ-タで支配されていた。政府とデ-タのやり取りしないといけないということと補助金の問題から生じる。農水系はやはり農林水産省の影響が大きく、産地毎(都道府県)金額(消費税は含まない)重量のデ-タのやり取りでそれぞれのコ-ドは全国共通になっているが廃れたものとか新規の商材とかのコ-ドはどう割り当てられているかわからない。こと漬物のコ-ドは少なく、実際は自社コ-ドとJANコ-ドとなる。さらに流通コ-ド(BMS)というものがあって大手量販対応は3種に対応しないと混乱する。
 そのような築地だけの問題から日本全体の青果物の在り方の議論が築地移転会議で展開していた。まるで国会のより真剣な会議であった。議事を記録する速記者もいて、議論から離れそうな問題になると会議主催者の東京都の職員が議事進行を止めることも度々あった。午後2時ころから4時ころまでの会議で前回の議事録確認から始まり当日の会議の総論が始まり、卸業者・仲卸業者代表・買参人から意見を聞く。それぞれの意見を聞いたのち、東京都の職員から疑問点を3者に質問が出る。どの人たちも築地のプライドがあって(江戸時代よりの日本代表という)国会のような議論のための討論とはなっていなかった。
 築地の人たちは日本の農水産業を背負っている意識がいつも感じていて、他の市場とは少し異なる。天下の築地本場と心の中で思っている。
 会議で出された疑問点をそれぞれの部門が持ち帰り、次回の会議に回答することとなる。同じ市場に働きながら、やはり将来をどのように考えているかが異なっていたと感じていた。従って水産部の混乱を横目に見て会議の進展がオリンピック招致の問題が派生するまでゆっくりだった。商売の優先ということだ。
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2006年9月以降の築地市場移転会議

2020年01月26日 | 築地市場にて
築地市場内のプレハブ建物の会議室で青果部の移転検討会の会議が月一回程度で開かれ、傍聴人として参加していた。その時の議事録が東京都の公文書館にあると思うがこの公文書館も芝浦から世田谷玉川の学校の跡地に移転し、さらに水害の恐れもあって間もなく西国分寺の都立多摩図書館の隣に移転するので今は検索できない。
 築地市場が老朽化し再整備が建設途上で中断した(記憶が定かでないが青島知事以前)。築地市場の人たちは築地での再建は総論賛成だがいざ工事が始まると東京都の職員に難癖付け、再建工事が止まってしまった。駐車場などの全体の利益につながる工事は速やかに進むが水産仲卸店舗の移動に伴う工事が始まると止まったようだ。この辺の状況はまとまりのない水産部の話で青果部は大田市場が混雑がなく、低温管理していて、大きな得意先が築地から大田に移動するのをただ見ているだけだった。
 そんな時、2016年のオリンピック招致で東京が日本としての開催地と決定した。当時の日本経済新聞報道では冷ややかで、全国紙3紙は好意的に記事を書いていた。ライバルはアメリカの都市と書いてあった。結果はブラジルのリオとなった。東京オリンピックということで移転準備会議の内容の質・回数・真剣さが増したと感じた。2016招致計画では築地の移転が無ければ道路混雑が解消できない案だった。
 当時の東京都の市場担当の職員を見ていると、ほぼ2から3年ほどで交代していた。市場担当の東京都職員が業者との癒着を恐れ移動する(条例に反する軽微な違反)。市場で働く人は勤務先の移動が簡単で、都の職員の行政指導も効かない法制度無視の雰囲気が蔓延していた。もちろん上層部は農林水産省などの指導があるので市場の法制度に従っているが、現実から離れている法律で仕事はできないと自主的に行動している。
 それが事故が起きた時、いかに法を無視していたかが露見する。市場内を爆走するガソリンタ-レ-は築地市場内にガソリンスタンドがないため、違法だがポリタンクにガソリンを少量備蓄していた。ある時休市前の夜に火事が発生し、消火中に爆発があって、消火が中断した。備蓄ガソリンが引火したと思われる。この後監視されガソリン備蓄縮小のためか築地市場の火事は小規模となった。でも火事は続いた。タバコ・水槽を温める装置の空焚き、ネズミによる漏電・コンセントにたまったほこりによる漏電などであった。ガソリンタ-レ-が減った原因は東京都の電動タ-レ-補助金で新規のガソリンタ-レ-が禁止されたことになる。初期はパワ-がなく交代が進まなくなったが電気代が安いので補助金が出るたび交代が進んだ。築地がら豊洲へ移転した時、すべてのタ-レ-とフォークリフトが電動となった。そのため豊洲市場の建設工事が盛んなとき、ガンセンタ-前の2件あったガソリンスタンドのうち一件が廃業した。このスタンドはタ-レ-用のガソリンスタンドで今は更地となった。
 中央卸売市場法が時代遅れということを感じる。制度自体も消えるかもしれない。ただ毎日同じ食物を食べるということはドックフ-ドのようなものだ。文句の言えない動物と人間は違うのだ。日々変わる刺激が市場の魅力かもしれない。ここは老人力が生かされる数少ないところかもしれない。

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2006年8月30日福岡オリンピック招致失敗

2020年01月24日 | 築地市場にて
2006年8月31日の新聞記事を都立中央図書館で集中的に読む。今は忘れ去られたが築地市場関係者は気にしながら結果待ちだった。石原知事が当選してから、築地市場の再建工事が止まっている状況見て、築地での再建を諦め。他の地域に移転することを表明した。その中で2005年にだれが言いだしたかは不明だが2016年東京オリンピック招致という構想が発表され活動が始まった。同時期福岡市も招致活動が始まり、一時期は東京一極集中ということで僅差の争いだったが福岡の不祥事などで最終的に2016年招致失敗でも再招致する東京に支持が集まり、僅差で東京となった。
築地市場移転反対する中央区区長
東京都中央区の矢田美英区長は2019年1月17日、4月の統一地方選で実施される区長選に出馬せず勇退する意向を固めた。1987年に初当選した矢田氏は現在、23区長で最多となる8期目。在任中、同区は臨海部での不動産開発が進み、約7万人まで落ち込んだ人口が16万人台まで回復した。一時は 居住人口がバブル崩壊で減り、他の近隣の区との統合も噂されていて、築地市場で働く人たちが移転に伴い中央区から出る懸念があった。築地市場は午前2時頃から活発に動き始める。この時間の公共交通機関はなく、近隣の居住地からバイク・自転車・徒歩で築地に通うことになる。場内の駐車場は少なく、周辺の駐車料金も高い。7万人まで減った中央区民の中で築地市場で働く人の比率は多かった。区が統合すると公務員・議員も減ることになる。中央区は財政は安定していたので、人口を増やす手段に出て、消滅区から脱出した。
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