豊洲市場の開業半年と言うことで新聞報道がなされている。事故報道が多いと感じるが築地でも多かったので増えたとは思えないだろう。ただ敷地が広くなり、青果部との間に道路があり急ぐ人たちが地下トンネルでスピ-ドをタレ-で出す。一年通して労災の数は築地と比較しないといけない気がする。買いまわりは豊洲へ行ってから築地で食事するになりつつある。時間に余裕のある観光客に豊洲の食堂が占拠されている。
まだ豊洲市場の真価を問われる真夏を経験していないのでなんとも言えない。日本全体の食の経済で市場というものがどの様な地位を占めているかが問われている。一応数字的には減っているが日本の食を目指す観光客の数字は市場の売り上げには計上されない。出てくるのは市場前駅の数字かもしれない。
築地の再整備をすれば豊洲へ行く必要は無いとある移転反対団体が言っていた。再整備の築地は立体化がその設計の基本だった。当時から立体はエレベ-タ-の問題で難があると考えていた。今豊洲では閉鎖型の施設のため、立体となっている施設の中をタ-レ-が走り回るためタイヤの粉塵の問題が出ているようだ。坂は走行するとき荷物の絡みで制動にタイヤを減らす。それで無くとも時間に追われる仕事でゆっくり走ることになれない。高速走行でもう既に死人が出ている。築地より広い豊洲でのんびり走るわけにも行かない。地下にどんな汚染があっても今のところ食材に汚染が移転したということは無いようだ。それより前から指摘していたように市場で働く労働者の健康問題であることが今頃話題となることに驚く。今の市場流通の現状を知らないようだ。鮮度の問題で市場に滞在する時間が昔より短い気がする。従って汚染が伝わる時間も少ない。
多分補助金でタ-レ-のタイヤの更新があるかもしれない。これも都民の税金である。
ここ二日新橋から豊洲市場行きに乗った。以前は大江戸線勝どきまで行って豊洲市場行きに乗った。築地4丁目の交差点の右折で時間がかかることを計算したつもりだった。環状2号線の一部の仮開通で晴海通りの流れが変わった。仮設道路を利用すると築地5丁目から豊洲市場青果部間の信号は2つしかない。ところが築地ガンセンタ-前から豊洲市場への道路にある信号が20近くある。赤信号に阻止され豊洲へ行くには環状2号線を利用した方がよい。逆は浜離宮交差点の渋滞があるので差は無いようだ。
豊洲市場内のバスの中では相変わらず豊洲の不都合の話が多いようだ。
新聞報道で平成30年12月の豊洲の数字が悪いという。荷主が慣れない年末の豊洲の混乱を避けたようだ。まだ一部の配送業者が築地から戻っていない。人手不足で暇な市場を選んでいるようだ。
環状2号線仮設通路入り口の築地市場青果棟が消えた。見ると瓦礫の山となる。豊洲の電気点検も終わる。築地より明るいので風が吹かなければ普段と同じ。8時20分頃主電源が消え、11時35分再点灯。ただしエレベ-タ-の電源が再稼動したのは夕方5時少し前。従って重い荷物はゆりかもめ駅のエレべ-ターを利用する。大回り。
築地の電気点検は年々予定時間より遅れ、最後の年は夕方暗くなって再点灯した記憶がある。
終わってしまえば何でも言える。これで築地からの豊洲移転が本当に終わった。
築地にいるときから、1月27日の豊洲市場の電気点検の準備をしていた。築地では20年以上の経験があるが豊洲ではNTTの電話回線が基本は光なので停電では電話回線によるデ-タの取出しが出来ない。後数年でメタル回線は廃止計画があって安全に関する設備だけメタルを使うように豊洲では設計されていた。このメタル回線は停電に強い。電気は電話局からやってくる。築地では経験済みであるが実際のところ豊洲で停電時メタル回線で想定通りデ-タが取れるかやってみないとわからない。
テストではうまくいっていたのだが26日に事前テストをしたら不具合があって、予定変更。
豊洲移転の混乱も終わり、再び史料調査へ。近場の割りに時間がかかる沼津市戸田へ行った。東京から3時間ほど色々な交通を使ってもかかることがわかり、車と言うことになる。昼の戸田はバス便の少なさで行動制限がかかる。
丁度ロシアと日本の交渉が始まっていてNHKが戸田の造船資料館で撮影していた。安政の大地震でロシアの外交団が下田にいたとき、船が津波で破壊された。この船の再建計画で戸田が選ばれたが、下田から戸田への回航途中で沈没し、新規に建造をすることとなった。この西洋の形式の造船が近代日本の造船業の始まりとなる。外洋航海の気候に耐える構造を持つ船の建造は江戸幕府が禁止していたため、日本船の遭難が多かった。
浦賀の与力たちは西洋の文献で西洋の構造を持つ船を浦賀で作っていたが、細かい部分が不明で、浦賀与力の中島三郎助が戸田に見学にいったようだ。ロシア船を再建した戸田の船大工は石川島の水戸藩造船所にいき、君沢型という戸田で作ったロシア船と同じ構造を持った船を作った。この石川島への人の斡旋は中島が関係しているという。
戸田でのロシアの乗り組み員と戸田の大工との通訳は堀辰之助と本木昌造が日本の担当者であった。本木は日本活版印刷の始祖でその弟(平野富二)が石川島造船所を発展させた。平野富二はいま忘れられつつある人物だが築地と戸田の縁で休眠の危機のあった石川島造船所を復活させた。
休日要員なので4日の豊洲市場内の金融機関へ小切手の預け入れを行う。11時頃に行ったのだがみずほ銀行東京市場出張所は5人目、同じく城北信用金庫豊洲市場支店は6人目だった。
東京都の管理棟内に入る歩道橋からの入り口が閉まっていたので大回りしていくことになった。使い勝手の悪いエレベ-タ-は歩道橋を利用しにくい。何か豊洲市場と道路の設計の連携が悪いようだ。がらがらの道路が豊洲市場交差点の交差点で渋滞が出来る。右折2車線で直進1車線で右折の利用者が少ないのに。
新年早々に東京都の衛生試験所の職員が巡回に回っていた。まだカラスとネズミは見えない。ただ毒クモが豊洲で発見されたようでエレべ―タ内に掲示してあった。夕方渋滞のない豊洲市場へ九州から大型のトラックが直接入る。野菜が記録的に安いので漬物の売れ行きが悪い。
元日に築地に行かないのは20年ぶり。正月要員としていつも閑散とした築地市場内をカラスと戯れていた。解体中の築地が更地になるのも今年の終わり頃だろう。
豊洲で数字が出る頃、昨年の築地場外がどうなっていたかがわかるだろう。まだ我慢比べが続いている気がする。オリンピックが終わるまで築地の我慢比べが続く気がする。気がついた時海鮮系のレストラン街になるように思える。築地周辺の変化の激しさは他の地域より早さが早い。
豊洲も築地も経験の無い年末が終わる。天災の多い年だった。紀州の与党議員への忖度と猛暑で忙しかった。それも終わる。平成の終わりの儀式の10連休も経験の無いこと。
東京都の築地市場解体情報を見ているとアスベストにいかに築地市場が汚染されているか知ることが出来る。更地になるのも大変だ。まだ築地市場の地下にある汚染も誰も知らないようだ。いずれ再開発か売却でも地下の情報は表に出る。
豊洲市場で屋根の下に置ききれない青果物がある。築地では溢れた青果で狭い施設がさらに狭くなって年末の混雑を増大させていた。豊洲では今のところ屋根の威力が感じられない晴天続きで終わりそうだ。1月5日のテレビ局取材報道の回覧もやってきて年末らしくなった。セリは明日で終わる。
わけあって豊洲市場7街区の豊洲市場から新橋行きのバスに乗りました。前に市場前駅から乗ろうとしたら、観光客で満員で降りる人無く乗車拒否されたので、出発地点から乗ることにしました。水産仲卸の停留所でほぼ満員。勝どきのバス停で2割、築地6丁目で3割の人が降りました。後はガンセンタ-前と新橋駅なので予想の降車数はわかると思います。10時代の都バスの社内は年寄り買出し人の情報交換の場のようです。
やはり築地より遠いという話が多く、設計ミスを指摘する人が多いようです。都の施設はモット市場の中心から離し、青果と水産を隣にした方がよかったという話でした。過去の経緯を知っている身としては一理があるがそれは素人案で今の形しか無いように思える。市場というより物流中心となる。
東京都のお触れが回ってきた。来年1月から土曜日の豊洲市場でゆりかもめ市場前駅前の空き地(まだ決まっていない)でイベントをするようだ。解釈が玉虫色でいずれ毎日なるに違いない。
観光客に市場のレストランが占領され、いずれ軽トラ食堂の聖地となるしかない。