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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

漬物は日本食文化でコウモリのような存在

2021年09月06日 | 築地市場にて
今度の感染する新型コロナは由来ははっきりしないが、前の中国由来の感染症はコウモリから来たといわれている。そこで思い出したのが童話でコウモリが鳥でも哺乳類でもない存在の話だった。
 漬物は調べている内に日本食文化の中で特異な存在である。一般には知られていないが、日本人海外移住の資料を集めている、JAICA海外移住資料館で2011年 望郷 夢見るたくわん 広告に見る(タクワン貿易)と日本文化という展示会があった。いまは世界中に広まった日本食文化がタクワン貿易という業界用語を知っている人も稀となった。
 輸出もあれば輸入もあって、韓国キムチの普及の歴史も自分自身で見聞きした。さらに中国からのザ―サイ、台湾からの梅干しの輸入とその発展の歴史も築地で見ていた。
 塩さえあれば、どこでも漬物は作ることができる。従って文献は少ない。空気の臭いの文献と時代的背景などは記録に見えない。記述されない。臭いの感知は危険の合図。コロナで嗅覚がマヒするという。食べ物がおいしくないだろう。味は舌で感じて鼻で確認する。鼻をつまんで食べればダイエットになる。
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トラブル大好き 前史 2006(平成18年8月25日)の出来事

2021年07月24日 | 築地市場にて
もうじきワクチン効果が出て高齢者の重症者が減り、コロナが重い風邪になりそう。多くの対処で税金を投入したにもかかわらず敗北感が漂う。このコロナ戦争が大変だったということが記憶と歴史に残るだろう。第三次世界大戦というべき性格もある。過去の大戦と違って、人との交流があるところは戦地となった防戦する医療従事者の戦死した例も多い。。南米のアマゾンやアフリカの未開地にもコロナは容赦なく戦地にしてしまった。今でもコロナ戦の戦時中のところが多い。ただ途上国は若い人が多く、死者は少ない気がする。
 日本のコロナ戦争の不手際は多くありすぎるが、やはり2020年東京オリンピック開催が議論に混乱を増していた。そこで2020東京オリンピック招致に至る前のことを記憶に残したい。


福岡海の中道大橋飲酒運転事故 (詳しくはウイキぺデアで調べること  )が2006年夏にあった。この事故のあと数日で2016年オリンピック開催都市(結果はリオ)で日本として、東京と福岡が立候補していた。東京の財政力と福岡は初めてということで競り合っていた。東京への批判は一極集中という批判もあった。結果的には10票以上の大差で福岡が負けたのだが5から6票が福岡に回ったらという僅差だった。それには飲酒運転事故により、最後の票固めで福岡が負けたと思われる。
 2016年のオリンピックが国内開催都市として東京に決まると、築地市場内の豊洲市場移転会議が真剣になっていった。月1回の会議は12月と1月を除いて青果部では開いていた。そのほか全体会議はあったが関与していないし、興味もなかった。8月末に東京に決まるまで、築地移転会議は真剣でなかった。それはすでに築地の移転とか再開発の会議が難度もあって、計画中断の虚しさもあって、本当に移転するかどうかが東京都の職員をはじめ会議に出ている人たちの共通の心情だった。明治の20年代以降、何度も東京の生鮮市場の移転構想が提案され、様々な事情で計画が失敗した。唯一成功したのは関東大震災とそれを口実として戒厳令司令部が日本橋魚河岸の道路の不法占拠禁止を強化したことから始まり、やむなく築地に移転した。昭和10年で最初は青果部だけだった。魚は遅れて入場した。
 戦後も落ち着いてくると、鉄道輸送からトラック輸送に代わると、不都合なことが目立ち、移転計画が出てきた。
 1回目の移転候補地は今の大田市場の隣接地で野鳥公園となったところで、会議がもたもたしている内に野鳥に占拠された。移転を渋った理由は築地から遠いということに尽きる。

 初めから移転する気のなかった築地人が一度は築地市場内の再建工事を始めたが途中でもめ事があり中断した。400億円捨てた。そこで都の悩み物化した途上国並みの市場を石原知事によって強引に移転計画が始まり、錦の御旗となるオリンピック招致となった。このオリンピック招致がなければ築地移転は豊洲へ行けず、廃墟となったかもしれない。
 東京都の予算の90%以上は使い道が決まっていて、知事の裁量のある部分は少ない。バブル崩壊後財政の厳しい国に代わって、自由になる東京の金で経済活性化を狙った。築地を移転させ、跡地開発で数兆円の経済効果を狙った。すべては震災とコロナで終わった。予想されざる天罰かもしれない。しかし江戸時代から東京は度々の災害から火事太りとなり復活した。
 オリンピックが終わる時、花火が打ち上げられ、コロナ戦で死去した人への鎮魂となるだろう。もうこの手のイベントは衰退する日本では提案できないだろう。そして内内の事がSNSの時代に記録と残り、消せない記憶となる。

 今でも豊洲市場の地下から汚染物質が出ていも、選手村の人たちは騒いでいない。あの地下汚染騒動は何だったのだろうか。これも数百億円のむだな費用だった。地下空間は万一のことを検知する空間だった。糾弾されたが正しい仕事といえる。
 多くの歴史で正しい仕事では物事が進まない。築地は船頭が多すぎてなおさら進まない。正しいと思っていても商売敵の意見には従いたくない気分がある。これは数年で担当が変わる行政の欠点かもしれない。
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築地本を読んで4年後の都議会の争点

2021年07月12日 | 築地市場にて
都議会議員選挙中で区から選出される議員広報を読んでいると、4年前に争点だった築地市場の移転問題から、地下汚染の状況を見ていて、小池知事の豊洲移転の是非が都議会議員の争点だった。4年後の今の選挙公報では当区の候補者から豊洲の地下に今でも汚染があるのにかかわらず、論議の言葉が選挙公報から消えている。
 今コロナによる飲食店への休業補填金から財政のひっ迫とこれから始まる東京都民の高齢化で福祉の問題が4年後の都議会の争点となるだろう。もう築地の跡地開発の問題は築地の問題から消え、東京都の傷んだ余裕資金から飲食店補助金の財源となるしかない。そのような口実で築地の跡地を転売することで移転反対した人々に許しを請うしかない。築地の青果や鮮魚の取引先は飲食店需要で彼らの料理の良き相談役でもあった。
 福祉の問題で保育園を拡充という候補者があったが4年後には消えている気がする。保育園増設はコロナで出産が減り少子化が加速し。希望する女性が入園出来る気がする。過去の保育園建設予算が順調にいきわたり施設整備が進み、4年後の都議会には保育士の給与が下がった問題が出るかもしれない。日本全国の保育士が余り、首都の保育園しか就職先が見つからない時が来そうだ。その後小学校が余り、学校統合の話も争点になる。英語教育と言って、中学生から交換留学で少子補填も想定できる。
 築地での経験から実践が語学の早道と思う。使わない刀(語学)はさびる。島国日本は外から人が来ないと怠ける。築地で警備している人が各国語で来る人に身振りと片言で対応していた。必要は語学を促進する。
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築地本6 本当にブッラクな築地市場

2021年07月11日 | 築地市場にて

サカナとヤクザ  -暴力団の巨大資金源「密漁ビジネス」を追う- 鈴木 智彦著
築地市場も有楽町から朝日新聞が1980年(昭和55年)4月23日 築地5丁目の市場の正門前に引っ越してきたから雰囲気が変わる。それまでのブラックで世間と別世界と感じる話を聞いいた。暇なときは現れないが、連休前後とか、年末の業務多忙なときは本性が出てくる。築地が繁盛していた時の話と人手不足で人材を選べないところで、他のところで失敗しても築地では受け入れてくれる。学校のブラック規則などは築地にはない。注意されるのは一度だけ。特に衛生面で茶髪金髪赤髪は普通の世界で体力があって、欠勤しなければ年齢制限がない。80でも十分働いている人を見かけた。築地で一番嫌われるのは無断欠勤で酒酔い勤務は黙認の世界。

 市場というところは表向き明朗公平という印象があるが、時間が短い・現金商売など規格化されていない商材は個人の目利きの職人の世界でもある。そこには常時不正を行う誘惑がある。在庫をしっかり記帳していても、破損、商材の賞味期限の日切れ等で廃棄するのも多い。市場は昼に終わる。すると昼から酒を飲める人は近所に住まいの人で事故さえ起こさないと見つからない。それで娯楽がギャンブルしかない。店の金を一時的流用として、ノミ行為の人に依頼する。大方損をして、店の商品を埋め合せる。従って親族でない人は信用が置けない。すると親族の羽振りの良さに比較し、バイトは賃金の安さからお客からの金を懐に入れることをするようになる。

 農産物でも水産物でも他人の商品となる物を無断で収穫し、東京等の市場に流す人がいる。多くは東京行きでこの本は事情が書かれている。築地のDXの遅れが産地の盗難品の販売先にもなっている盗難品の激安価格の下に生産者が泣いている。盗まれた農水産商品が値決めの参考価格となり生産意欲を減らす。
 市場で激安商材をあさるのは犯罪者の助けかもしれない。発展途上国で児童労働などで激安商品を日本に持ってきて販売することは、安さの正義より、搾取の共同犯罪者でもある。ウィグルを気にするのは世界は新しい段階に来た気がする。
 根拠のない激安は犯罪があるという疑念を持つ時代になった。安さを追求していた日本はもしかすると犯罪者的生産物を売っていたかもしれない。途上国労働者の搾取、再生産不能な無差別、無区分の乱暴な漁獲もあり、日本の100円すし屋を繁盛させる。心が痛まないのだろうか。金子みすゞが生きていたら、どのような詩を書くのだろうか。
 

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築地本5 すしざんまい 

2021年07月10日 | 築地市場にて
マグロ大王木村清-ダメだと思った時が夜明け前-木村 清著
 この本の出版は2016年春でまだ小池知事による豊洲移転ドタキャン騒動の前で、木村社長が 2015年4月29日豊洲市場の先客万来施設の涙ながらの断念の後だった。2021年秋には断念の原因となったお台場の温泉施設が契約切れということで、お台場から温泉施設が消える。豊洲の観光施設は木村社長の後を万葉の湯が候補になったがそこでも揉めた。東京都がお台場の温泉施設の契約延長しなかったのは豊洲観光施設へ集客懸念の密約の配慮だろう。今から思うと木村社長は運のよい判断だった。大和ハウスと取り組んだ先客万来施設は青果部の抵抗で大和ハウスの方が先に撤退した。その理由の噂では、土日の予備の観光客用駐車場として午後から使用車が減る青果部の買い出し人駐車場を予定していたようだ。他の暇な市場なら多分認められるが、青果連合は断ったようだ。コバンザメ商法は豊洲市場の自治意識に反する。これは明石市の花火事故の後遺症で、市場祭りで多人数の集まることの責任問題から来ている。築地以外の市場は毎年市場祭りがあって、それなりの集客力がある。しかし築地は別格で15万人ほど集まったときもあり、少ないときも10万人集まる。デズニ―ランドよりはるかに狭い所に集まる。明石の判決の後、築地市場祭りは運営者責任問題で開催を避けている。もし開催したら20万人が来るだろう。

さてマグロ大王の本だが確認はしていないがかなり出版社の意向に合わせて書かれている気がする。しっかりと読めば築地市場流通の欠点があって、さらに築地周辺の飲食店が外部から見た築地場外市場の有用価値を知らないで、朝早くから営業しているので夕方には店を閉めて人気のない街になってもなんとも思っていなかった。そこに築地本願寺の隣の場所で24時間営業の弁当屋をやっていて、需要があるとみていたようだ。さらに築地場外市場の中心部に空いた店舗に店を出す。外れならいくらでも貸し店舗あるが中心部の空き店舗は当時でも中々でなかった。
 木村社長の喜代村の経営記録で漬物がある。詳しく知っていた人から聞いたが当時として目立つ人だった様だ。場外市場の中心地から発展し、社用の顧客の多い場外すし屋は衰退してゆき、今はかろうじて生き残っている。
 彼の経歴から、千葉県野田市関宿生まれで、自衛隊に行き、ケガをして、築地に縁のある会社に勤め、隙間を狙って調査し、繁盛したが、結構失敗し、その経験の上に今がある。今はコロナでピンチのようだが決算を見ると、利益が減っているが赤字ではない。すし屋で元気のない声を聴くと寿司がおいしくない。
 でもこの本を読んで面白くない。安く水産物を明朗会計で提供するのは良いが魚の日本の生産者は希望をもって漁に行っているのだろうか。買い叩いているように思える。多くの地魚が流通に乗らず捨てられている。サイズの規格外もある。漁師が生活できてすし屋がある。

2016年は築地関連の本が多数出版する計画があった。
 

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築地本4 土壌汚染

2021年07月09日 | 築地市場にて
市街地土壌汚染問題の政治経済学 佐藤 克春著
第7章 築地市場移転予定地の東京都豊洲における土壌汚染
 求められるリスクコミュニケ-ション

 図書館で築地市場と検索したところ、この本が出てきた。豊洲の地下汚染問題で、土壌汚染専門家が考えるリスクコミュニケ-ションの考え方を打ち出している。著者の言うには東京都が移転のための情報隠し、データ取りの不自然さは全て築地の人(食品知識はプロだが)たちの土壌汚染という基礎知識がないため、不適切な土壌汚染調査という。そこから始まるリスクコミュニケ-ションの解釈で豊洲の地下空洞問題が大きくなり、再工事のあと、豊洲移転がオリンピック開催の圧力によって、小池知事が決断した。小池知事も石原元知事によって騙された。豊洲移転の強引さに、疑念を持つ人の頑張りで、築地以外の人の広範囲の知識を持つ別の世界の人が解明した。築地の利権と週刊誌が書いていたが、確かに公平に取引すると、法律の建前があるが人情もある。天候の加減で不足した商材をどこに回すかは営業の腕前で、過去の困ったときに助けてもらったところに他言無用とそっと回すとかの技もある。要は公平感を保ちつつ、義理人情を利用する。当然商材が余ったときに、前回の不足していた時のことを口に出さずでも目で言う。これはセリでないので起こる。夜中の処理は転送に近く、短時間の築地滞在で汚染の入る隙間がない。今は卸売市場法が実情に合わせて改正されて、話すことも出来るが半年前は法令違反で始末書の世界である。その理由は他の市場から天下意識のある築地は横暴という声が出る。豊洲市場の石原計画では首都圏3300万人の中核市場を作ると書いてあった。隣接している他県の市場はそれでなくとも不振で、築地や大田に商売をとられるという意識があった。

下記の2冊は同じく図書館検索で出てきた築地市場移転の時の豊洲地下汚染の情報隠しを詳細に検証している。この2冊だけを読んでいると、今でも地下汚染が在って豊洲移転の疑問視した移転反対派の人が静かなのが解からない。
1 築地移転の闇をひらく 中澤 誠著  水谷 和子著  宇都宮 健児著
2 検証・築地移転  -汚染地でいいのか 日本の食文化を守れ!-築地移転を検証する会編 

 豊洲へ移転後、東京都は中央区住民に対して、築地市場で使用していたアスベスト除去工事の説明会を行った。説明会場は満員だった。広さと量は過去最大級といわれ、築地市場付近の住民の心配を増した。もし築地で再建工事があったら、まだアスベストは撤去されずにいたと思うと豊洲の地下から微量の汚染が漏れてがんになる確率は築地市場の中皮腫ガンの確率の方が高いと思われる。豊洲の地下汚染の漏れの懸念は震災があったら床の隙間から漏れるという前提であって、築地市場のアスベストは覆われいない状態のところもあった。

 当時築地市場のむき出しのアスベストから中皮腫という特殊な肺がんが多発したら築地市場で働く人は消える。アスベストの潜伏期間は長いという。青果部は一番危険なレベル1で水産部は鉄骨の部分がレベル3で面積が一番広い。 
 築地市場閉場後すぐに解体工事を始め2020年2月末までに、築地市場の計155棟すべてを解体した。問題はその約3分の1の55棟で石綿・アスベストが使われていた。除去が必要な建物の壁や柱などの面積は計8万3500平方メートルを超える。そのうち飛散しやすく危険性が高い「レベル1・主に青果部」や「レベル2」が、約6万平方メートル(東京ドーム1.3個分)もある。水産部の仲卸の鉄骨部分はレベル3だった。青果はレベル1で移転を焦り、水産仲卸はレベル3でのんびりしていたのだろうか。地震でアスベストが剥がれ飛散することは地下汚染より怖い。地下汚染は長時間滞在しないといけないがアスベストは運の世界で肺に入ったら、50年間中皮腫ガンの心配がある。
 アスベストの悲惨とネズミの問題で築地市場周辺の人は東京都が隠していた(あまり話したくない事実)で築地市場を是が非でも移転させたいのはアスベストの使用面積の巨大さを 隠したかったと見える。豊洲の汚染の危険性(震災後)と築地のアスベストの危険性を考えると築地の方が怖い。築地市場は毎日5万人が出入りし、さらに全国から配送等で来る人もアスベスト汚染地域を知らないで通る。

 最近の週刊誌の見出しでは築地の利権とは商材でなく、旧築地市場の土地再開発だと思うが、東京都幹部の自由にならない選挙結果となった。もしかすると、再開発は消え跡地は公園になることもある。大田市場の隣に移転予定だった水産市場が遅れ野鳥公園になった例もあるし、旧築地市場の地下には江戸時代の松平定信の隠居後の大名庭園も眠っている。大江戸線築地市場駅出口に説明板がある。浴恩園という。

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築地本2-3 築地市場年代史⓶

2021年07月08日 | 築地市場にて
築地市場  -クロニクル完全版1603-2018
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
 東京都の中央卸売市場史というのが上下2巻の本がある。築地の移転の騒動は4年ほど前の一時夏枯れのTVワイドショ-で全国に報道されていて、来客の人からどうなっているのと聞かれた。コロコロ変わる東京都幹部の話とぶれない反対派の中で、移転にある思惑が外部の人にみえてきた。でも築地の人は強引にやっていると知っていたが移転賛成派が多く、様子を眺めていた。

 2011年3月11日の震災時には水産部は大方業務が終わっていて、残務整理の人しかいなかった。しかし青果部は一日のデ―タ処理の最盛期の時間だったが、さすがに2度目の揺れでは、青果本館、別館から建物から距離を置いて、揺れるたびに壊れるタイルの落下を見ていた。会社で働いていた帰宅困難者を車に乗せ、3時には築地市場を脱出し、無事に送り届けた。

 10年も経たず、築地市場の移転騒動回顧録が出来るだろうが、この後は築地市場の再整備は記念碑しか残らない気がする。都心の交通の便の良い不動産は二度と出ないだろう。築地の本はあの騒動で全国に日本の食文化の中心と理解された。他の地方の市場の移転が中心地から物流に便利な地に移転しても騒がない。
 江戸時代から続いた仕事を食の流通の変化とDXという人知を超えたシステムで居ながらにして顔を見ながら世界と話し、商談する。そして数時間後には飛行機に乗って、異国の地で提供される。日本の高級料理店のは安すぎて、海外レストランなら十分採算が取れるという。築地市場の青果卸会社が2022年春に成田空港の隣に移転する、成田地方卸売市場と提携進出する。ここは豊洲で集めた商材を仕向け地に合わせて用意する市場でリンゴ等の高級農産物の輸出基地となる。
 築地は低迷している時期に、一般人が繁忙時間を過ぎれば、入場を黙認されていた。そして築地人の気が付かなかった良いところを見つけ外国人観光客の人気となった。豊洲へ移って、また前のように強い入場規制が戻り、食の安全安心は確保されたが何か観光客の満足が得られていない気がする。間も無くコロナとオリンピック騒動が終わり、平穏で話題が小さくなった豊洲市場が戻る。平成の初めはバブル崩壊だった。令和の初めはコロナによる飲食業の破壊だった。
 日本はコメの国で古来から酒は重要視され、物品税の始まりは酒税だった。今でも国税庁の酒税は食文化の中の必要な制度だが、今は酒酔い運転の交通事故やコロナ感染拡大促進者となっている。
 日本神話で天の岩戸の中に隠れたのを開けるため大騒ぎしたのは酒の力だろう。日本の宗教は酒が精進落としとして許される。

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築地本2-2 築地市場年代史⓶

2021年07月07日 | 築地市場にて
2016年夏、小池都知事が豊洲の地下汚染の検証がなされていないので突如延期となった。結果は2年後に豊洲へ移転が伸びたので、追加を記事を加えた本となっている。

築地市場  -クロニクル完全版1603-2018
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第3章
魚河岸と大根河岸のル-ッ
築地の移転問題の底流には明治からの東京都(市)の都市計画があって、日本橋魚河岸の移転問題も業者サイドの事を書いている本が多いがこの本では明治政府の都市計画の中で魚河岸がどような位置にあったか理解が進む。明治東京の発展とともに日本橋魚河岸周辺の近代都市整備計画がドンドン進んでいた。井上薫の欧化政策もあって、銀座レンガ街のはずれに江戸の風景が残る魚河岸が存在しては欧米文化に追いついたということで不平等条約改正には目障りだった。これは築地市場の昭和の再整備・豊洲移転計画に通じていて、外国人観光客の増大で不衛生・温度管理の不備の市場は近代国家の首都の中央卸売市場として遅れすぎていた農林水産省と厚生労働省の人たちは見ていた気がする。
90ページ
 明治22年に(東京市区改正設計)と取りまとめたのは渋沢栄一で今の首都高速箱崎付近が最初の魚河岸移転候補地だった。日本橋魚河岸の周囲の土地は近代化で発展していたが結局まとまらす、関東大震災を口実として、築地に移転させられた。平成の豊洲移転計画も政治家と行政の思惑で進んでいたことが、豊洲の地下汚染の問題から移転経過が解明された。しかし根本問題(築地の取扱高の減少)が解決していないので最後には政治家のタマムシ色の発言で移転反対派はごまかされた。コロナで跡地再開発案はだましたことがはっきりとするだろう。
92ページ 板船権をめぐる新旧の対立
 板船は3尺x4尺の木製の雨戸のようなもので、日本橋魚河岸の道路に並べ、商材をその上に乗せ販売していた。それが縁日の軒先を貸す権利となって、さらにまた貸しとなり不動産的権利となった。また板船権がなければ日本橋魚河岸の組合員の鑑札を持つことはできなかったようだ。この鑑札は築地の豊洲移転時にも残っていて、仲卸組合の決済の連帯保証の担保となっている。
魚河岸の諸制度は幕末の混乱を招き、幕府の衰退を結果として促進した天保の改革で破壊された株仲間の再建から調べないと理解が進まない。豊洲でも新しい規則が生まれている。そこには日本橋魚市場・京橋大根河岸の自治精神が残っていて、警察権力の介入は好まれていない。
 豊洲の入り口の警備の厳しさは外部の人間が入って不祥事を起こすことを防いでいる。毒物を入れるテロ。外部の人による不適切な動画など。いずれル-ルが整備されるまでの事だろう。今コロナで打撃を受けている豊洲市場だがオリンピックが終われば警備規制を緩める話も出るだろう。


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築地本 2-1 築地市場年代史⓶

2021年07月06日 | 築地市場にて
2016年夏、小池都知事が豊洲の地下汚染の検証がなされていないので突如延期となった。結果は2年後に豊洲へ移転が伸びたので、追加を記事を加えた本となっている。

築地市場  -クロニクル完全版1603-2018
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第2章 2016のクロニクルと第1章はほぼ同じで、建物の記憶
46ページ1933年の築地市場開業時の航空写真
 写真に勝どき橋がない。曲がった線路添いの建物でひときわ高い部分は築地市場が移転するまで残っていた。昭和の初めの空気が残って、窓枠はサッシでなく木製だった。
48ぺ-ジ正面ゲ-ト ここは築地市場再建時に作られ、400億円投下したが中断した名残。正門ゲートの右側に交番がある。昭和の初めの作りである。場外にも交番があって、バブル時に交番が廃止した時、競売となり、豊洲移転前に廃業した佃權が落札した。異常な高価格で場外市場の借地人の不満が出た。地代の値上げを恐れていたためである。なお築地の場外市場には数件の築地本願寺の末寺が残っていて、関東大震災後に移転しなかった。場外市場の地下には豊洲の汚染物資より大変な遺骨が眠っている。建築の基礎工事中に骨が出るという。
 豊洲移転前に築地の「佃權」が作り手不足から練り物製造から6月末撤退する。1868年(明治元年)が続く老舗で来年は創業150周年を迎える前の撤退となった。
表向きは人手不足だが、築地の情報通の話では豊洲へ行ってしまうと採算が取れず、余力のあるうちに廃業を選んだようだ。豊洲移転前後に水産部の加工品の商材を扱っているところが、一番豊洲行きを断念したようだ。量販店の量をさばくには市場の施設は狭すぎる。かまぼこ・ちくわ等の練り物は築地の扱いが減っていた。
50ページから53ページ 水産仲卸棟の鉄骨 この鉄骨は今の大成建設が組み立てた。パリの市場 ル・アールを真似たようだが、パリの市場が郊外に移転構想から50年経ってから移転した。国の食文化の中心地は強権発動しないと時間がかかる。パリの中心地の市場跡が再開発に失敗して、次の構想が出ているようだ。横浜市中区山手町の港の見える公園。フランス山の麓に青緑色した鉄骨がある。パリの中央市場の鉄骨だった。今更地となった築地市場の跡地開発はパリのように失敗しそうだ。
  ネット検索で今のル・ア-ル再々開発を見ていると、小池知事の築地も豊洲もという放言の後始末が大変なようだ。コロナで都の財政が厳しくなり、さらに高齢者の激増で予算が足りない。築地の再建途中で中断したのは東京都が財政赤字になりそうだった。給与の高い東京都の公務員は耐えることができるのだろうか。夕張市へ行き、北海道知事となった鈴木氏(元東京都職員)に都知事を依頼して、予算の激減もあるのではないか。
54ページ ピンコロ石 水産部仲卸店舗の下に四角い碁石のような敷石に気が付く。通路はアスファルトで覆われている。ある時築地の地下汚染で都知事の答弁で地下からは汚染物質がアスファルトで遮っていると答弁していた。ピンコロ石はただきれいに置いただけである。多分この答弁に反応しない質問者も築地の水産仲卸店舗に行っていなかった。通路は舗装されているので気が付かない人も多いようだ。
56ページ 鉄路 築地市場が出来たときの物資の輸送は鉄道と桟橋からの搬入だった。鉄道は汐留貨物駅から専用線路で築地市場へ入っていた。朝の9時過ぎに貨物の列車の出てゆくための運転があって、踏切のところに国鉄職員が見張りをしていた。幅の広い線路は小車(人力)から揺れで荷物が落ちやすく、みんなで抑えていた記憶がある。戦前は蒸気機関車だったので、築地の地下は汚染されていた。この件は豊洲移転反対派は誰も外部のライタ―に話さなかったようだ。北海道の線路の汚染を国会で追及していたのは、紙智子参議員で日本共産党だった。多くの蒸気機関車の線路の下は汚染されていた。築地最後に線路の上を覆っていたアスファルトがはがれて、鉄路が見えていた。線路を撤去しないでいたようだ。
参考 平成16年 参議院議員紙智子君提出旧国鉄跡地の鉛等重金属汚染対策に関する質問  蒸気機関車の鉄道の地下には汚染物質がある。当然築地市場も汚染されていた。
58ページ 弓なりの鉄骨の建物
 築地の最後の頃、夕方大回りして人気のないここを自転車で走行し、築地6丁目の吉野家へ行ったことがある。夕方の築地市場周辺は観光客用の飲食店しかない。写真の部分はプラットフォームでここに荷物が置かれる。その内側の通路が檜舞台通りという。この名称はあまり聞かれないが、黄色い紙に年末の交通規制図の通りの名前があった。ある時、警備の人に聞いたら、水産部の高級な食材を置いてある通りから付いたという。築地の文献にはまだ見つからない。
60ページ 魚河岸の名前は築地まで
 築地には隅田川に漁船から直接市場へ搬入する桟橋があった。市場使用料でも桟橋使用料が設定されている。初期の豊洲市場のプランでは豊洲市場の水上に観光船が付く図があった。今後香港のようなギンギラギンの水上飲食店が出来るかもしれない。
64ページ
鉄骨のアーチ パリの市場を参考にした築地市場は昭和初期の面影が残っていた。震災後の復興工事ということで、火災に強い鉄骨建築とがっしりとしたコンクリ-トで本館は作られていた。従って火災に耐えるように不燃材で鉄骨の回りを覆っていた。主にアスベストが使用され、解体時には過去最大のアスベスト除去工事と言われ、築地市場周辺の住民はネズミと共に恐れられた。アスベストの特異な肺がんは中皮腫ガンで今は国からの補助が出る。潜伏期間は50年という。
68ページ 時計台
 築地市場の場内放送で時計台通りというのがあった。市場の中心地から浜離宮の方に向かう通りで青果と水産部を分ける通りで、昼過ぎは広いが朝は自転車も通過に苦労するくらい荷物が通路を占拠している。事故も多く、ウイング車(荷台のドアが上に上がる)閉めないで走行し、青果棟と水産棟との渡り廊下に激突したこともある。時計台の時計はいつの間に消えたかわからないが、通路の名前で残っていた。築地はセリの時間が季節で変動していたので、腕時計が高い時代は役に立っていたのだろう。

この章の感想はカーブした鉄骨建物が4年に一度の店舗移動が必要となり、さらに火災から鉄骨を守るアスベストが築地市場内の働く労働者の健康危機から東京都は放置できなかったと思われる。しかしうっかり漏れると市場が使えなくなり、生鮮食品供給の社会不安を招くので最高機密になって、市場人も豊洲移転騒動でもネズミは漏れたが、アスベストの話は出さなかった。ここが築地人の移転賛成派も反対派も共同で最後の一線を守った。


 
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築地本1-4

2021年07月05日 | 築地市場にて
築地市場  -クロニクル1603-2016 
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第4章 激動の昭和
この本では築地市場の始まりは関東大震災後から3ケ月経って1923年12月1日から市設臨時東京魚市場から始まると言う。この 大正12年の3月に中央卸売市場法が出来ていて、東京市としては何とか市場関係者を説得しようとしたが、新旧の業者の思惑から様々な騒動を詳しく書いてある。結局日中戦争が激しくなると対立している間も無く、統合縮小化し、配給物資に集積所となってしまった。
 今回の築地の豊洲移転騒動の後ろに隠れていた中央卸売市場法の改正があって2021年に施行されたが、市場をめぐる取引が量販店の興隆に従い、生鮮卸売市場を通さない取引の拡大により、八百屋、魚屋が衰退し、市場の売り上げと取り扱い数量が減ってしまい、規制緩和の法案を検討している時期だった。従来の法律は小さな商店を対象としていたので、市場の荷受・仲卸の戦後の食料不足の時代の規制が残っていて、生鮮食品の要の市場を通過しないと違反だった。そのため経費と時間がかかり鮮度を重視する量販店が市場を通さない流通によって、取扱高が年々縮小になっていた。また量販店は廃業した市場経験者の目利き人を雇用し、品揃えも充実していった。このことは築地から豊洲へ行って,地下の汚染が在っても商材に汚染がないのは多くの品が通過するだけで、今の豊洲市場が物流センタ-化している証拠となる。今の中央卸売市場は非常時の食の流通の分配起点という立場であってそれなりの平時の資金援助と設備の災害に耐える施設が必要となっている。豊洲には防災の備蓄物質が確保されていて、付近の避難所計画もあるようだ。弱者保護の規制が量販店を市場流通から離れた結果、市場を通過すると時間と経費が掛かることを知ってしまった。
 東京以外の中央卸売市場の仲卸は量販店の仕入れ代行のように思える。地方都市は売り上げも少なく、生鮮食品の目利きの人材が不足している。また仲卸が売り先が確保してあれば、廃棄商材が減る利点がある。するとセリが形式となり、相対取引となり、量販店の物流センタ-へすぐ出てゆく。深夜早朝の保冷トラックのエンジン騒音は市場だから黙認されるが嫌われる施設でもある。
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築地本 3 魚河岸のピンチ

2021年07月04日 | 築地市場にて


ザ・築地  -魚食文化の大ピンチを救え! ルポ-
 川本 大吾著[東京] 時事通信出版局 2010年

著者は時事通信の記者の築地担当で日々の取引デ―タを送信する仕事か始まった。水産部のアナログを嘆いているが心配はしている。世間とずれた生活で外部のライタ―の気に入る情報流しを世界の水産流通の地位の低下を警告しているがバブル崩壊で飲食店が高く売る工夫が消え、逆にイオンなどの大型量販店が産地直送で市場経由が減っていても何も対策のない築地に活を入れようとしている。
 築地が消えそうということを、農林水産省と東京都が移転計画を築地移転反対派がさわいでいる水産物の消費拡大にはつながっていないようで、いわばデパ-トの閉店セ-ルで客を集めているようだ。豊洲移転直前は築地市場内の観光客の飲食店バブルで混んでいた。
 2008年頃、築地市場のマグロのセリ場で観光客が素手でセリ前のマグロを触って、騒ぎとなった。当時は秘密裏に一般客が本場内の仲卸で買い物をしていた。減りすぎた魚屋のため廃棄するより、まとめ買いの素人に販売していた。今のコストコで購入する客が築地市場内の仲卸価格で購入していた。魚をさばける技術があれば激安ともいえる。今は減ってしまった魚屋は飲食店で魚も販売しているところが生き残っている。海には単一の魚が生きているのでなく多種多様な魚が生きていて,また大小があるのに量販店の規格の魚から外れたものは激安になるという。そのため産地では漁師の賄いで消費するしかないようだ。これは青果の取れすぎて、市場の価格暴落の補填の仕組みが水産にはないようだ。
 著者は円高とバブル崩壊で築地が低迷している。悪循環の様子が書かれている。
 また漁師の収入の魅力がなく新規の参入者も少ないという。そこで全国的に休漁を行ったが宣伝がうまくいって相場の変動が少なかったという。今は養殖や冷凍もあってかっての鮮魚の市場というのが薄れた。
 2021年の豊洲市場は人手不足ということから、ほぼ週2回の休日となっている。市場の休日は全国の農林水産関係の休日と連動していて、東京の休市が決まらないと他の休日が決まらないようだ。
 築地の時、水産部と青果部の休市が違っていた時があった。青果が休んで、水産が開市のという日は暇だった。その理由は水産部の日給月給の人のクレ-ムという。暇でもそのような仕事がないのに給与を支払うのが大手量販店の攻勢に市場が負けたのだろうか。それとも年中無休のス-パ-が休みの多い市場を避けたのだろうか。
 単価を上昇を見込めない市場は生産者にしわ寄せが行く。規格を厳密にし、量販店が楽になるようにしている。昔は規格外品を漬物業者に売りつけていた時代もあった。
 昭和の終わり頃、築地市場へ小学生の見学のバスが多数来ていた。いつの間に築地市場の設備の危険性なのだろうか、消えてしまった。最後の築地は大人の社会科見学の場だった。

 
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築地本1-3 築地市場年代史

2021年07月04日 | 築地市場にて
築地市場  -クロニクル1603-2016 
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第3章 関東大震災復興事業としての築地市場の鉄骨建築
 貨物列車を市場内に引き込むため、弓なりの曲がった建物は中に入った人か昭和の初めのレトロ感を味わった。特に2階は東京都の事務所や郵便局・銀行・理髪店などがあって、さらに築地市場を食の衛生を監督するところもあった。白長くつと白衣、白い帽子は彼女(まれに男性)らのユニフォ―ムだった。

 この弓なりの構造物は最初から物議があったことをこの本で知った。店舗の広さがまちまちで水産仲卸の店舗が広さと位置の公平感がなく、4年に一度の水産部仲卸の店舗移動で不満を解消した。これで4年間繁盛するか否かの分かれ目で、今はプロ野球のドラフト会議の様子と似ている。最も一時抽選後に相対で交換もあったようだ。築地の最後の方は不景気ということで多大な移転費用の事を考え、4年ごとの店舗移動が消えた。2009年(平成16年)に最後の店舗移動の状況は北田水産のHP詳しく記載されている。豊洲移転の方向見えてきて、もう9年も店舗移動していないので、豊洲まで待つのは不公平という声から多大な費用をかけ5月の連休の3日間で移動した。当日は都内の大工、電気工事・電話工事業者900の仲卸、1600コマの移動を行った。5月2日はその日の販売を終わらすとすぐに店舗の解体が始まる。ダンプカーが都内から集まり残材を積み込み、夕方には仲卸店舗の撤去が終わる。3日は店舗の造作でこれも1日で大方終わる。4日は細部の工事と電話、電気工事となり5日には通常営業となるが得意先が2日の位置と異なるので、配置図を見ながら歩く買い出し人で市場は混雑する。また買い回りの順序が変わり繁盛していたところも落ちぶれることもある。このことが経験則で築地市場再建工事の工程計画で難儀し、東京都が400億円捨てた。北田水産のHPには詳しく書かれている。最後の店舗移動時の水産仲卸が豊洲では500を割っている。食の経営情報誌によると適正規模は300という。まだまだ減りそうだ。この時にすんなりと築地をあきらめ豊洲へ水産仲卸の合意ができていたら、2020年東京オリンピック招致はなかったと思われる。築地の移転は魔物や地霊に阻止される運命がある気がする。コロナもその一例でまだまだ紆余曲折がありそうだ。

 築地市場の豊洲移転反対派の大部分は小規模な仲卸で売り上げの多い仲卸は場外のところで量販店等の対応していて、移転しようがしまいがどちらに転んでも関係ないと、相手に合わせて、移転の是非を答えていたようだ。このことは豊洲へ移転後、築地市場を担当とする営業に来ていた生命保険の女性から聞いた。玩具のオセロゲームのようなもので、自己の都合に合わせて、アンケ-トに移転の是非を回答していたようで、豊洲へ移転した後は誰も地下の汚染は語らない。今はコロナ感染が噂の中心となり、豊洲市場の会議室で8000人の集団接種が始まる。大田は市場内の医者でワクチンを接種していて、大田区民でない人はどうなるのだろうか知らない。
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築地本1-2 築地市場年代史

2021年07月03日 | 築地市場にて
築地市場  -クロニクル1603-2016 
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版
第2章 日本橋と京橋のルーツ
50-55ページ
京橋には大根河岸があって、青果物の取引があった。しかし、神田にあった青物市場が幕府の御用だったので青果の上等品は神田となっている。神田も日本橋・京橋も水路によって運ばれるものが多く、築地の中に潮待茶屋というのがあって、潮の満ち引きによって、橋の下を通ることが出来ず、お茶を飲みながら時間を過ごした。今は水産部の買い出し人の荷物の預かり、配送、決済代行のような業務を行っている。このような仕組みは大相撲の茶屋と同じである。相撲のチケットの手配、お土産、升席に飲食物を持ってゆくなどの接待を行い、再度相撲見物に来るように宣伝している。
 日本橋の魚河岸の名残は少し残っていて、魚関係を思い出す店舗が日本橋周辺にある。山本山海苔店、にんべんの鰹節など路地奥を探せば見つかる。豊洲へ移った後、築地6丁目、月島には面影が残るが、月島はタワ-マンションが増えているので軒を連ねたところが少なくなった。ここには野良猫がいないと風景にならない。佃は佃煮の発祥地だが、量販店取引が主流となって。消えつつある。濃い醤油味は塩分控えめの時代に苦戦しているようだ。
板船 今では消えつつあるが幅が1m位の木製の雨戸のふちに板で船になるようにして、河岸の道路上に髪を解く櫛のように並び、板船に売り物を並べる。これが既得権となり、不動産的価値を持ち、権利の売買が始まり、日本橋から築地に移転するとき、補償の問題で市議会の疑獄騒動になった。築地の豊洲移転の背景にこのような歴史が繰り返された。しかし東京市は妥協しなかったようだ。
56ページ 明治の都市計画から魚河岸の移転構想はあった。鹿鳴館を作り、日本の欧化政策で一番嫌悪されたのが、一番の繁華街銀座に接している日本橋魚河岸であった。明治社会の下層民が清潔でない市場で食材を取引している姿が見えることを嫌っていた。市場自体は早朝から始まり、昼には終わっていたが、それでも清潔感はなかったようで、早くから都市計画の中で魚河岸の移転構想はあった。政府から移転を迫られた東京市は候補地選定で嫌われ時間が経ってしまった。
58ページ 第一次大戦後、ロシアの社会主義政権が出来たとき、シベリアに出兵した。その時の軍隊に運ぶコメを見て、米騒動が起きた。物価が急上昇中だったので、買い占めと考え、富山で女一揆が始まり、全国騒動となった。社会不安を抑えるため、食物の物価の安定、供給確保ということで、中央卸売市場計画が始まった。法律が出来たのが大正12年で関東大震災前だったので、中央市場が最初に開設されたのが関西で公設市場という小売商の集合施設も関西から始まり関東に広まった。
60ページ 関東大震災 日本橋魚河岸付近は全焼とその後のいわゆる朝鮮人虐殺の渦中に巻き込まれ、戒厳令で魚河岸が使えなくなった。明治期の移転命令が残っていて、営業禁止、公道使用禁止して日本橋魚河岸再開を阻止した。今から思うと江戸時代から市中の大火は予想されていて、行政の幹部は難航している魚河岸移転を災害後に再建を認めないという、暗黙の合意があったと思われる。戒厳令司令部は魚河岸の路上を不法占拠ということで板船を使うことを認めなかった。震災から復興してゆくうちに各地自然発生で生鮮食品の市場が出来ていた。ここで築地の海軍施設の一部を使う話が震災後3ケ月で臨時の魚市場が出来た。昭和10年2月に京橋大根河岸から青果が東京都中央卸売市場と発足し、京橋から移転した。当日は雨のようで涙雨という記事があった。青果の荷受会社は東京中央青果で社長は大根河岸の三周の藤浦富太郎 だった。藤浦は今では三遊亭園朝の名跡の預かり人として知られる。すでに築地から豊洲へ移って3年になるので記憶が消えつつあるが築地市場内東京シティ青果のフル-ッ館前に銅像があった記憶が残る。誰だか忘れたが今豊洲のどこにあるのだろうか。 日本橋魚市場からの水産の移転は遅れたがだんだん中国での戦乱の拡大から日本橋残留に力が無くなったようだ。その後戦争中は人と荷物が不足し単なる食の供給施設となった。魚市場の移転は青果と違って移転の合意は難しい。
 平成の築地市場で度々大きな火災があった。多くは水産部でそれも休市前の夜だった。その時間は人が一番少なく、気が付くのが遅いので火の回りが早かった。それでも」簡易なつくりなので復旧は早かった。現場検証が終わると片付けが始まり、電気や冷蔵庫が使えなくても次の日は火事見舞いとかの人たちと買い出し人の野次馬もあって賑わっていた。火事と喧嘩は築地でも華だったと思った。
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築地本1-1 築地市場年代史

2021年06月30日 | 築地市場にて
築地市場  -クロニクル1603-2016 
福地 享子著  築地魚市場銀鱗会著 東京 朝日新聞出版

 クロニクルとは時系列に沿った順番で書かれている書物「年代記」「編年史」のこと。1603は江戸幕府が出来て、魚の市場が出来た年。2016年は築地市場が最初の計画で豊洲へ移転する年。この後クロニクル1603-2018が出版されている。福地 享子さんは元築地市場内の付属商の建物の2階にあった図書館の館長というべき人。築地で公平な話をする唯一の人。

 読み始めて、築地で働いていた人は何も説明なくても解かるが普通の人には気が付かないが多くの写真の解説が必要と思える。
第一章 築地市場の24時間の鼓動
何気なく、書いてあるが1万人を超す人が築地市場で日に水産1700トン、青果1100トンをさばいている。この数字はトン数で、市場の統計はトンで、金額は消費税込みの価格となっている。午前1時から始まるのだが大方午前4時には終わり、セリをするものが残る。開市の前日夕方5時過ぎから全国各地からトラックが入り、出てゆく。空で出てゆくトラックもあれば空いたところに築地から積んでゆく車もある。
 築地の魚の売り上げはバブル時は全体で1兆円をはるかに越していたが今は青果部の売り上げを加えても、築地市場の売り上げがバブル時に届かない。しかし東京都の市場全体で築地市場の売り上げの占める割合とか、仲卸人の数などから、東京都の市場行政の全体会議は築地市場の講堂で開催される。大田市場は青果の代表的市場だが都内にある築地市場以外の人には電車で行くには不便である。新宿に都庁が移転するまで、築地市場内に市場行政の本部があった。また最後まで東京都の食品衛生試験所は豊洲移転直前まで築地市場にあった。この衛生試験所がすごいと知ったのは、ロシアと福島の原発事故で、常時稼働している食品を検査している。ゲルマニウム半導体検出器 を常時稼働させている唯一の市場だった。液体窒素で冷やしているので維持経費が掛かる。


14ページ マグロ屋はばくちをやらない。築地の人は昼で大方の仕事が終わるのでギャンブルが好きだがどうやら生マグロの業者はやらない人が多いようだ。毎日がギャンブルである。
 毎年1月5日が東京都の市場の始まりで、これが日曜日あっても変わらない。
2001年の初セリでの青森・大間産のマグロが2020万円で競り落とされた。バブル時でもこの価格はなかった。ちなみに前年の2000年はは400万円、翌年の2002年は280万円だった。今初荷のTVのマグロ報道が過熱化したのは2208年からで、2013年から築地喜代村が参加した初セリ生マグロが暴騰した。この理由として、1月5日は正月で目新しいニュースがなく、景気の良い、鮮度抜群の話と絵になる風景が価格競争を激化した。
 2001年の初セリ暴騰で競り落とした仲卸はその後遺症で倒産したと聞いた。頭に血が上ってライバルの仲卸を蹴落とそうとし、売り先の見込みなしで競り落としたようだ。当時は冷ややかな目で2020万円のマグロを売買参加者が見ていたという。その後、仲卸が購入見込み業者と手を結び、競り落としたすし屋を公開し、顧客誘導を果たした。正月のTVニュ-スは広告効果は抜群でNHKまで宣伝した形となった。江戸時代からの日本橋魚河岸の初物競争は魚河岸からの伝統でもある。それまで東京都の指導もあって、場内に素人を入れることは禁止されていた。混雑している場所に一般人を入れないル-ルがあった。
16ページ 冷凍マグロ 築地の花形は生マグロだが、量の多いのは冷凍マグロで一日千本、年間440億円あるという。
18ページ目利き 築地で仲卸の番号のついている帽子は仕入れ権のある人で、これを紛失すると大変である。夏などは脱いで忘れることもある。懐中電灯・ボ-ルペン・メモ用紙が必需品。
20ページ セリ人 TVでセリしている風景があるが、この時間は緊急時でも場内アナウンスはない。セリの単価をセリ落とした人の番号を間違えることを防いでいて、セリのところでは一人は書記のように取引結果を書いてある。今は大田花き市場のように電子セリが始まったがと豊洲では導入していないようだ。
22-24ぺ-ジ 築地の青果物  築地市場は青果も扱っているが、大田と違って、得意先が料亭・ホテル納めとか銀座等のデパ-トの菓子専門店も近いので高給果物の扱い量が多い。コロナではかなりのダメ-ジを受けた。
26ページ始発電車の客を JR新橋駅から、顧客と築地で働く人が同時に来る。これは110Mの障害物競争と似ている。新橋駅からの相乗りタクシーは人数がまとまると発車する。お客より早く築地市場に着かないと、夜中から働いている人の休憩が取れなくなる。寝坊すると、得意先が時間がないので他の仲卸を仕入れに回り回り、場合によっては、得意先が移る時がある。JR新橋駅より徒歩15分。
28ぺ-ジ 冷凍マグロの解体の機械
 冷凍マグロはマイナス80度で凍っているので、電動のこぎりで解体する、生マグロは包丁で解体する。
30ぺ-ジ すし屋やてんぷらの材料を扱う 小物屋 これの反対語がマグロ部会の大物部会。小物屋の設備はそれぞれの扱う商材で異なる。従って移転反対だった期間が長く、店舗設計に仕事の内容が十分に反映されず、豊洲移転時の使いにくいと不満が多発した。
32ページ 締める ほどく。頂点の味を求めて
 築地市場には生きている水産物がある。代表は活魚だろう。〆の技術で得意先の要望に合わせて加工する。
34ページ 道具はやがて体の一部となる。
 ここではマグロを切り分ける長い包丁の事を書いてある。築地市場には包丁を研ぐ業者が4社あって、豊洲へ移転するとき、銃刀法の問題でもめていた。一般には15CM以上の刃物は規制がかかっているが築地のマグロ包丁は1M以上あって、前からどのような管理をしてるか気になっていた。豊洲では警察が4社を一か所に集めようとして、もめたという話を聞いた。それぞれの会社で包丁を研ぐには秘伝があるという。隣だと技術情報漏洩の恐れがあると抵抗した。その後の豊洲の話は知らない。
36ページ 気持ち高ぶる市場の勝負服
 築地水産部仲卸で働く服は、前掛け、長靴などが標準服で、特に長くつは、水産部の濡れて魚の油で滑りやすいので、特別な加工をしてある。昼までで仕事が終わるので、ギャンブルの新聞を長くつに折りたみ差し込んでいる。
38ページ店の司令塔 お帳場さん
 どこでも仲卸の店舗は狭い。畳1枚あれば上等。ここはTVに良く映像で写されるが、冬は寒い。今気が付いたのだが仲卸店舗TVを見ていたところはなかった気がする。ひっきりなしの電話は雑音を避けている。TVアンテナを築地市場内に建てることが出来ず、東京都が有線でTV電波を引いていた。アナログからデジタルになって、半年ほどたって、TVが映らないことに気が付き、NHKに解約を頼んだ。少なくとも半年は事務所のTVを誰も見ていなかった。
42ページ 氷の量 一日平均140トン
 築地市場の中心というべき所に新橋からの都営バスの到着所があって、その付近に氷の販売所があった。他に何か所か水産部にあって、そこにはドライアイスも販売していた。真夏に冷蔵庫が故障したときに、氷の販売所から氷柱を買って、冷蔵期の修理中の温度上昇を防いだこともあった。氷温が水産物の流通には最適な温度で、市場から出るトラックから溶けた水が落ちる。
44ページ 雪による荷物の延着
 雪の日は散々だ。多くの築地人は12月中旬以後の雪の情報が気にしている。東北・新潟方面は比較的雪害による荷物の遅れは長引くことはないが、関ヶ原あたりが大雪となると西日本からの延着が長引く。特に売り上げが多い12月後半は天皇誕生日が12月23日になっていて、複雑な準備が必要となる。普段ならあらかじめ余分に仕入れることができるが年末商材の時期は難しく、さらにチラシが入っているので雪には勝てない。
46ページ やっと一息 賄い飯
 このページの写真は煮炊きをしているのだが築地の魚のところはガスか練炭で煮炊きしている。石油スト-ブは原則として使わない。石油を補充するとき漏れた石油の臭いが付くことを嫌っていた。一度練炭の売っているところを築地市場周辺で探したが、見つからなかった。

 


 
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覆水盆に返らず。 築地移転騒動 4年経った

2021年06月23日 | 築地市場にて
最近のコロナ騒動で、あの4年前の動乱の築地移転騒動から、勝ち組として逃れた身としてコロナで落ち込んだ豊洲を見ると歯がゆい思いがする。過去の知見で想定以上のことは想定しても誰も関心を持たなくなって来ている気がする。
 TVで面白おかしく地下汚染の問題を4年前の夏に他の事も報道する価値があるのに地下の空洞問題を騒いでいた。空洞問題はそれ以前に知っていた。それは都営ゆりかもめ線市場駅前に移転する城北信用金庫との人たちとの雑談から、城北信用金庫の移転する支店に金庫が置けないという。金融機関に金庫がないとおかしいので聞くと、床の耐える重さが設計していないという。さらに隣に移転する会社の床にマンホ―ルがかなり多いという情報も入っていた。これは移転するまでに減らしたようだ。埋立地なので過去の知見から建物の耐震設計の問題だろうと思っていたが空洞だった。なぜ空洞だったかは(築地と豊洲)という本には書いてなかった。最も今となっては空洞の有無が移転を後らす、根拠となったのはおかしい思い出である。今でも東京都中央卸売市場のHPには毎月の地下汚染の情報が出ていて、移転後3年近くなるが減っていない。要するに汚染を遮断する対策会議とか工事は必要がなかった。地下の汚染が在ろうと無かろうとプロの食関係者は仕事をしている。このことで数百億円の税金が消え、環状2号線工事も遅れた。さらにコロナもあって、海外観光客4千万人も消えた。オリンピック目当てのホテルも飛行機も需要が消えた。

 今でもアナウンサ-系は情報入手先が裕福な人が多いようで、最後にドンデン返しの築地移転騒動は面白いだろう。当時は筋書きのないドラマと思っていたが豊洲移転でなければ、再建は築地では無理で豊洲が以外では物流センタ-化するしかないと思っていた。誰でも参加できる築地の移転は今から思うとTV解説者の無知と市場で働く労働者と付き合いがなかった。誰も好んで午前2時から働かない。それなりの給与は出るので、個人経営の仲卸は移転費用も出ないだろう。都議会に出した市場の仲卸の経営状況の数字を見ると、赤字か損益がぎりぎりで後継者は先行き不安で多大な移転投資が予想される豊洲へ移転するのは否定するだろう。そこに通常の移転と違って補償がある思っていたが、低金利の融資で借金には変わりない。バブル時水産仲卸の権利は1億円以上の価値があって、鑑札の担保で運営できたが最後は2千万円ほどまで下がったという。他の組織で似ているのが大相撲の親方の年寄株のようなもので当事者以外は価値はない。バブル時1600ほどの築地水産仲卸は今は500以下で大手の仲卸もス-パ-との取引のない所は苦しいようだ。海外のすし屋もダメで高級すし屋・ホテル需要も消えた。
 残った築地市場の更地はワクチン接種場となってしまった。コロナで東京都の余裕資金が消え、次の都知事によって土地は売却されいずれビルの町に変化するだろう。

 懸念していた地下汚染で豊洲で働いている人の健康被害の報告はない。同時に食材の汚染もないようだ。結果として最大の不評被害は移転反対派だろう。これから残った築地市場周辺は銀座に近いため、地上げが急速に進むと思われる。
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