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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

3回目の埼玉文書館

2023年02月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
コロナが収束しつつあって、いろいろネットで情報を収集している。その中で埼玉県庁の後ろに埼玉文書館というののがあって叔父の特攻の基本的文献を探していた。最近までのHP上では、電話連絡し閲覧する文書を通告するようになっていた。さらに時間と人数制限があって、家人の介護と送迎をしていたので当日まで予定が立たず訪問を見送っていた。ようやく前日予約の文言が消えていたので訪問することにした。
 JR線で浦和駅に降りると蕨駅前と同様に再開発の工事が進んでいた。あと2年もすれば駅前に100mの高さの巨大なビルが出来て、今残っている店舗が消えると思う。
 県庁の後ろまで歩いてゆく途中にあったモスバ-が-が消え、ロッテリアになっていた。埼玉県庁も移転話があるようだが不要不急と見なされているようだ。ただ県庁の建物にはすべてに耐震の工事の跡が見える。文書館へ行くとコロナ以前の風景があったが、仕切りのアクリル板がまだコロナ状況ということになっていた。 
 昭和25年の発行の埼玉師範学校の名簿を出してもらった。叔父が師範学校を半年繰り上げ卒業したのは昭和18年9月だった。成績表では139名卒業とあるが卒業名簿本科140名となっていて、名簿の空白者28名で、さらに名前の上に黒丸がある人は19名あった。なおそのリストの終わりに遅れて19年3月卒業した6名は全て昭和25年記録があって生きていた。
 昭和16年からの記録を眺めていてやはりこの年代の不運さをひしひしと感じる。
 生まれた時が悪かった。関東大震災前後の生誕で、今昭和史を見ていると良いという時を過ごした人が少ないと感じる。令和4年の生命表を見ていると18歳から22歳までの死者不明者は少ない。この時期の師範学校生の戦病死が2割近いことを考えると不公平と感じる。ロシアとウクライナの戦争は今月で開戦から2年目に入る。戦前の日本が大戦に参加した時期を思い出す。アメリカ人は数年おきに戦争もどきをして慣れているが日本は惰眠中で慌てているように見える。もう日蓮ののように念仏で敵を粉砕することは出来ない。歴史の虚説で神風を信じ、特攻した叔父は念仏の被害者のように感じる。物の生産力の差から欧州大戦が終わって、日本に攻撃に集中され終わった。もし日本が大戦に参加しなければ今の中国のような立場に立てたという歴史学者はいない。頑迷な旧日本軍部は日清・日露の戦争に勝ちすぎ、傲慢になっていた。

 文書館で叔父の遺書等の記録を消したことの解明はやっと手掛かりが得られそうだが、証言を引き出すには個人情報を出さないといけないと感じる。いまは春日部市の歴史資料館の人たちの協力が必要と感じる。もう終戦後78年経って、当時生きていた記憶のある人が90歳を超える。90歳なら半分以上の人が認知症で証言の信ぴょう性のある記録を得るには時間が足りない。
 叔父が農産加工の指導者を目指していたと感じる。川辺小学校の長堀宇三郎先生に進路相談し、野田市の野田農工学校に学び、授業料免除の埼玉師範学校には行った。当時の師範学校の兵役免除の仕組みが日中戦争の拡大で兵役免除が消え、師範学校の競争率が減った。卒業後教師になると授業料免除でさらに兵役免除は農家の子弟には魅力だった。
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風船爆弾

2023年02月11日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
アメリカで中国の気球が撃ち落された。
事実関係とか双方の宣伝合戦が真実の追求と世論誘導を行っていて、今や風船の中の気体より、陰謀が膨らんだ気がする。
 叔父の台湾で沖縄への特攻に至る経緯を学童疎開を研究している きむらけんさんの本『台湾出撃沖縄特攻』が昨年12月8日に出版されて、この本を持って春日部市の郷土資料館で米軍の進駐とか聞いてみた。
 今の東武野田線南桜井駅前にヤオコ―を中心としたショッピングセンタ-がある。そこが終戦間際に都内から移転し稼働した軍需工場だった。今のセイコ―ブランドの時計の会社が戦時中に大砲の信管を作っていたようで、昭和20年7月頃に出来た高射砲の信管でB29を何機か撃ち落したという。ある程度の高度になって爆発してという。想像だが花火が上空で爆発している姿を思い出した。どうなのだろうか。
 戦後になってセイコ―の工場は賀川豊彦の主導によって農村工業を目指し、農村時計製作所を作ったが間もなく業績不振となり、売れていた目覚まし時計のブランドで再発足したという。このブランドはリズム時計という。
 春日部市の郷土資料館のブログで軍需工場の製品の中に風船爆弾の部品もあったようで、アメリカの気球騒動で思い出した。ただ稼働時期が終戦間際で風船に使われてはいない気がする。それゆえ風船爆弾の本にはセイコ―のことは書かれていない。精工舎の社史で事実関係を確認したい。
 戦後に埼玉県にも米軍が進駐したがなぜか千葉県よりの南桜井に進駐したか理由が判らない。しかしこの米軍の進駐によって、1KM位しか離れていないところに住んでいた叔父の親族の恐怖感があって遺書等の処分をしたと思われる。同時に付近の集落の人たちの記録と記憶を消し去った。この時期に米軍と為政者とで庄和地区の人々に何があったのだろうか。この件は埼玉文書館で埼玉新聞を読んでみたい。何かありそうだ。
 戦争前には軍部が威張り、戦後も米軍が威張った。
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叔父に会うため靖国神社遊就館へゆく

2023年02月05日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
4日 数年前から財布の中に入っていてボロボロとなっていた靖国神社遊就館の無料入場券を使った。叔父の所属していた陸軍第8航空師団204飛行隊の仲間たちは、戦後の戦友会の開催地として靖国神社で2月4日に会っていた様だ。すでにこの会合が無くなり、靖国神社の団体集結の場所は閑散としている。もう78年の年月は大方の人たちが100歳か亡くなっていて歴史となりつつある。こんどのコロナは時間を10年ほど先に進めたようだ。
 靖国神社遊就館へは記憶では3回目の訪問だが前回の訪問時に気になっていた北白川宮の展示がほぼ消えていた。しばしば展示物の交換をしている様だ。この遊就館の説明文は日本の近代軍事史を戦前の日本の主張で説明していて、叔父がなぜ特攻隊員になってしまった負け戦の過程が解かる。それでも叔父は生きて農村工業を発展させたいと思っていたと思う。しかし時局はそれを許さなかった。
 亡くなった人の写真が1万人ほどあって、叔父の写真は61番目の所の目の高さにあって、見ている自分にまた来たかという目で見られた気がする。刻まれた文字より写真が若さというものを表現していて多くの若者が亡くなった。いずれ自分の持っている写真は消えるがここに保管されれば後世に残る気がする。
 靖国神社遊就館の隣にある戦友たちの会合施設を亡くなった兵士の写真を掲示する施設を増やせないのだろうか。生き残った遺族たちが保管して残されている兵士の写真が消えつつある。

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死んだ人の年を数える 江戸時代からあることわざ

2023年02月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
小さいころ、多分5歳から6歳ころ、江戸川の野田付近の父の実家に夏に一月ほど預けられた。今風に言うと宿題のない農村留学でひと夏を過ごした。今は当時の面影の藁ぶき屋根の農家が通勤圏となったため消えてしまった。東武鉄道野田線沿線で、最初の時は武州川辺駅と言って、次の駅は江戸川を渡った千葉県にあった。いまでも付近の江戸川の流れは速く、水戸街道国道6号線の橋から上流は野田市の野田橋と東武野田線しか昭和の20年代は川に橋が無かった記憶がある。いまは車が増えて渡る橋も増えたがそれ以上に東京と千葉の交通が増え今でも渋滞が続く。父の生まれた農家から出ると、後で知ったのだが古代からの住居地で高かったので、一面の水田風景が見え風が稲穂の揺れで見えていた。
 母に連れられ、国鉄時代の大宮駅で東武野田線に乗り換えた。JR大宮は新幹線の中心駅であるが当時は国鉄の上信越、東北方面の交通の要で大宮機関区があって蒸気機関車の音が乗り換え時に聞こえていた。そこから寂れた電車に乗ってゆくが春日部駅から先は単線となり、駅ですれ違いのため長時間停車していた記憶が残る。今でも武州川辺駅が移転した東武野田線南桜井駅は駅を出た途端に単線となっている様だ。千葉の方が最近は複線になっていて昔の寂れた風景が消えている。
 今年は関東大震災100周年ということで9月1日は震災の報道が多いと思う。二月になると鹿児島県南鹿児島市の知覧で5月3日の特攻慰霊祭の案内状が届く。東京の住民が鹿児島までの飛行機のチケットを取ろうとすると往復で10万円を越す。令和の初めに10連休というときに行ったのでもう二度とこの時期には知覧へ行けないと感じた。きむらけんさんの叔父の本が出て達成感があって、飛行機のチケットの安い時に数え年100歳になった叔父の集めた資料を記念館に入れたいと思う。確か叔父の資料は今まで何もなく写真しかないと言われている。大正13年生まれで、数え年なら100歳となる。もう叔父と言葉を交わし、語られる人も85歳を過ぎた。今の日本の統計上85歳を過ぎると認知症の人が急増する。2025年問題が過ぎれば2035年問題の本が出る。
 知覧での慰霊祭参加者名簿で特攻死した人がほとんど大正10年代からの人と気が付く。戦後の混乱期に優秀な親族の人が亡くなって苦労し、さらに犬死と言われた悔しさを感じる。もう78年だがまだ78年だ。今年も世界のどこかで理不尽な死がある。残された残った人はいつも生きていたらと思う。
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開戦記念日12月8日日本、アメリカは12月7日

2022年12月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
地球が丸く、時の基準がイギリスにあって、日本は極東となる。太平洋の真ん中で日の扱いが変わる。ワールドカップの開催時間は現地の時間と西欧の時間に合わせられ、日本の都合での時間ではないことを感じる。
 叔父の記録が載っている本が12月8日に本屋に並ぶ。多分日本史の中で戦史を扱うところか、最近の情勢から台湾コ-ナ-かもしれない。信州長野の浅間温泉の世田谷区の学童疎開からこの本の連載が始まる。訓練で松本に集まった陸軍特攻隊員と世田谷区の代沢小学校の学童との交友と戦後史となる。その交友のあった特攻隊員は台湾に赴任し、昭和20年に一部の人たちが沖縄で散華した。叔父の飛行204戦隊も遅れて台湾に向かい、特攻した。そんな記録の本が出る。

 特攻というものの評価は時代と共に変わって、特に戦争が終わる前には英霊で、敗戦後は犬死と言われ、戦争終結を遅らせた戦犯扱いされた特攻遺族もあったようだ。そんな仕打ちの中で、20歳前後の男盛りの優秀な男性を失った農家が多いと感じる。特に少年で飛行機乗りにあこがれた少年飛行士の手記と遺書を読むと悲惨さが心にしみる。同様に知覧の慰霊祭に参加人たちの帰りの送迎バスの中で1時間ほどの間に漏れ聞く話では誰誰さんが亡くなって寂しいという話をしていた。もう77年以上の月日が経って、映像音声は残ているがどうも為政者の都合の良い報道の仕方となっている。
 今ウクライナで戦争中だがロシアの前線で戦っている招集兵は訓練期間が短く、さらに激戦の前線に配備され、死者が多いと感じる。貧しいロシアの人の男の子が家が貧しい故に海外に逃亡することが出来ず、兵隊になっているようだ。何か第一次大戦のドイツとフランスの前線と似ている。この時に武器が発達し、潜水艦、戦車、毒ガス・爆弾投下する飛行機等の大量殺人兵器が開発された。
 今度のウクライナの兵器開発が進んでいてさらに実戦で鍛えられているのでウクライナとロシアの戦後はヨ-ㇿッパの中で戦前のドイツのようになる気がする。このウクライナが暴走した時誰も口出しできず混乱が加速される。唯一抑えられるのはトルコだろう。その理由はボスポラス海峡 を封鎖すればロシアもウクライナも海運が消える。黒海艦隊が日露戦争で壊滅したバルチック艦隊となる。
 アメリカの軍隊がアメリカの独立後に一部の時を除いて戦争が数年おきに続いている。戦前の日本も戊辰戦争、西南戦争、日清戦争、日露戦争、第一次大戦、シベリア出兵、中国東北部の紛争、満州事変、そして太平洋戦争と続き、兵器開発が進んだ。多分ウクライナも兵器開発が進み危険な国になるかもしれない。中国とイスラエルが武器の先進国なのがいつも危機感があって、日本は過去の後遺症から惰眠中である。日本史で対外危機から武力国家と立ち上がるのが早いと感じる。種子島に鉄砲が伝わり、日本全国に広がったのが異常に早いと感じる。明治維新もアメリカ南北戦争終結後の武器余りが日本に来てさらに進歩した様だ。それには朝鮮半島への危機感があった。やっぱり長州は東京より朝鮮半島が近い。
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台湾から沖縄に出撃した叔父たちの記録が出版された。もう書店にあるようだ。

2022年12月03日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
十数年前に鹿児島県南九州市の知覧特攻平和会館 に息子が訪問し、丁度叔父の特攻命日の来たということで急に特攻遺族扱いされた。それまでは父が養子に出ていて、血は繋がっていても特攻遺族の資格はないと思っていて、詳しく叔父の軍歴を調べることもなく過ごしていた。築地の移転の仕事が終わり残務整理と引継ぎが終わり、夕方のTVを見ていたら、父の写真帳にある写真と同じ写真がテレビに写っていた。早速調べ始めたのだが情報が少なく調べるあてなく、大田区の昭和のくらし博物館で事情を話したところ、下北沢で活躍している特攻の本を何冊も出している作家のきむらけんさんの出会い集めた資料を渡し、そこから台湾からの特攻の調査が進み、コロナ下で台湾に行くことも出来ず、リモ-ト取材で原稿が出来たようだ。きむらさんとの記録のことで何回か電話で聞いたが、叔父たちの陸軍飛行204戦隊は日本陸軍の命令による最後の特攻という。沖縄本土での抵抗が終わって、もう沖縄に飛行機で特攻に行く必要が無いのに、破損した部品で何とか飛べるようにした4機で特攻に向かったようだ。戦後に204飛行隊の戦友たちの文章を靖国神社の図書室で読んでいて思わず涙が出た。叔父の特攻は戦果が期待されていたが、最後の特攻は沖縄まで飛べるかどうかの期待だった。このようなことが多分この本に詳細が書かれていると思う。

 邱垂宇先生は小さい時に日本の特攻隊員にあこがれ、台湾の航空業界の重鎮として今でも活躍している。名古屋での台湾航空事故調査団(中華航空140便墜落事故)でも活躍した。
 
台湾出撃沖縄特攻: 陸軍八塊飛行場をめぐる物語
きむらけん著 12月8日出版販売開始。

 この本と表裏の関係のある中田芳子著『十四歳の夏―特攻隊員の最期の日々を見つめた私』も重販となったようだ。今気になる台湾情勢がこんなことになるとは叔父のいたずらかもしれない。

 お世話になったり迷惑をかけたところ一覧
平成30年4月より登録文化財昭和のくらし博物館 の学芸員 小林様
北沢川文化遺産保存の会主幹 きむらけん様
桶川飛行学校平和祈念館の学芸員様
歓喜院(真言宗豊山派)住職様 栗原義雄の墓がある。
春日部市川辺小学校 栗原義雄の出身小学校
千葉県立清水高等学校 栗原義雄の勉学した野田農工学校
埼玉大学教育学部 埼玉師範学校 叔父の成績表を探し出してくれた。
野田市郷土博物館の学芸員様
春日部市庄和図書館の司書様
野田市立興風図書館の司書様 
埼玉県立文書館 埼玉師範学校卒業者名簿を保管していた。
 昭和18年9月毎日新聞埼玉版 陸軍特別操縦の試験の結果発表。叔父はこの時落ちていた。自分の気持ちは同調圧力で受験したがわざと落ちた気がする。陸軍と海軍の両方に合格していた人がいて、一人欠員となり、繰り上げ合格となったようだ。師範学校の成績表には視力の項目があって、1.5の視力が繰り上げ合格の理由だろう。さらに226事件の栗原もあるかもしれない。埼玉県は226事件の参加していた兵士が多数を占めていた。

靖国神社 靖國偕行文庫の司書様 陸軍飛行204戦隊の戦友会の資料

 栗原義雄の軍歴
昭和18年11月1日 陸軍特別操縦1期生として入隊。
 他の1期生は10月1日入隊。どうやら繰り上げ合格のようだ。従って他の1期生より1か月訓練期間が短い。
 昭和20年5月20日 台湾台北近郊の八塊基地より夕刻に一式戦闘機隼で出撃。同日午後7時過ぎに沖縄嘉手納沖にて散華。知覧からの特攻隊と共に米軍に多大な損害を与えた。米軍の記録では5隻程の損害が確認できる。
 父の手元にあった写真は特攻が決まった後の送別会だった。前列左から3番目が叔父で、その隣の隊長が戦後にこの写真を栗原家にもってきて、特攻の状況を話した様だ。前列の人たちは緊張していて、後列はハメを外している。後列の首にタオルを掛けている人が戦後に結婚した中田芳子さんの夫で、芳子さんは90歳の現役のユ-チュ-バ-である。



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8月入り 台風アリ

2022年08月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
8月に入って77年目の夏の季節となる。昨年だったが巨大な台風が日本本土付近に来た。なぜ巨大だったかを気象予報士さんが日本付近の海水温が高く発達するという。二つの巨大台風が来たののちの解説で海水温が急に下がったのは台風で海の下層にある低温の海水が混ざって下がったという。子供の頃のなぞなぞで(上は大水下は大火事これはなーんだ。というのがあった。正解は五右衛門風呂で風呂をかき混ぜないとうっかり熱いので入ると下の方はまだ冷たかった経験を思い出した。気象研究所の所でも)台風自身の強い風は海洋表層をかき混ぜる(混合)ことにより、海洋表層の水温を低下させるのです。この2つの効果は台風の直下で起こり、台風直下の海面水温の低下を通じて、台風の発達に影響を与えます。)となっている。 
 泥水が落ち着くと透明な水になる。戦後77年世界は紛争が絶えまなかったが日本はテロだけで落ち着いて時間が過ぎた。これは先の戦争で日本が暴走すると東アジアの国が恐れていたかもしれない。20年ほど前に子供が鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館 を5月20日に訪問した。その日は偶然叔父の特攻した命日でそれから遺族扱いになった。確かに3親等だけど苗字が変わっているので遺族ではないと思っていたしそれに親族から飛行機関係で戦死したと聞かされていた。それから叔父の個人史を調べると時代というか大正の震災前後に生まれ昭和の戦時経済でいい時が全くなかった気がする。バブル崩壊後の失われた30年と同じ思いがある。明治維新から77年で敗戦となり今年は敗戦から77年の夏となりウクライナからまた日本も戦争する・出来る国になる年に変化するかもしれない。
 叔父のことを調べると何か不都合なことが隠されていたことに気が付いた。親族から過去をほじくり出し何の得があるという人も出てきた。時には英霊として称賛され戦後は無駄死にと言われていたことが記録に残っている。米軍に多大な戦果を挙げたため叔父の生家付近に進駐した米軍を見て証拠隠滅のため記録と記憶を消したと思いたい。戦後77年経つと戦地に向かう叔父が生家上空を超低空飛行して実母と別れの挨拶をした話も近所では消えてしまった。叔父たちの特攻で死去した米軍兵士にも遺族会とか戦友会があって日本から活動状況が解かるが戦後50年過ぎると活動が止まったようだ。日本も77年という時間で記憶が薄れていることを知るが消され叔父の記録を残せという魂があるように思える。叔父の特攻前のひと月を知っている人に2022年6月にあった。次に会った時に当時の詳細を聞きたいと思う。91歳という年齢ではいつ証言と記憶が消えるか判らない。
 波風を起こして親族の不興を買うかもしれないが記録を残し歴史の審判を待った方が良いと今は思う。今知った限りでは本人は特攻を志願したのでなく志願させられた。時代ということと視力が1.5もあったため当時として飛行士としての適性があった。今でも20歳で視力が1.5ある人は少ないと思える。なぜこのようなことが知っているかというと消された叔父の記録も調べれば消していない公文書が残っていた。埼玉師範学校の成績表が今の埼玉大学教育学部のロッカ-に保存されていた。個人情報ということで親族が調べないと永遠に消された記憶で残っていただろう。波風を立て一時的に騒動となっても時間が経てばまた落ち着く。
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沖縄戦の最後の日 令和4年の想い

2022年06月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
先の戦争で叔父が沖縄嘉手納沖の米軍艦船の台湾の仲間と知覧からの出撃で多くの戦果をあげた。米軍の記録でも被災記録が残っている。沖縄戦は1945年(昭和20年)3月26日から始まり、主な戦闘は沖縄本島で行われ、組織的な戦闘は4月2日に開始、6月23日に終了した。 沖縄の組織的戦闘が終わっても、沖縄への特攻は続いた。
 天気情報から昭和20年の今頃は沖縄も梅雨明けだった気がするが情報は米軍しか持っていないと思われる。日本軍の天気情報は軍事機密だった。あれから77年経って時計が元に戻ってウクライナから始まった世界大戦前の気分に今はなっている。
 沖縄の南部に戦争で亡くなった人たちの慰霊碑がある。そこには嘉手納沖で特攻死した叔父の名前があるという。まだ行ったことがない。そこと伊江島と台湾国防大学(旧日本陸軍八塊基地)を訪問し、叔父の墓の付近に現地の石を置きたい、どこかの由緒不明の物体が叔父の墓の中にある。
 沖縄の梅雨明けは台風の接近の季節となり、中国海軍もこれには負ける。今年はまだ台風2号までで、帳尻合わせが台風が来るかもしれない。ここ数年は線状降水帯の雨で多くの水害が出た。

 6月21日に叔父の最後の日々を知っている女性に会った。彼女は当時14歳の台湾女子高校生?だった。戦時下の台湾で敗色が濃い中、縁あって叔父たちの特攻隊員との交流があって、戦後に同期の戦友が亡くなっているのに特攻隊員の選考に漏れ生き残って苦しんでいた特攻隊員と結婚し、今は逆さ歌のユ-チュ-バ-として90歳で活躍している。千葉県習志野の市民会館でのコンサ-トは300名近い観客で楽しんだ。人が消えた会場で初めて話をした。叔父の最後の3週間ほど知っている唯一の人である。もう戦友も生きていれば100歳近くなるので死んでしまっているようだ。
 これで叔父の亡念が収まればよいのだがしつこい叔父の亡念はまだ我々家族を調査継続に仕向けるだろう。でも77年の年月に何が残っているのだろうか。
 彼女のことが気になる人は、ユーチュ-ブで逆さ歌と検索すれば出てきます。どうやら小学校での講演で戦時下の話もあるようです。
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77年忌 叔父の特攻死

2022年05月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
昭和20年5月20日、台湾の第八航空師団の陸軍第204飛行隊から、夕方に今の台湾陸軍大学の位置にあった、八塊基地から、誘導機の一機を含めて、5名の特攻隊員を乗せた戦闘機 が出撃した。もう77年経ってしまったが、今のウクライナ兵士の出陣コメントを聞くと、当時の叔父の心境と同じだなと思う。貧弱な防御、燃料不足、弾薬・補修部品も少なく、さらに戦果を要求されていた。沖縄での米軍との戦闘状況から台湾にもたびたび米軍の空襲があって、飛行機乗りなのに、特攻用訓練のため飛行機を隠し温存していたようだ。

 沖縄の5月20日の日没時間は午後7時12分で、記録によると特攻した時間は午後7時20分となっている。夕闇の中に被災した米軍艦船の炎が見えるようだ。硫黄島で活躍した米軍補給船LST808の伊江島海岸の特攻被災炎上写真は本物だろうか。当時の天候は軍事機密なので、米軍しか持っていないと思うがこの時期は台湾から沖縄にかけて梅雨時で、知覧の特攻基地から出撃した振武隊と嘉手納沖で合流する特攻作戦だった。米軍のレーダ-探知を避けて、海面すれすれを飛行したと思われる。他の特操一期生より、訓練期間がひと月ほど短い経歴だった。
 厚生労働省から来た叔父の軍歴から、19.10.14の筆跡は親族に残っている唯一の筆跡と思われる。この写真はミンガラドンいう基地で撮影したと思われる。昭和20年初めに日本に戻り、実家に写真を残した。ミンガラドンとは今のミャンマ-のヤンゴン国際空港のようで、以前ミャンマ-に行ったとき、この地で叔父がインパ―ル作戦の航空支援末期だったことを知らなかった。陸軍第204飛行隊の記録から、ビルマ作戦支援からレイテ作戦支援に向かい、台湾に行った。どこも負け戦だった。

 もうないと思う世界大戦が叔父の魂が霊界でさ迷っていて今の戦争をどのように考るかを問われている気がする。
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知覧の慰霊祭に行けなくて

2022年05月04日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
2022年5月3日は毎年鹿児島県の知覧町で特攻遺族による慰霊祭がある。

南日本新聞社の記事によると、知覧特攻基地戦没者慰霊祭は南九州市の知覧特攻平和観音堂前であった。新型コロナウイルスの影響で2月に届いた案内状で200人規模位に縮小するといって、3年ぶりに遺族114人が参列。計約200人が太平洋戦争の沖縄戦で亡くなった旧陸軍特攻隊員1036人の冥福を祈り、平和への思いを新たにした。
 今年は母の死去もあって欠席となった。本当は父の写真帳に大切に残っていた 軍隊仲間の集合写真でなかなか人間関係が解明できなかった。
 2020年7月4日の夕方に、日本テレビの夕方の番組でこの写真が台湾訪問している女性と共に出てきた。
 これは特攻隊員の最後の出撃前の別れの無礼講の写真だった。この写真を撮影した後、5月20日の夕刻に台湾から沖縄に集結している艦船に知覧から出撃した仲間と米軍に20日午後7時頃の夕闇の中特攻した。米軍の記録でも多大な被害があった。前列に座った叔父ら6人特攻隊員は緊張していて、後列はふざけているように見えるが一部の人は7月に日本陸軍の命令による最後の特攻となった。この虚しい様子が間も無く、きむらけんさんによって書籍化される。これで叔父に対して慰霊したと思える。
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知覧も靖国も桜は散りつつあるのでしょうか

2022年04月03日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

 昨年地下鉄九段下で降りて、お堀に浮かんだ散った桜のイカダを眺めていた。今年はまだ散り桜を見る気がない。命を懸けた叔父たちの戦闘行動で気持ち的には平和が保たれた想いがあるが、今消えつつある。圧倒的に兵力の差があるウクライナ兵がロシアとの戦闘に向かう姿で思ったこと。

国民の遺書  -「泣かずにほめて下さい」靖國の言乃葉100選-小林 よしのり責任編集
 図書館で借りた本を読んでいて、情報の制限されていた時代に命の叫びが残されている。今から思うと何で日本が始めたのに終わるのを遅らしたかの思いがある。先の戦争で日本人が350万人以上亡くなったが最後の一年で多くの民間人が亡くなった。戦争は始めるのはどうやら簡単でも終わるのは難しい。どの政治家軍人でも敗北は認めたくない。死より生き恥の方が怖いのだろうか。シリアと違って映像で記録が残されているので、ロシア軍人は負けるわけにはいかない気がする。
 チョットこの戦争は長くなりそうで、情報の少ない途上国貧民は何が起こっているか餓死するしかない。ゲームセンタ-のもくら叩きで多方面で不満のモグラが地上に出てきている。普通モグラは日を見ないが緊急時には地上に出る。


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早咲きの桜が

2022年03月14日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
ある寺院で早咲きの桜がほぼ満開で、参詣客がスマホで写真を撮っている。テレビの天気予報に桜の開花情報が頻繁に出てくるようになった。東京の標本木は同期の桜の靖国神社で19日という。昨年もこの時期の終盤に桜見物がどれほどかを見に行くと、お堀に散った桜が花筏だった。あれは戦地で散った魂がまだ未練があって。毎年のように過去を思い出される。知覧では蛍が戦士の魂を意味するという。
 桜は散った後に隠れていた若葉の薄緑に代わる。そして数週間後の濃い緑となる。しかし特攻で死んだ青年は青々した緑になることもなく、薄い赤、桃色の花びらを運命の風ではかなく散った。音もなく散るのもある。多くの不同意の死の上に今日があることを長い平和が忘れさせる。
 今の危機感はいつでもどこでも今は戦場になることを知った。

 世界標準は政治権力の及ばない世界で支持される宣伝価値が生まれる。そこには薬物は嫌われ、宣伝価値が消える。2022年パラオリンピックの宣伝価値は結局コロナとウクライナで消えた。
 宣伝にはその表現に創意がないとパクリと言って嫌われる。そこで悪意のある解釈されると市場が広まらない。今は13億人台の中国もいずれインドに抜かれる。インドは多様性があってそれなりの面白さがある。若い国は消費が活発で老いた国は消費が緩やかとなる。もう物欲が消え、新しいスマホも機能が素晴らしくても、電池の問題が出るまで替えない。慣れた昔の携帯の使用者は年寄りとなる。
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戦前昭和史を理解するため

2022年03月12日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

教養としての「昭和史」集中講義  -教科書では語られていない現代への教訓 井上 寿一著
 父実家への里帰りで見た写真から知らなかった叔父の特攻行きから関東大震災後から終戦までの叔父の短い人生を理解するには良い本と思える。学校教科書ではここまでは理解できないと思える。今の政治より戦前の方がましな政策を提言していた気がする。
 政府の反対攻撃で対案のない、さらに国民に対して不都合な政策を提言することが出来ていない。金をばらまいても貯金に回って景気浮揚につながらない国民心理を解明していない。

 消費税を大幅に上げ、所得税と法人税で調整する政策を提言する政党はないのだろうか。多くの政党は増税が苦手で、国民の政治不信の基本は支持者へのバラマキ情報しかない。今の知識ある高所得者は節税知識が豊富で、余裕資金のない人たちが、節税の知識がなく搾取されている。放置した故郷の家の維持費で苦労している人が増えつつある。衰退する地方の墓地も維持できず、都会に墓地を移転しようとすると墓じまい等の費用が多大で墓地も負の遺産になりつつある。寺院も少子で必死であるが無住寺や無住神社も増えるだろう。昔よく見かけた子供神輿を動かすことの出来る町は今後も減るだろうし、助っ人子供の出番でもある。そのうち派遣の子供祭り要員も出るかもしれない。すべては親の郷愁に過ぎない。


 母の弟が中国大陸の中央で戦病死した。招集され間も無く栄養失調により、病気にかかり死去した。中国大陸での鉄道網警備の兵隊であった。この作戦は一号作戦と言い、南方から物資を運ぶ鉄道の警備だった。米軍が飛び石作戦でマリアナ群島の飛行場から直接本土攻撃をするB29爆撃機が飛来して、作戦の目的は消えた。先の戦争では多くの日本人兵士が亡くなったが、人数的に多いのは餓死、病死、輸送船の沈没等によって多くの人が亡くなった。実際に戦闘死した人は少ないと感じる。日本の作戦本部の人命軽視が気になる。海軍・陸軍の士官学校を出て、軍隊内の階級上昇闘争で、一般市民は兵器を動かす動物でいくらでも召集令状で来ると思っていたようだ。下級兵士でも育つまでに時間がかかることを知っていたのだろうか。
 ウクライナの戦争はロシアの兵士の心の痛まない兵器の使用が増えてきた。これでは戦後処理が長引きアフガンでソ連がタリバンに負け、ソ連が崩壊した。同様に日露戦争で奉天の戦いの後、和平となりロシアは第一次大戦終了間際の1917年2月革命で帝政が終わった。そのあとの西欧の権力闘争が複雑で西洋の情報収集が日本の思考で判断し、敗戦に向かう方向になったということが井上先生の本で良く理解できる。戦前の国会の方が二大政党の力量があったが、ただ軍隊が制御できなかようだ。統帥権の解釈が難癖と今でも思えるが歴史ではよくあることで、京都の方広寺の大仏の梵鐘の文面で豊臣が滅んだ。
 今は親ガチャの時代で、特に日本は分断されていて、才能のある人が貧しいゆえの能力が発揮できず、戦前は師範学校と士官学校が残されていた。





戦 
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負け戦と知りつつ 命を捧げる

2022年03月10日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
父の写真帳に違和感のある集合写真があって、それが父とどのような関係があるのか不明だった。中央に座っている人を含め、何か学生の団体写真で前列の人はしかめ面をしていて、後列の人の中ではある人は酒瓶を振りまわしたりタオルを首に巻いていた。何か無礼講の雰囲気があった。この写真は出版されていて(14歳の夏)の本に誰だか人物が特定されている。
 2020年7月4日にこの写真が夕方の日本テレビに映し出された。あとで番組情報を検索すると、ある女性が台北の特攻隊員の宿泊施設を訪問していたようだ。
 その後1年ほど経って、ようやくその人とメ―ル交換まで来たが、コロナ下でまだ直接にあったことはない。でも彼女は高齢のユ-チュ-バ-で画像で見ることが出来るので気分的にはあったことになっている。この写真のことで詳しく情報が得られ、撮影した日時は昭和20年5月15日台湾の陸軍施設の多い花蓮港の新川という料亭のようだった。彼女によれば、5月20日の特攻が決まり、惜別の宴会だったようだ。5日後に沖縄に向け台湾陸軍八塊基地から夕方に出撃し、日没頃に嘉手納沖で知覧から出撃した振武隊と合流し、米軍の記録に残る戦果をあげ散華した。花蓮市は台湾東海岸の沖縄よりの都市である。
 
 ウクライナの急に戦闘員になった人たちの、画像に残るコメントは悲壮感を出しつつ、自分の命を残された婦女子のためという想いが伝わる。

 叔父は23歳の命を日本の子供ために使ったという気持ちが写真から伝わる。埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)に進学し、昭和18年9月30日の埼玉新聞報道では今の埼玉県越谷市の大袋小学校に辞令が出ていた。戦地に行っていた時、小学生の慰問文が生家に来ていたという。親族の話ではほんの少し小学校の教師をした様だ。軍歴では昭和18年11月から始まる。学徒出陣組と同じ。普通の陸軍特別操縦見習士官一期生の軍歴は10月1日から始まる。叔父はひと月遅れた入隊だが同期扱いされていた。

 ロシアとウクライナの圧倒的な兵器の差から、負け戦を知りつつ、命を使って未来に希望を託したという想いのコメントが残る。これで叔父の顔色が爽やかな表情だった意味をウクライナ兵士のコメントから知った。
 間も無く台湾からの忘れた特攻出撃とその後の特攻に参加できなかった人の本が台湾戦争史の研究者から出る。そのきっかけを作った自分の家族は叔父に対して慰霊したと思いたい。
 落ち着いたら、台湾と沖縄の嘉手納の自衛隊基地で第204飛行隊 (航空自衛隊)なので隊員の食堂で福神漬をたっぷり添えて想いにふけたい。叔父の陸軍飛行隊も204だった。その後LST808が被災した伊江島で小石を拾い、叔父の墓に埋葬したい。LST808は硫黄島に参加した船だった。
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チョット思った知覧の慰霊祭

2022年03月06日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻隊員の遺族となって、15年程なのであの慰霊祭に行事はいかなる性格なのか不明で、一時は1036人を利用した観光行事と思うときもあった。このようなことを誰かが裁判沙汰を起こしているはずと思い検索するとやはり裁判屋さんがいた。最初の訴訟の判決で、原告人の人が一時的な訴訟のための住所と判決文の中に書いたあった様に思われる。

判例時報1983年 4月11日号 昭和58年4月 通巻1068 判例時報社 
箕面市慰霊祭違憲訴訟第一審判決 大坂地裁1983年3月判決

 箕面市忠魂碑訴訟(最高裁判所平成5年2月16日) 


(事案)


箕面市は、大阪の高度成長期に急激に人口が増加しました。そのため、箕面小学校でも生徒が急増し、一方で、校舎が老朽したため、校舎の増改築と校庭の拡張を計画しました。


箕面小学校と柵で仕切られた市所有地に戦前からの忠魂碑がありましたが、この忠魂碑を移転し、その土地を小学校用地として使用するため、箕面市は、移転のための土地を購入し、そこに忠魂碑を移転・再建しました。これが、憲法20条3項に禁ずる「宗教的行為」であるとして問題になり、経緯を含め、行政の長の参加についての公費の是非についての裁判となりました。


また、忠魂碑を管理していた遺族会は、毎年、忠魂碑の前で神式仏式による慰霊祭を行っていましたが、この慰霊祭に、市の教育長が参列したことも問題になり、これに対して給与を支払ったことは、憲法20条1項後段、89条違反が禁止する「宗教団体」または「宗教上の組織・団体」への特権付与であり、公金等の支出にあたるとして争われました。


(判決)


(1)土地購入・無償貸付・移転・再建の20条3項違反について


政教分離規定というのは、信教の自由を間接的に保障するための制度を保障したものです。政教分離原則は、国と宗教のかかわり合いすべてを禁止するものではなく、信教の自由を保障するという目的からみて、相当とされる限度を超えるものだけを禁止する。


相当とされる限度を超えるものとは、目的が宗教的意義を持っており、効果が、宗教に対する援助、助長、促進または圧迫、干渉などとなる行為のことです。これを判断するにあたっては、行為の外面だけでなく、当事者の意識や、一般人の評価を考え、社会通念に従って判断しなければなりません。


本件についてみると、第1に、忠魂碑は、もともと戦没者記念碑的なもので、神道等の特定宗教とのかかわりは、少なくとも戦後は希薄です。第2に、遺族会は宗教的活動を目的とした団体ではありません。


 知覧の慰霊祭も宗教的な色彩が消え、何かの南鹿児島市の観光施設のイベントと感じた。従って自衛隊員が参加していても問題がない、上空のプロペラのあるP3C哨戒機の慰霊飛行もある。出されるお茶は知覧茶のペットボトル。


(2)遺族会は宗教団体か

遺族会は、戦没者遺族の相互扶助・福祉向上と英霊の顕彰を主たる目的として設立されたものですから、宗教的な行為をしたとしても、それが本来の目的ではないので、憲法20条1項、89条の「宗教団体」や「宗教上の組織・団体」ではありません。


(4)慰霊祭への参列は政教分離違反か


忠魂碑は戦没者記念碑的な性格のものであり、第二に、遺族会は宗教団体ではなく、第三に、慰霊祭への参列は、公職にあるものの社会的儀礼として、戦没者や遺族に対して弔意、哀悼を表すために行われたものです。


 確かに九州の市町村の首長や知事・国会議員も知覧の慰霊祭に参加している。


慰霊祭への参列は、世俗的な目的であり、効果も、特定の宗教の援助、助長、促進又は圧迫、干渉等になる行為ではありません。ですから、この行為は、憲法上の政教分離規定に違反するものではありません。


以上のように述べて、箕面市の行為をすべて合憲としました。


 不思議なのはキリスト教風の行事が知覧の慰霊祭に見当たらない。献茶があった記憶がある。黒い礼服の人もいるが地味な服装の人が多いと感じた。
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