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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

やむ得ず欠席通知

2022年02月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
鹿児島県南鹿児島市知覧特攻慰霊顕彰会から5月3日の慰霊祭の出欠返事で悩んでいたが、コロナもあって今年は不参加決断をした。それでもコロナが収束し旅費等が安い時期にゆっくりと南鹿児島の慰霊旅をしてみたい。
 高校生等の修学旅行時期で人気が一位の観光地となったのは、1036名の壮絶な死が魂を覚醒させるのだろう。18歳から23歳くらいの優秀な学生が敗戦間際と知りつつ、死を予定していた飛行機搭乗の直前に笑顔で別れの挨拶をしている写真は涙を誘う。
 昭和20年5月15日に台湾花蓮港の料亭新川で叔父たちの特攻メンバ-が宴会をひらいた。その記念写真の前列には隊長の回りに、叔父ら6名が座っていて、後列には後に特攻することになった人たちがニコニコし、ふざけている記念写真があった。真面目な叔父は特攻隊の心の乱れを懸念したか重苦しい姿で写っていた。台湾の5月中旬は日本の梅雨の始まり頃で、蒸し暑いという。隊長以外は楽な服のようだった。後列の人たちは無礼講らしくYシャツ姿で汗拭きのタオルではしゃいでいる姿も見える。とても特攻直前の写真とは思えない。
 知覧の1036名という数字はどうも定義があって、陸軍で特攻命令が出て出撃して、散華した人たちのようだ。空中戦で損傷し、米軍等の艦船に特攻した飛行兵は含まれない様だ。これは後の軍人恩給にも影響する。叔父たちの特攻攻撃で戦果確認機が1機出撃しているが、米軍と戦闘になり、台湾に戻ることはなかった。彼は特攻隊員でないので知覧の1036名に入っていない。しかし同期の仲間の記憶では同じ死の扱いとなっている。

 中田芳子著 14歳の夏 特攻隊員の最後の日々を見つめた私

この本で台湾の叔父たちの行動とその後が書かれている。
この少女は今は90歳となっている。あの記念写真がなければ叔父の最後の日々が不明になるところだった。生き残った同期の特攻隊員の戦後の心に大きな傷があったようだ。偶然知り合ったのは叔父の魂がまださまよっていると感じる。
 そして間もなく、下北沢の町おこしをしている作家がこの第八航空師団の204隊の歴史を書籍とする。主な内容は7月19日の特攻作戦で、沖縄が米軍に制圧されている状況で飛びたった。隊の名誉のためで最初から戦果は期待していないと感じる。コロナの下で台湾の現地調査が出来ず、リモ-ト取材で苦労した様だ。この本が出れば叔父の魂が安らぐと信じたい。
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慰霊祭の出欠に悩む

2022年02月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
2月のこの時期に、鹿児島県知覧特攻慰霊顕彰会から招待状が届く。2年前の戦後75年の節目の慰霊祭に参加したが。令和の初めで10連休ということで、航空券と宿泊を合わせて、海外旅行並みの費用となった。叔父が特攻したのは台湾からで知覧に慰霊されている1036名の一人とは15年ほど前に知り、招待状がくるようになった。この時期は築地も忙しく、豊洲へ移転しやっと慰霊祭に参加できるようになった。家人は8年以上前から参加していて戦争礼賛と感じないと言っていた。
 チョット前の日本経済新聞のコラムで。今年は戦後77年という、さらに明治維新から敗戦まで77年だった。明治の勢いがすべて敗戦で消えた。叔父の行為は生きている自分にはどのような意味があるのか慰霊祭のテントの下で黙想する。帰りの鹿児島中央駅前のバス乗り場へ行き、東京への飛行機に乗ったのだがずっと叔父を生んだ母(てい)のことを思っていた。老衰と医者に言われ、10日以上も水を唇に濡らしただけで生きていて、最後に大あくびをして呼吸が止まった。なぜかチリ紙を鼻先に垂らし、揺れないのを確認し、周囲の人に連絡した。もう50年以上の前の話だが、その時叔父が特攻で死んだことを知り、さらに同僚が戦後に訪問し、出撃前の集合写真を届けてくれた。その写真が父の写真帳に大切に貼ってあった。その写真が2020年7月4日に日本テレビで夕方写り、もうじき下北沢の台湾の特攻隊を調べている人が本にする。
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The Death of the 808: The True Story of Lst 808

2022年02月14日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
断捨離の途中で英語の本が出てきた。叔父の特攻で破壊された部隊の記録の本だ。

The Death of the 808: The True Story of Lst 808 ペーパーバック – 2018/2/7

英語版  William R. Bell (著)

The drama and history of LST 808 as she made her way though the south pacific toward her demise during the battle for Okinawa. Possible the only ship in the fleet to be sunk twice by the Japanese.
¥1,844 
今はアマゾンの価格でこの値段だったが3年ほど前は800円位だった。この本が日本で買われると思っていなかったらしく、発注後に価格を再度確認すると千円をはるかに超えていた。

この本の中でLe simaと書いてあって、どこの海岸の波打ち際でLST808が煙を出して燃えていた。娘の調査では沖縄の伊江島と思われる。Lと読んだのはフランス語の知識が邪魔しただけで、単なる誤植のような気がする。このような5月20日の台湾の八塊陸軍基地から特攻出撃した叔父の陸軍第八航空師団204飛行隊5名と確認機1名と知覧から出撃した振武隊の特攻作戦でこの時期としては米軍に多大な損害を与えた。このLST808は硫黄島にも参戦していた歴戦の船でこの日の特攻で鉄くずとなって廃棄する船となった。
 沖縄県伊江島村は島ラッキョウの一大産地で築地から豊洲へ移った青果仲卸くしやサンが取り扱っていて、宅配が沖縄から航空便でやってくる。また伊江島には昭和20年4月に著名なアメリカの従軍記者が、日本兵に狙撃され戦死し、記念碑がある。戦後に米軍の占領地となった沖縄で劇場が造られ、名前をアニ-パイル国際劇場と命名された。今は劇場は消えたが国際通りという名称が残っている。

 自動翻訳で書籍の内容から、5月18日に日本軍の魚雷攻撃を受け、伊江島に停泊中に特攻を受けたようだ。 Lst 808戦友会の記録でも死者が多数出ている。
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図書館で涙する

2021年11月09日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
予約制が無くなってもまだ人数制限のある都立中央図書館で下記の本を読んだ。

戦時下の滋賀師範 昭和18年の卒業生
滋賀県平和祈念館編 - 

 今の滋賀大学教育学部の前身だった、滋賀師範学校を昭和18年9月末に繰り上げ卒業した人たちの記憶を本にしてある。昭和14年に小学校教員養成の師範学校生が卒業して、5か月の短期兵役の特典が無くなった。そのため滋賀師範学校卒業生で昭和10年以降の卒業生の兵役状況が下記のようになっている。
昭和10年卒業 2名死亡
  12年   1名
  13年   1名
  14年   2名
  15年   36名死亡 短期兵役制度廃止
  16年   24名
  17年   36名
  18年   16名
  19年   0 本土決戦ということで、兵器なしで終戦時国内に配属
         従って戦死者はいなかった。
戦争とは生まれた年で決まる理不尽な運命を強いていた。
 1920年から後に生まれた子供は幼児の時から、恵まれない時代であった。
昭和18年6月から海軍は短期養成で飛行士を募集した。太平洋戦争の分岐点となったミッドウエー航空戦で多数の飛行機とパイロットを失った。そのため通常は数十人だった飛行士の募集が5200名となった。陸軍は7月から遅れて募集が始まり、特別操縦見習士官として1期生は2700名となった。

 この飛行士官の募集について、滋賀師範学校では学校からの勧奨は無かったようだが皇国国民を作る先生として、応募する方が自然の流れであった。師範学校に派遣されている陸軍の配属将校から(お前たちの人生は50年でなく、25年とだ)とあきらめるように言われていたようだ。(国を救うのはお前たちだ。)どうせ短い命なら、潔くという考えもあったようだ。
 危険性があって、飛行士試験に応募しない学生も、戦況の悪化は間も無く招集が来ると思っていたようだ。

 師範学校を昭和18年卒業し、生き残った人たちは今は96歳を過ぎつつある。多くは亡くなり、生き残っているわずかの人の記憶もあいまいになる年代となった。

 
 

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親の想いを感じる

2021年11月07日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
9歳の時、父親を亡くし、早65年となる。父親の60回忌を出来る人や幸せというがそこまで兄弟がグレずに育ったのは母を支援してくれた周囲の力があってのことと感じる。今の若い人が失敗で一家心中するのは希望が見えないと見ている。当時はまだテレビが出始めたときで、父の自慢は町内で割と早くテレビが入った。当時の給与が月給1万円を下回っていて記憶では17万円ほどであった。
 何もわからず育ったが今となって漏れ聞く父の思いはあるようだ。断片的に母から戦争の話を聞くが、戦後に生き残るのが必死で今は苦しい思いが残っているようだ。母の顔に刻まれたシワは苦労と喜びの戦歴と思う。

 母から漏れ聞く父の話は今では認知症になっているため確認できない。若いときからの話と最近の話が混じって、さらに脚色があって真実とは思えない話もある。その中でも徴兵検査で偏平足ということで不合格となったことを言い伝えとして残っている。昭和20年2月1日に横須賀の海軍に入隊したのだが、20歳の検査時期はまだ大陸での紛争もなく、軍隊では不必要な人材だったと思われる。東京の下町で陸軍納入の漬物業者のところで働いていた。当然軍隊の内部状況は自然に入っていて、特攻に行ってしまった叔父が陸軍特別操縦見習士官の試験には(不合格)を示唆した可能性がある。どんな試験でも競争率が1倍を超えていれば、落ちるのは簡単である。生母に軍隊の受験を知らせないかったと思われる。
  昭和18年9月8日に毎日新聞埼玉版に埼玉師範学校から陸軍10名、海軍23名、浦和高校から2名、重複合格1名となっている。つまり昭和18年9月繰り上げ卒業となった、男子埼玉師範学校生139名中、33名が飛行機の士官試験に合格した。
 高田英夫著(陸軍特別操縦見習士官よもやま話)から師範学校の出身の隊員が多いと書かれている。当時は予科練の歌で海軍航空隊の方が人気があって、競争率も高く、海軍は10倍を超え、陸軍は締め切り期間を延長しても5倍程度だった。全国各地の師範学校には陸軍出身の軍事教練の教官が派遣されていて、海軍との応募の差を埋めるため師範学校の生徒に応募のノルマがあったと思われる。真面目と評価されていた叔父は受験志願書を教官経由で提出せざるを得なかったと思われる。試験は受けるけど、密かな想いで不合格を画策し、落ちた。そのため生母には受験したことを伝えず、学徒出陣ということでごまかした様だ。これで同期の特操一期生と軍歴が異なることになる。他の一期生は昭和18年10月1日だが叔父の軍歴は11月1日から熊谷の飛行学校に入隊となった。もしかすると受験自体もなく、海軍にも合格した埼玉師範学校生のため、急遽教官によって、追加受験を強制されたかもしれない。この時期叔父は小学校でチョットだけ教員をしていて、後に小学生の慰問文が自宅に送られたという。
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英霊と犬死との間で

2021年09月29日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父の事から特攻遺族となってまだ15年ほどしか経っていない。普通の遺族とは違っていて、なぜ特攻隊員になった理由を知らせなかったかとか直系遺族から話さなかったかの解明が進んでいない。
 日本の親族の定義で、養子に行くととかく戸籍から離れたから血は繋がっているが法事の席などから疎外され無視される。一時は兄弟と生まれていて、気分は親族だが、苗字が異なると扱いは別となる。それゆえ口出しはしないでいたが亡くなった叔父があの世で直系親族から忘れ去られて歯がゆい思いをしていて、我々にチョッカイを出しているように感じる。
 それでも法事の席で少し出てくる叔父の話は英霊でもなく犬死論が多く聞こえた。戦後の扱いから来ていると感じていた。その違和感がどこから来ているか今でもわからない。一応調べた限りでは親族の中では一番優秀な頭脳と体力があった。6か月の即席パイロット養成システムの中でさらにひと月ほど招集に遅れたにも関わらず、同期と卒業し、激戦地であるインパ―ル作戦で英軍と戦い、レイテで後方支援、そして台湾で特攻するというのに親族では英霊扱いにはなっていない。何か戦後に周囲から酷い扱いになった気がする。何も知らない人から特攻隊長として4人を引き連れ、さらに米軍記録にも残っている攻撃死だった。日本の新聞の大本営発表では同日同時刻に知覧から出撃した振武隊の方が報道され、印象は薄い。連携攻撃で台湾の方を気にしていなかったと思われる。
 日本経済新聞の私の履歴書から山本耀司さんの連載が始まったが最初の文章で彼の父がフィリッピンの山地で戦死したという。この中で戦後に坂口安吾の(続堕落論)を読んで涙したという。同感の思いがある。
 山本の言葉で(無念さ)という言葉がある。今一番探していた言葉だった。将棋のブ-ムがあって(捨て駒)という言葉を知った。叔父も捨て駒だったのだろうか。上級者は捨て駒を生かす戦いをする。叔父の人生というコマを今生きている自分たちがそれに報いる仕事をしているのだろうか。単なる時間つぶししかしていないと言われそうだ。
 今は叔父の記録発掘しかできない。何とか解明し無念さを晴らしたい。



 

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振武と誠

2021年09月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
戊申戦争の上野戦争直前、旧幕府となった人たちが新政府軍に意地を見せようとして上野に集まりました。

慶応4年1月の京都の鳥羽伏見の戦いに敗れた前将軍徳川慶喜は江戸に戻り、恭順の意を示し、上野の寛永寺に謹慎しました。しかしそれを認めたくない旧幕臣や一橋家の家臣らが中心となり、結成されたのが彰義隊です。彰義とは「大義を彰(あき)らかにする」の意で、徳川慶喜の助命と復権を目指し、新政府軍がそれを認めないのであれば、戦うことも辞さずという集団でした。
頭取には渋沢成一郎が選ばれましたが、後に抵抗の方針を巡って副頭取の天野八郎と分れ、渋沢は振武軍を組織し、天野らの彰義隊が敗戦後、飯能に拠点を構えました。埼玉飯能で西軍に敗れて,箱館まで逃れました。
 この振武という言葉が鹿児島からの特攻隊の作戦名となっています。振武隊(しんぶたい)は、1945年(昭和20年)3月26日から始まった沖縄戦における陸軍第6航空軍隷下の特別攻撃隊たる飛行部隊の総称である。各隊が固有の番号を冠し、フィリピンにおける「八紘隊」からの連番とするも欠番がいくつか存在している。また九州の6航軍とは別に、第8飛行師団隷下で台湾から出撃し沖縄戦に投入された特攻飛行部隊は誠飛行隊(まことひこうたい)と称され、叔父は台湾からの出撃で誠の作戦名がある。 

 少し前に深谷の渋沢栄一記念館の展示を見ていて、新政府に反抗した渋沢成一郎の記録が何もなかった。歴史は敗者に冷たい。敗戦が近いと知りつつ陸軍特攻作戦名に『振武と誠〛とつけたのはどの様な理由があったのでしょうか。
 誠は幕末の新選組の『誠〛を思い出す。
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戦友会の今

2021年09月17日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
 靖国神社の図書館というべき所の前が集会室となっていて、上京した人たちの休憩・集合場所となっている。戦友会の資料が図書館にあってその内容に関心があった。多くの部隊ごとの記録は戦友会が纏めている。図書館から借り出した本では予想通り、慰霊と親睦が中心だった。もう戦後76年になるので戦争に直接参加した人たちが消えてしまったので多くの戦友会が解散・もしくは休眠となっている。このような感想を持つのは10年ほど前から知覧の特攻の慰霊祭から案内状が届いていて、急に特攻遺族になってしまって、無関心という態度でいることが出来なかった。それは築地市場の前に朝日新聞があって、しばしば営業時間に騒音をまき散らしていて業務を阻害していて、反感を持っていた。右翼は本当に戦死者をどう思っているか判らない。今の韓国の事例でもあるように戦争死者・被害者の扱いは彼らは英霊と言って金づるの手段としか思えなかった。何かが違うのだがまだわからない。政治家がパフォ-マンスで靖国神社に参拝している意味が本当に慰霊しているのだろうか。票集め行動なのだろうか。
共同研究・戦友会 高橋三郎編著 1983年出版
 この本のあとがきで戦友会というものは(慰霊・親睦・体験の語り合い)という。叔父の特攻で被害にあった米軍のLST808にも戦友会があって、そこの更新とか親睦の会合の連絡が2005年位で終わっている。他の米軍の太平洋戦争の戦友会も同じ頃に活動が終わって、まとめ役がいるようだ。米軍は日本との戦争後、朝鮮・ベトナム・湾岸戦争・イラク戦争・そしてアフガニスタンと戦争の休みがない。従って記念日以外には古い戦争は忘れる傾向が見える。しかし米軍は記録が残っていて、日本や中国と違って、都合の悪いことも記録として多く残っている。叔父の記録もまだまだ解明できない部分があって、なぜ遺書が消えたかは解明できない。
 韓国でも朝鮮戦争とかベトナム戦争で参加した兵士の戦友会はないのだろうか。
 沖縄の資料で気になるのはひめゆりの塔で那覇師範学校女子部の生徒という。陸軍の軍事教官の教育で自決を教えていたのだろうか。師範学校での軍事教育の内容が解からない。海軍と比べて人気のない陸軍特別操縦見習士官の受験を強制されたと感じる。しかし、叔父は意図的に落ちたが埼玉師範学校の軍事教官が海軍の航空士官に同時合格した1名の欠員補充で繰り上げ合格となった。

 
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陸軍現役将校学校配属令

2021年08月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父が昭和18年7月に発表された陸軍特別操縦見習士官制度の受験に関して、親族の言い伝えが残っていない。どうも埼玉師範学校に配属されていた軍事の教官に試験を受けさせられたと思う。同調圧力があって、受験はしたが見事に不合格となった。これは私の父が扁平足で20歳の時の徴兵試験では不合格であった前例があった。心密かに試験に落ちることを決めていたのに、なぜか繰り上げ合格となってしまった。叔父は出身小学校の先生に進路指導をうけ、今の千葉県野田市にある野田農工学校を受験し、授業料のかからない師範学校を目指した。軍人指向があれば別の行く先もあった学力で地域のために農業系を選んだと思われる。試験に合格することは競争率の問題で難しいが落ちることは比較的容易だったと考え、意図的に落ちたと思う。しかし同時期の海軍予科練と陸軍の特別操縦見習士官に両方合格し、陸軍の方に欠員が出来て、埼玉師範学校の軍事教官によって推薦され繰り上げ合格となったようだ。叔父の軍歴は11月1日から始まる。他の人は10月1日。昭和18年9月23日の報道によると、理科系と師範学校の人は後に学徒出陣となることが免除される記事があった。この時繰り上げ合格にならなければ特攻遺族にならず今でも生きていたと思う。陸軍の特操に合格した埼玉師範学校の学生10名のうち、9名は昭和25年の師範学校同窓会名簿に赴任先の学校が書かれている。1名は海軍の予科練に行ったと思われ、死去した様だ。

1925年(大正14年)4月11日に、「陸軍現役将校学校配属令」(大正14年4月11日勅令第135号)が公布された。 同令によって、一定の官立又は公立の学校には、原則として義務的に陸軍現役将校が配属された。 なお、配属将校は教練に関しては学校長の指揮監督を受けた。戦局の拡大で学校に派遣されて将校の発言力が強くなり、上智大学の靖国神社事件のように、学校運営の危機を生じた例が記録として残る。今でも当時でも日本の学生は何を学んだということより、卒業証書の方が重視していた。また軍事教練の科目を履修しないと、短期兵役とかの優遇もなく、受験生が減り、大学の経営危機となったという。

 当時の大学生は今と同じで裕福な人が大学に行くので軍隊の上官の理不尽な扱いを知っていたので短期兵役は魅力的だった。

 叔父の繰り上げ合格でなぜ欠員補充に選ばれたか考えると、1番の理由は海軍の方が人気があった。これは予科練の歌の影響で、競争率が海軍は20倍ほどで陸軍は5倍くらいで、選考の中で重要な視力の基準を緩め、募集期日を10日ほど伸ばした。従って欠員補充は配属将校のメンツだっただろう。
 あまり考えたくないのだが叔父の名前が栗原で226事件の栗原安秀と親せきと思われた。226事件に参加した兵士1400名の半分は埼玉県出身で、埼玉師範学校はその影響のある軍人がいたのではないかと思ったこともある。最初から叔父は試験に不合格を計画し、配属将校の受験圧力から逃れず、不合格を意図していて、実母には知らせず、繰り上げ合格も学徒の出陣のように伝えた気がする。本当に飛行機操縦士と知ったのは昭和20年の常陸での訓練で実家に帰ったころからと思われる。叔父の遺書のない理由はこの時に十分に話したとしか思えない。生きて帰ると思いを残していて書かなかったと思いたい。戦後の混乱時に、近所に進駐したGHQの40名位の兵士姿を見て遺書処分したと思いたくない。叔父たちの特攻隊は台湾と知覧からの出撃で、米軍の記録でも多大な被害を与えていた。
 
 
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慰霊で考える 2021・8・15

2021年08月16日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

故郷はなぜ兵士を殺したか  一ノ瀬 俊也著

 普通の市民が戦争となれば人を殺す。ひとり殺せば百人殺しことも容易となる。さらに千人殺せば英雄となる。さらに殺せば歴史の残る人物となる。

 8月15日 先の戦争で多くの理不尽な死があった。うまく逃れた人も食料・医薬不足の中で運よく生き残ったに過ぎない。先の戦争は日本国民の多くが兵士として参加したのだが本当に国民全員が参加させられたのが昭和の時代だった。日本本土にいた女性でも、なぎなた・竹やり訓練をしていた。

 今は位置情報がしっかりしていて、戦地でない所で戦争を指揮できる。人が乗っていない飛行機で攻撃できる。モニタ-越しから見ている映像で攻撃し、テレビゲームのような心の痛みの少ない攻撃となる。

 平和を願っている人ほど平和が危機になると自衛と称して狂暴になる。特に報道は危険だ。彼らは戦争反対を唱えていても、いざ政府がやむにやまれぬ戦いだと唱えたときから、新聞の発行部数の減少を恐れ、戦争の賛成に回る。
 先の戦争前に大学に軍事教練のための陸軍軍人が派遣された。中国の戦いで兵士が不足し、徴兵猶予の特権があった大学卒業資格に軍事教練終了があった。軍事教官の派遣を拒んだ大学は受験者の減少を招き経営危機となった。今でも日本の大学は学問を学ぶところでなく、卒業資格を得るところであった。同志社大学はこれに負けたようだ。昭和18年夏の新聞記事を見ていたら、神田駿河台にあった文化学院がこのことで問題になっていた。生きていないと理念は保てない。かといって生きることは他の命を奪って生きることもある。動物性ということで多くはこの矛盾を追求しない。そして年寄りは生きている。若者はまだ矛盾が少ないだけで、生きれば生きるほど多くの矛盾を起こし、生き残る。
 叔父の特攻の意味付けはまだ適当な考えが出ない。読んでいた本でもそれぞれの考えの細かい部分がはっきりしない。つまり慰霊とは自己に対する戦争解釈であっていくら戦争反対と言っていても、攻撃や恐喝に常に屈服することは出来ない。日本的な話せばわかる時期は終わり、デジタルのオン・オフしかない時期に来たようだ。
 

 
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中国の百度から小鮮肉を検索 中国の若者の言葉でイケメンという

2021年06月13日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
叔父と父の昭和の初めの日本での徴兵検査がどうなっていたか調べているが、父は最初の検査で偏平足で不合格となった。叔父は昭和16年夏の陸軍特別見習士官の試験に挑戦し、不合格となった(未確認だが意図的に落ちたと思っている)。この試験の受験と不合格の結果は叔父の遺族が誰も戦後にも語らなかった。どうも撃墜死(昭和18年7月にはまだ特攻は企画されていなかった)もある飛行操縦見習士官の不合格を親族に伝えなかった気がする。想像だがもう時局が急変していて、いずれ体格の良い叔父は兵士となる運命を埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)の軍事教官から聞かされていたと思われる。父は陸軍へ漬物を納入する業者で陸軍の軍隊生活の内容は知っていたので伝えていたので招集されるよりいじめの少ない下士官になれるので応募したと思う。軍事教官の受験指導もあったと思われる。その理由として、埼玉大学に保管されている叔父の記録によると視力が極端に良く、1.5もあった。
 そこで今の中国がどのような徴兵をしているか調べると、一応国民は男女を問わず兵役の義務があるが応募する人が多く、全員の適正検査はしないようだ。
 しかし一人っ子政策と小鮮肉 と言われるような体格になっているので、不合格となるのが60%近いという。
 不合格の理由として
1 太め 行軍に耐えられない
2 近眼(不合格は0.4以下) 日本と同じでスマホとか勉強のし過ぎで視力が落ちている。
さらに不合格の分析があるが、食生活とスマホ漬で姿勢が悪くなって軍隊の訓練に耐えられないという分析がある。就職状況が不景気な時期は志願者が多く、選別の基準が厳しいようだ。心臓・耳・ワキガ・風土病の検査で不合格となるものが多い。しかし兵役に合格すると、除隊することは軍隊の名誉の問題から様々な中国で生活するには不利益な罰則があるようだ。入れ墨は検査に不合格となるので、今後に戦争を想定する時期に来たら、若者が入れ墨で逃れる人も増えそう。

 中国に進出している日本の漬物業者は30年前は視力の良い若い中国女性を雇用していたが今は老人しか応募に来ないという。そのうえ農村の人口も減っているという。戦後の日本で経済が発展し、農村から都会に出て仕事に就く若者が増え、青果物の余剰を安価に購入し、漬物に加工していた仕組みが人手不足となって、原料を海外に求めた。これは農林省の漬物に対して援助がなかった。さらに生の野菜販売に注力し、規格を厳しくして、手間を掛け、形を整え高く青果物を生鮮食料品として販売できるように指導した。
 いま中国が危機感を持って食糧を確保しているのは、農村部の一人っ子政策の後遺症を懸念している。多くの近代的農業機械とその整備はある程度操作知識がないとできないが大学を出ても、農業系の仕事は嫌われていると想像する。何しろ、農地にはエアコンがない。トイレもない。野糞に慣れないといけない。
 今漬物業者が次の原料産地を探しているが治安の厳しい所が多く、10年前に訪問したミャンマ-も今は昔より危険となった。昔なら中国の動静を見ていたら危険を察知できるが今は誰が情報を持っているかわからない。
 インパ―ル作戦末期に叔父はミャンマ-の中部の観光地インレ-湖付近のヘホ飛行場にいた。ここを訪問した時、軍歴を知らなかったので何も感情が出なかったが、今は澄み切ったあの青空の下を飛行していたのかという思い出が残る。昔も今もミャンマ-は緑の陸地である。多分ミャンマ-軍隊の兵士は農民出身が多いと思われる。

 さて中国の検索で(小鮮肉)と検索すると、変な日本語に変換され(男の子は「自然に美しい」、良い肌、色白の肌、繊細な特徴を持って生まれ、女の子よりも見栄えがします。これは弱虫の男の子であると言われ、繊細であると言われました、それはハンサムな小さな肉であると言われました、あなたはすべてがする90年代生まれのトップ10の最もホットな男(イケメン)を知っていますか? 
 つまり25歳までの見た目が細目(特に足)で、高身長(どうも180cm以上)で裸になると筋肉モリモリで、さらに顔面偏差値が高いことを示しているようだ。どうも字から想像するが朝鮮の鮮も語源の一部にあるのだろうか。韓流タレントの残滓が隠語として残っている気がする。検閲をしているとわかっていて、それに負けない工夫をいつの時代でも若者が行っている。マスク姿の香港女性はいつ逃亡するのだろうか。
 男女比の極端な差がある中国では女性が小鮮肉を基準としているようだ。日本では昔は三高と言っていた。今はデフレで日本男子の給与が下がり、死語となっている。
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昭和20年5月31日の台北大空襲

2021年05月31日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
1週間ほど前、知覧特攻基地戦没者慰霊祭 の今年の様子の冊子が送られてきた。昨年と同様にコロナで少人数の開催となって、終わったようだ。夜に菊花の打ち上げ花火で慰霊祭を締めくくったようだ。今年の12月にアメリカとの開戦80年となる。参列した親族も生きていた特攻隊員を見ていた人も年々少なくなっていることを鹿児島中央駅からの式典送迎バスの中で話していた。次々と記憶を語る人が消えてゆく。そして生きていた人も76年の歳月から断片的な話となる。
なぜか叔父の記録が消えているか探り出してすでに10年になる。遅かったと思うが今となれば戦後に受けた特攻隊員に対する扱いから、親族が写真を残し記録と記憶を消したと感じる。何が戦後の叔父の生家にあったのだろうか。謎解きは続く。特攻した叔父を英霊として扱ったが敗戦とともに米軍が近所に進駐すると厄介者扱いされたのだろうか。
 今年の5月20日の特攻死はコロナで墓前に語ることもなく過ぎ去った。

台湾の台北大空襲1945年(昭和20年)5月31日、フィリピンの基地からB29による連合国軍の空襲により日本統治時代の台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃である。この時期はもう日本軍には迎撃する飛行機は特攻用向けで日本人居住区を狙った。この空襲で市民約3000人(日本人が中心)が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った。
 この空襲は5月20日に台湾八塊基地から沖縄嘉手納沖に集結していた米軍艦船に叔父らの特攻隊が出撃し、米軍記録でもこの時期としては多大な戦果をあげた。そしてその報復とも考えられる台北の空襲があった。叔父らの特攻に対する反撃だったのだろうか。台湾でのこの空襲に対する研究はなされていないようだ。
 この台北大空襲を知ったのは、叔父の特攻出撃の最後の宴会に参加していた、14歳のお転婆女子の著書から知った。(14歳の夏)中田芳子著
今でも90歳のユチュ-バーとして活躍していて、中田芳子・戦争と入力すると、小学校での平和教育として講演しているのが見える。

 歴史は勝者の記録が残り、敗者は質量ともに記録が少ない。コロナの敗戦の今次の感染病のために記録を残し、成功した事例や失敗した事例を記録し、記憶するしかない。
 東日本震災時に過去の津波の上限到達地に石碑があった。かなり高いが地域の記憶復活に役に立ったようだ。
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台湾の梅雨入り 2021

2021年05月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今半導体のもの不足が世界の企業で問題となっていて、特に自動車が一番目立って減産しているようだ。そこにコロナによって自宅で仕事や学習をするようになりIT機器が急に個人まで必要になり、さらに工場の火災・停電等によって、安価だった低機能の半導体にも需要が急速に伸び、それが無理な稼働で火災を招くという結果をもたらしているようだ。さらに台湾では半導体工場の洗浄用の水が渇水で不足していて、今年の梅雨入りは例年より期待感が強い様だ。この時期は直撃する台風も少なく、一気に満水となることは無い様だ。
 終戦の年、1945年の5月の台湾の天気情報は今でも日本では収集できないし、米軍の情報でも現地に観測所はないので平年の推計で行くしかない。コロナの自粛解禁が終われば台湾協会で天気情報を入手したいが、今年は天気アプリでチェックしてみた。日本陸軍の台湾八塊基地から叔父らの沖縄嘉手納沖に集結していた米軍艦船に特攻したのは5月20日の夕刻で沖縄では午後7時20分頃となっていた。晴れていたら西日の夕日だろう。台湾は沖縄から見ると西に当るので、梅雨の雨雲の下を低空で飛行し、レイダーに感知されなければ特攻は成功すると計画されたようだ。同日夕刻から九州鹿児島知覧基地から台湾と同型の戦闘機隼で振武隊の十数機飛び立ち、これは米軍に感知されていたかもしれない。東西からの特攻と雲の下を飛行した叔父たちによって、この時期としては米軍に多大な被害を与えた記録となっている。(米軍の記録でも数隻の被害が記録されている。)
 叔父たちの特攻のあと米軍は台北に5月31日に大空襲をかけ、焼き払った。台北大空襲は戦後の記録でもあまり調べる人はいないようだ。この空襲が叔父らの特攻の十日ほど後だったので、もしかすると米軍の報復攻撃だったかもしれない。

アメリカ軍による台北空襲で最も被害の出た1945年(昭和20年)5月31日の空襲である。フィリピンのスービック湾に駐留するアメリカ第5空軍は、5月31日の午前10時より午後1時まで台北を目標とした空襲を加えた。
目標となったのは台北の軍事施設を3,800発の強力な爆弾が投下された。この空襲で多数の台湾在住の人が死去した。後にわかったことだがこの日の台湾全体の攻撃で日本の台湾航空隊(陸軍・海軍)の航空戦力が消えた。7月20日に叔父たちの陸軍飛行204戦隊の隊員が沖縄に特攻したのだが、飛行機は被害を受けた機体をかき集め4機にして特攻したが戦後に帰国した同期の隊員証言によると悲惨な特攻で部品をかき集めた機体はやっと飛行に耐える程度で自殺飛行と思える。記録によると途中に撃墜されたようだ。台湾陸軍の他の本土等の飛行隊が特攻しているのに何もしていないと言われるのを恐れたのだろうか。この後一月で戦争が終わった。この事実を今調べている人の話ではメンツだけの特攻のような気がする。最初から戦果は予定されていない特攻のようだった。

 あの世で叔父の霊魂はまだ成仏していないようで、しばしば生きている子孫に忘れるなと指示している気がする。
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雪の印象がある日本史三大事件

2021年04月02日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
二月二十六日は雪のイメージがある。桜田門外ノ変、赤穂浪士の討ち入り、226事件。
今年の2月にTVで雪の印象がある日本史の三大事件と言う言葉を知った。旧暦もあるので2月でないのもある。そこで一番詳しく知らなかった226事件をチョット気になった。すると後で反乱軍とされた1500名の歩兵部隊の半分程度が埼玉県出身者であることを知った。そこでこの事情を知ろうとしたら、コロナで図書館が閉鎖で行けず、4月1日に解除となり、予約してようやく都立中央図書館へ行き読むことが出来た。
   雪未だ降りやまず 226事件と郷土兵 埼玉県史
この本が編集されていた時期の埼玉県知事はこの226事件に初年兵で参加させられた歩兵だった。中には召集されて間もなく反乱兵となり、一生の傷となり、この本の手記依頼を拒む人もあったようだ。日本の軍隊もどの国の軍隊という組織は上官の命令は絶対視されていて、上官の命令に従わないと処分されることになっている。ところが226事件に召集間もない初年兵も上官の命令に従って参加したため、226事件の後無罪となっても、軍歴に反乱兵と記録が残り、さらに再度軍隊に召集されても、上官に軍歴からいじめられていたという。旧事件を調べていた憲兵の口調は「上官の間違った命令に服従したお前たちが間違いである。」と言っていたようだ。今の軍隊でもこの様な言い訳が通じるとは思えない。敗戦後、B級C級裁判で上官の命令に従った兵士が死刑になった例もあるようだ。
この本の後書きから戦争が終わって本が編集される時期には200名程度しか埼玉県出身者は生きていなかったようだ。多くは先の戦争で激戦地に意図的に派遣され、さらに汚名挽回という事で率先した身を敵にさらしたようだ。
 手記の中で栗原中尉に関して決して恨んではいない感じがした。初年兵でも栗原中尉の時局の話を聞いていて、反乱軍とされ武器を捨て投降するときの栗原中尉の演説で部隊の全員が泣いたという。
 別冊の記録ではいかに埼玉県の兵隊が貧しかったことを知る。学歴もなく、時には小学校4年位で中退している兵士もいた。埼玉大学教育学部百年史でも、埼玉の貧しさが感じられ、多くは水害とそれの復旧工事で予算が消費され、一般の農民まで恩恵がいかなかった。
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特攻隊員の14歳の少女へのセクハラ

2021年03月25日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今日手に入った、台湾南部の産地のパイナップルを食べながら、もうじき東新宿の台湾協会に行く準備をしている。台湾生まれの日本人を湾生と言うが、昨年暮れようやく叔父の特攻を知っている中田芳子さんと言う湾生の女性とメ-ルで話すことが出来た。この人は今は90歳でユーチュ-バ-である。今はお互いにコロナの危険性が高い高齢者なので落ち着いたら会って、叔父の特攻の疑問点を聞きたいと思っている。ユーチュ-ブの検索で中田芳子・戦争と入力し、検索すると小学校3年生の授業で戦争の話をしている所や、叔父たちの特攻隊員の宴会で14歳だった少女が隊員たちの余興に飛び入り参加し、芸者さん達に混じって、尻文字を書いたという。今なら完全に未成年者へのセクハラだろう。もっと詳しく知りたい方は「14歳の夏・特攻隊員の最後の日々を見つめた私」中田芳子著 アマゾンで買えます。
 今の台湾女子高等学校で一番偏差値の高い台北市立第一女子高級中学・台湾台北市にある女子高校。 日本統治時代に台北における女子高等教育の拠点として設立された。2019年7月4日夕方日本テレビで特攻隊員の話がありこの学校の女生徒と交流があった。 芳子さんは戦前14歳なのでこの学校に行っていたとは思えないが多分姉が行っていたのだろう。
 中田芳子さんの話では叔父は芳子さんへはセクハラ発言は無かった様で優しい人と言う。多分いつ出撃命令が出るか解らない時に、最後の芸者を入れての決起の宴会で無垢な少女を入れたのは無礼講だったのだろうか。最後の宴会の台湾陸軍本部のあった花蓮港か台北紀州庵の記念写真は前列の特攻隊員は顔つきが厳しく、後列の隊員は同じ隊員にも関わらず、特攻日時が決まっていなく顔が穏やかと感じる。叔父の軍歴から写真の撮影時期は5月10日あたりだろう。後列に居た中田軍曹と芳子さんは戦後に結婚したという。中田軍曹は戦後同期の人たちと一緒に死ぬことを誓っていたのに生き残って日本に戻って、自殺未遂までしたが死にきれず、芳子さんと出会って吹っ切れ、結婚した様だ。あの宴会に飛び入りしなければ彼女の人生はどうなったのだろうか。特攻隊員は生きて帰っても大変だった。
 特攻死してから75年後にあの最後の宴会での少女のセクハラ証言がユーチュ-ブで動画の出るとは満開の靖国神社の桜の下でのあの世へ行った隊員たちの会話か想像できる。多分昔は良かったと言っているだろう。

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