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 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を上映初日に観て2

2023年12月09日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を上映初日に観ての書き足りない。
映画の最後で鹿児島県南九州市知覧特攻平和会館が出て来るが、そこには特攻隊員の遺書等の箱がある。残念ながら叔父の遺書・遺品箱は空で、何もない。このことを誠204飛行隊員だった中田さんの奥様に聞くと、ほとんどの隊員は遺書らしきものを書いているという。タダ検閲があって、女々しいい文章と言われ、また場所等の文言が検閲の対象となって、知覧には表面上の手紙が多いと感じる。初日の映画評で見ると当時の状況が判らない評判が目に付いて、78年経った記憶の薄れを感じる。知覧には特攻隊員を世話していた食堂があって、その史実を知らない人が増えたようだ。知覧町の富谷食堂という。富屋食堂は 大東亜戦争末期、軍の指定食堂として数々の特攻隊員を支えてきた場所です。別名ホタル食堂と言って、知覧に舞う、漂うホタルは特攻隊の魂と言われます。映画の花は百合ですが知覧の女子高生が特攻機の見送りの花はナデシコのようです。
 多くの特攻映画等は特攻に至る経過が多く、戦後の特攻遺族の事は形式的なことがみられていて、一家の中心となるべき優秀な人を失い、戦後の物不足時に無駄死にと言われた経験がある。
 そんな叔父の遺書遺品の消滅の真実を求めて今動いているのだが、やっと手掛かりが見えてきて、埼玉県杉戸町の図書館へ行くことになる。
台湾から出撃したので「油桐花」という花が4月から5月にかけて咲くようです。花の時期は短く、4月雪とか5月雪というそうです。花蓮港での最後の晩餐時期には花は散っていなかってのでしょうか。 
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映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を上映初日に観て

2023年12月08日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
予備知識もなく、映画『あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら。』を初日に観た。原作者は知覧の特攻平和会館で特攻兵士の存在を知り、小説となった。今までの特攻物と違って、今の歴史知識があって、今風の戦争観と当時の様子が映画となっている。
 主人公の特攻隊員は多分陸軍特操見習士官1期生で知覧から出撃した振武隊と思われる。アマゾンで100円で購入した
『陸軍特別操縦見習士官よもやま物語』高田文夫著で特操1期生は師範学校出身が多いと書いてあった。昭和18年7月に航空機を操縦する兵士の促成養成機関で、卒業するといきなり士官となる制度だった。各都道府県に小学校の教員養成の師範学校があって、そこには軍国教育を指導する軍人出身の教師がいた。この教練の単位を取らないと卒業できなかった。キリスト教系の京都の同志社はこの圧力で負けた。今も当時も学校経営で学問を学ぶというより卒業証書が必要だった。
 主人公の女子高校生は特攻隊員に向けて、生きることを進言したが、国ためという声と死を覚悟して応募したと言って、生き恥をさらすと答えが来た。
 女子高生は『生きることは恥なのですか?国を再建することで生きる事は考えないのですか?』
 戦後の日本は何度も戦争が無くても災害があった。そのたびに国民が団結して復興に努力している。戦争は二度としたくない、やりたくない。しかし現実は今日も中東で、ウクライナで戦争が続いている。逃げても戦争はやってくる。
 陸軍特別操縦1期生は2400名ほど合格し、知覧で慰霊されている1期生は230名程度である。だが特攻の定義があって、軍の命令で出撃した人の慰霊で、戦闘死、訓練中の事故死などは特攻隊員と選ばれていても、慰霊されていない。
 時代時期によって、生きたくても生きられない時があったということを知覧特攻平和会館で知ることとなる。多くの特攻隊員は18歳から23歳くらいの人で昭和20年の敗戦間際に亡くなった。体力があって、数学が出来て、運動神経の抜群の人たちだった。
写真は埼玉師範学校出身の栗原少尉、特攻後大尉の写真である。彼は自分の叔父で生きていれば越谷市の小学校の赴任辞令が昭和18年9月30日の埼玉新聞に記事として出ている。戦闘機隼に小学生の慰問袋が乗っていたのだろうか。今となっては誰も親族は知らない。もう78年前の話で記憶から消えつつある。
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銀座のセイコ―ミュ-ジアムで

2023年11月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
あと二年で戦後80年となる。そこで特攻で亡くなった叔父の調査を終わらせようと企画している。南九州の知覧特攻平和会館の収蔵庫に特攻兵士の遺品とか遺書が収蔵されているが叔父の遺品等はない。台湾から出撃した仲間はある。この件で今でも生きている同期の妻となった人と知り合い、聞いたところ遺書等はほとんど書いているという。そこでなぜ叔父だけが遺品等が皆無のだろうかと思った。確かに叔父の母は字が読めなかったと思っていた。確認したところ頭が良い人で当時の農村では女性が学問すると生意気と言われていて、すぐに嫁にだされたようだ。叔父と私の父の生母の出身地は低地にある村で江戸川が大水だと排水できない水田の村であった。
 この件を親族に聞きまわっていて気が付いたのが、親族の人は昭和20年1月に叔父が一時帰郷した時に初めて飛行機の兵士と知ったように思える。つまり昭和18年9月に陸軍特別操縦見習士官の試験に家族に無断で受験したと思われる。その理由として川辺小学校の校長先生に進路相談した所、千葉県野田市の野田農工学校で農産加工を学び、その後埼玉師範学校で小学校の先生となり、農家の子女のため小学校で学問と基礎的農業知識を教えることになったようだ。
 時局がその夢を砕いたが、航跡から抵抗していた姿が見える。
昭和18年9月6日の毎日新聞埼玉版で陸軍と海軍の試験のが売閣発表が記事として載っていた。(埼玉県文書館)この新聞には陸軍の合格者は10名で叔父の名前が無かった。不合格を狙っていて、家族には失望させないと思っていた。
 特攻で死亡後に遺品が南桜井駅に戻ってきたときは多くの人が駅に出迎え、英霊とされた。敗戦後にまた遺骨(空箱.遺髪か石ころ)が戻り、引き取りのため駅に行っても家族以外は誰もいないし、無駄死にと言われていた。鬼畜米英といったいたが南桜井駅付近にアメリカ占領軍の兵士が常駐していて親切であったためだった。
 この時代の南桜井村の聞き書きを埼玉県立庄和高等学校の生徒の部活の本がセイコ―時計資料館に所蔵され、その本を古書店から購入した。
 精工舎の時計工場が南桜井駅前に移転した経緯は精工舎の社史が今でもないのではっきりと書けないが、この部活の本でおおよその事を知ることが出来る。敗戦直前に東京の空襲を予想し、精工舎は工場の疎開適地を探していたようだ。そこで選ばれたのが南桜井だった。終戦間際に工場が稼働していて戦災被害が無かった。昭和20年3月10日の東京大空襲では墨田区大平の精工舎の工場から南桜井に多くの人が移転していて、東京の家に向かった人が亡くなった。杉戸町図書館で所蔵している庄和町と東京大空襲という本で内容が知ることが出来る。
 この部活の本を知覧に届けて、叔父の霊に言い訳として納本したい。そこで万引きや窃盗本でない証明をセイコ―ミュ-ジアムの人に依頼した。この流出の件の説明があって、毎年増える文献から定期的に古書店と契約し処分しているという。そこでこちらの懸念を話した。古書店はいつかは消える。しかし知覧の平和会館は50年・100年以上も残る。精工舎の所蔵本の由来も記憶から消える。しかしこの本が叔父の遺書と遺品の無い理由を簡単に説明できる。
 まだ完全な証拠はないが地域の秘密を守るため処分したと思われる。この遺品処理を知った私の父は怒り、特攻隊員と選ばれた叔父の最後の宴会写真が父の写真帳に残っていた。他の親族にはこの写真はない。そしてここ写真で多くの人と知り合った。
 
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国立競技場で移転で再設置された学徒出陣記念碑探し

2023年11月12日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
10月の終わり頃、新宿都庁の隣の住友ビル33階にある総務省の委託の平和祈念展示資料館がある。そこに再び行く用ができた。
 その要件は昨年12月8日に出版された、叔父たちの台湾からの特攻出撃本で、攻撃を受けた米軍兵士の遺族から、戦利記念品とした持ち帰った戦闘機の残骸を搭乗者の遺族に戻したいと連絡が著者の所にメールが来た。そして自分の所に転送された。いきなり扱いについて緊急家族会議。
 まずもし戦闘機隼の残骸であれば、国に所有権があるかどうかを確認するため、どこの管轄下かを聞きに行く必要があった。これは長年築地市場で身に着けた公務員の縄張り意識で自分に無関係なことは教えないのでたらいまわしさせるおそれがあった。普通は戦没者の遺骨収集を管轄している厚生労働省と思うが、もしかすると機体となれば防衛省もあるかもしれない。素人判断で悩むより、新宿へ行って、聞いてみようとなった。
 新宿住友ビルでは台湾の企業誘致のイベントがあった。そこを横目に33階へ行き、受付で事情をいって、学芸員に来てもらい話した。
 結論から言うと、このようなことは最近はない。管轄も不明で適切な相談受付は鹿児島県南鹿児島市の知覧特攻平和会館の学芸員を紹介された。帰宅後電話すると、月曜日に出勤ということで先送りする。
 新宿の学芸員の話で来週のイベントで台湾出身の96歳の男性の講演があるという。急遽参加し台湾の戦前の話を聞くことになった。
 帰りに大江戸線都庁前駅より家に戻ったのだが前回の訪問後に学徒出陣式80年祭で国立競技場付近を探したのだが見つからず、青山一丁目駅まで歩き、緑の銀杏並木を見ていたことを思い出し、再度出陣式の碑を探した。千駄ヶ谷門の所にチヶットセンタ-があって、振り返ると出陣の碑とその無念の表明の文言があった。当時の学生でも表面上は日本が勝っていると言っていたが内面の苦悩は徴兵猶予の学生生活が終わって、理不尽な軍隊に入るという悲壮感が見える。
 碑には国立競技場に集まる次世代への伝言がある。

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知覧での学徒出陣80年のイベント 学鷲の軌跡

2023年08月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
先の戦争で、満20歳になる男性は徴兵検査を受け、兵役に服する義務がありました。昭和の初めは徴兵検査があっても、学生等は猶予がありました。戦争が敗色になって、昭和18年10月に徴兵猶予が停止され、いわゆる雨の中での神宮外苑で大学や専門学校等の高等教育機関に在籍していた学徒も入営となりました。陸軍では学徒に対して特別操縦見習士官の制度を設け、8月に試験をし、9月に合否の発表をし、10月1日に入隊となりました。1期生から4期生まででおよそ8000名の学徒が陸軍の航空士官となりました。沖縄戦で陸軍の特攻隊員は1036名が特攻戦死しました。そのうち273名が特別操縦見習士官でした。叔父の栗原義雄は1期生でしたが軍歴が10月1日でなく11月1日でした。まだはっきりとした理由が判りませんが親族の話では無断で受験し、不合格になることを計画していたようです。しかし繰り上げ合格になって1期生となりました。昭和18年9月8日の毎日新聞埼玉版では10名の陸軍の合格者と22名の海軍の合格者が発表となっています。陸軍と海軍に両方合格の人が一名いて、欠員となった陸軍に叔父が繰り上げ合格となりました。(資料の出所・埼玉文書館)
 繰り上げ合格になった理由は埼玉師範学校・今の埼玉大学教育学部にある成績簿から視力が三年間1.5の視力がありました。今でも当時でも視力の1.5は新聞記事でも少ないようでした。

 今年学徒出陣80年と言うことで、鹿児島県南九州市知覧特攻平和会館の企画展で20代で学び舎から沖縄の向け飛び立った学鷲の軌跡の様です。もう80年だが遺族はまだ80年。80年前の8月は試験の時期でした。
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沖縄戦の終結の日に

2023年06月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
沖縄本土の組織抵抗が終わった前日に叔父の沖縄特攻の気持ち整理が昨日終わった。台湾での特攻出撃前の宴会が花蓮港の陸軍基地付近の新川酒店で開催され宴会の記念写真が父の写真帳に残っていた。長い間不思議な集合写真の意味がようやく解明され、本になった。記録が消えた叔父の軌跡がこれで一段落となった。
台湾の八塊陸軍飛行場から32名の特攻兵士が沖縄に向けて飛びたった。
 叔父たちの名前は知覧に記録があるが出撃が台湾であることを知られていない。この最後の晩餐と言うべき記念写真はいずれ特攻慰霊会館に寄贈しようと思う。前列の隊員は厳しい表情で後列の隊員はふざけている姿が見える。多分湿っぽい雰囲気を吹き飛ばそうとしているように見える。
 叔父たちの台湾組と知覧からの出撃組との共同作戦で5隻の米軍艦船が破壊された。
アマゾンの日本のサイトで検索すると3年前は900円もしないで売られていて、1ドルが150円近くなると高くなった。

The Death of the 808: The True Story of Lst 808 ペーパーバック – 2018/2/7

英語版  William R. Bell (著

ペーパーバック
¥2,735 
The drama and history of LST 808 as she made her way though the south pacific toward her demise during the battle for Okinawa. Possible the only ship in the fleet to be sunk twice by the Japanese.

この本には5月20日に特攻され伊江島海岸に炎上している写真がある。LST808は硫黄島上陸作戦に参加し、沖縄戦の伊江島で大破し、そのままくず鉄となった。ネットでもアメリカのLST808の戦友会活動が見えて、大方60年後に活動が休止した様だ。60年は節目であることを日米共通と思う。







 
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知覧よりの便り

2023年06月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
4年ぶりに5月3日に開催された第69回知覧特攻慰霊祭の開催報告の封書が届いた。今年はコロナの状況に関わらず自分は欠席の方針だった。届いた報告書では例年のように開催されたが自衛隊音楽部の演奏で声出して歌うことなく終わったようだ。
遺族の高齢化という影響は自分はまだわからない。何しろ遺族扱いになってまだ20年ほどしか経っていない。コロナ以前の平和学習で修学旅行等が南九州の有力な訪問先となっている。広島・長崎・知覧が目立つ。多くの青年の写真が涙を誘う。小飛の人たちの年令は18歳くらいから見える。
 台湾が修学旅行先となったら叔父たちの特攻戦跡を見てほしい。結構日本より良く保存されている。
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5歳児のカスリ-ン台風の記憶

2023年05月21日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
5月20日沖縄嘉手納沖で特攻死した叔父の墓参りを春日部市にある墓地に参拝した。雨模様で墓に着いたとき、線香が燃え残っていた。誰かが来たようで、花を添える準備をしていたら、何か人の気配があって、こちらを見ていた。そこで名乗ると相手は3歳児の時、叔父の出征記念写真に写っている人だった。双方とも記憶は薄れていて30年ぶり50年ぶりの遭遇だった。聞くと毎年命日に墓に来ている様だ。23歳で特攻死して家族を作っていないので寂しかろうと思ってきているという。打ち合わせで行ったの無いので、叔父の引き合わせと想い、急遽予定を変更し、近所の家で思い出話となった。
 そこで親族の中で特攻死した件でどのように聞いているか聞くとあまりこの話題には触れることは無い様だった。戦後の混乱期に男手を失い苦労したようで、5歳くらいの時のカスリ-ン台風の被害の記憶がまだ残っていた。
 墓参りの朝に東武春日部駅の近の春日部市郷土資料館で市史の庄和地域の近現代史を購入する。この本を根拠として、叔父の遺書・遺品等が処分されたと推測を行ったとこと、否定はされなかった。戦後の地域の経済状況はそんなことを考えるのでなく遺品等は処分し、写真だけ残したようだ。
 きむらけんさんの著書を送ることを約束し別れた。天国の存在は信じていないがまだ成仏していないので我々生きた人にいたずらしている様だ。

 墓に刻まれている戒名は
 徳晃院忠烈義道居士
この戒名を付けてくれた住職からの戒名の由来は伝えられていない。しかし徳晃院は特攻・トッコウと読める。忠烈はきわめて忠義の心の強いこと。 
 そして義道は三国志演義の「我ら三人、生まれし日、時は違えども兄弟の契りを結びしからは、心を同じくして助け合い、困窮する者たちを救わん。上は国家に報い、下は民を安んずることを誓う。同年同月同日に生まれることを得ずとも、同年同月同日に死せん事を願わん。皇天后土よ、実にこの心を鑑みよ。義に背き恩を忘るれば、天人共に戮すべし。」 を思い起こす。叔父が多長で他の4名の同志と沖縄に向かった。
 台湾桃園市は八塊基地に近い所にある。日本の旅行者が台湾の国際空港に行くのは桃園市である。
 観喜院の先代の住職は戒名を付けるときどこまで知っていたのだろうか。

 墓を作る時は特攻死したことを知っていたが嘉手納沖ということは理解していないと感じる。沖縄と台湾の間の海底にいるのだろう。 
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叔父の特攻の日で

2023年05月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
5月20日の夕方に叔父は台湾の台北付近の八塊基地から沖縄に向け、九州・知覧からの特攻隊と合流し、一応米軍の記録に残る戦果を挙げた。しかし本土の知覧の記事があって、台湾からということは本土の新聞にはない。
 米軍の沖縄侵攻で日本と台湾の物資輸送が極端に減り、飛行機部品の無い状態で過ごしていた様だ。無理な本土の陸軍司令部の要求で叔父らは特攻した。
 
戦後になると特攻の評価が変わり、英霊から無駄死に変わり、さらに戦争終結を遅らせたという声もあった。残された特攻家族はその評価に耐え、戦後に男手の足りない時は生きて居たらなと良く聞かされた。飛行機乗りは知力/体力に優れていて、今のように耕運機のような機械のない時代は体力のある人は貴重だった。
 アメリカでも軍隊仲間の戦友会活動は60年経つと参加者も減り、休眠になるようだ。戦後78年。
 知覧の慰霊会館の遺品保管箱に叔父の遺品は無い。きむらけんさんの著書で叔父の戦歴が記録された。この本に参加したので遺品保管箱に収納したい。
 お墓は守る子孫がいなければいずれ消える。知覧はまだ残る気がする。

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本来なら鹿児島の知覧へ行くのだが

2023年05月01日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
今年のコロナの収束で、鹿児島県南九州市での5月3日の慰霊祭がやっと開催される。多くの特攻隊員の生きている姿を記憶している人は85歳を超える。近所で無ければ参加をためらう年代でもある。特攻遺族となってまだ20年しかないので心の対処の仕方が不明で日々悩む。その大きな理由は叔父たちの行為が時期と雰囲気で評価が変わる。多くの当事者以外の人たちの言動は動く。しかし遺族はいつまでも遺族であって、決してあの行為は武士道の精神に反していて、美化してはいけないと感じる。叔父の生みの母の膝の上で自分が撫でられた記憶が残る。特攻死から一年半後に生まれた私は生まれ変わりと思っていたのだろうか。
 転居のあとと老柴犬の換毛の時期で家族が喘息気味となり、慰霊する気分になれず今年は欠席通知を出した。いずれ航空券が安くなったとき、叔父の知覧の記念館の遺書箱にきむらけんさんの本を入れたい。
 生きていたら4月18日で叔父は100歳となる。生誕100年でやっと戸籍以外で活きた航跡を残すことができたようだ。
 何時までも叔父にこだわっても生き返ることはないがウクライナの戦争からまたいつ日本で特攻と戦闘方法が復活するかもしれない。そのためにも記録と想いを伝え残すことが必要と思う。自分がここまで来たのも陸軍飛行204戦隊の特攻要員だった人と結婚した台湾生まれの中田芳子さんの行動が叔父と同じ飛行隊ということを知った。多くの特攻遺族が戦後に無駄死にと言われた経験を持っている。一家の中心となる男手を失い戦後の混乱期に苦労したと思われる。飛行機を操縦するには多くの知識が必要でさらに体格が良くないと長い戦闘時間でミスを犯す。ミスすればそれは死ぬことを意味していた。今の滑走路と違って戦地の舗装されていないところで無事に基地に戻って安心し着陸失敗した事例が多く見える。
 遺族ならだれでも生きていたならと思う。それだけ敗戦後の苦しさとむなしさが蘇る。
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何か気になる宮古島での自衛隊の事故

2023年04月24日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
ニュ-スで宮古島周辺での自衛隊の事故で陸上自衛隊第八師団長が交代するという。昭和20年5月20日に沖縄嘉手納沖で米軍に特攻した叔父は今の伊江島付近で命がきえたと思っている。叔父たちの台湾の飛行隊はやはり陸軍第八航空師団で発足時は満州で次第に激戦地に転進していった。この航跡はきむらけんさんの著書ではっきり分かった。台湾の八塊基地から陸軍第204飛行隊が出撃した。今の航空自衛隊にも204という飛行隊がある。そしてその所属基地が沖縄嘉手納基地である。いつか基地見学に行って、隊員食堂でカレ―ライスに福神漬をたっぷり付けて、叔父の想いと語ってみたい。
 戦時でない日本で今でも自衛隊員は亡くなっている。組織が強大で事故も多い。これからは無人化だろう。ウクライナの戦争は機械と機械の戦いに旧来の戦争が混じる。
 最近借り出した本から
予科練」戦友会の社会学  -戦争の記憶のかたち-清水 亮著 

 今まで気になっていた、陸軍の特攻に関して知覧のように平和教育で人気の施設があるが類似の施設で海軍の特攻では茨城県の施設が有名だが特攻という取り上げ方でなく、見学後不思議な感情が出ていた。その理由がこの本で理解できた。多くの海軍飛行兵士は先の戦争の中期までに戦死していて、特攻飛行兵士養成学校の予科練の戦死者は相対的に少ない。人数は陸軍より多いのだが戦争の最後は飛行機等の不足で比較的に生存率が高い。叔父の陸軍特別操縦1期生の合格名簿、埼玉師範学校卒業者名簿(昭和25年埼玉文書館所蔵による)10名の合格者で戦後に行き残った人は8名いて、海軍の飛行士官へは22名合格し、死亡したもの5名の内、記録で特攻で死去したものは1名だった。もう海軍には陸地から出撃するしかなかった時代だった。学徒出陣で兵士となった人の生存率も高いと思われる。
 従ってミッドウェー海戦が和平の分かれ目であって、その後は負け戦の道しかなく、米軍は日本の軍国主義と妥協する選択はない。

 今ウクライナが日本のミッドウェー海戦のような分岐戦闘があるか気になる。多くの西欧の近代戦争は4年ほど続く。まだ1年。あと3年は想定したほうが良い。戦火はアフリカに向かうが、ウクライナが勝っても、戦闘経験の豊富な国が黙って戦後を耐えるか疑問で今はまだ誰も想定していない。
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敗戦情報の聞き込み

2023年04月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
特攻で亡くなった叔父の経歴がおかしく、本来なら陸軍特別操縦一期生の人たちの軍歴を照会すると、始まりは昭和18年10月1日からとなる。しかし埼玉県に軍歴照会した所、叔父の軍歴は11月1日となっていた。このひと月の差は毎日新聞埼玉版昭和18年9月8日の記事で、叔父は陸軍特別操縦一期生の選抜試験では不合格だった。
 産みの母との会話で(行っちまったんだよ)という言葉を思い出す。言葉の感じでは家族に無断で受験したと感じていた。従って招集令状が来ても飛行機に乗るとは思っていなかったと思われる。なぜ希望しない受験をしたかというと、叔父が学んでいた埼玉師範学校(今の埼玉大学教育学部)は小学校の教師を養成する学校で一部に農業指導者養成もあって、さらに卒業後一定の年数を教師と勤める条件で授業料が安かったと思う。最初から軍人を目指していたら師範学校に行く前に士官学校の受験もあったと思われるがそのような話は法事の席でも出ていなかった。
 陸軍特別操縦一期生の願書申請の新聞記事で大学等の軍事教官経由で願書を出すことが認められていた。叔父はそのルートで家族に無断で提出、いや強制的に願書を出したと思う。せめてものささやかな抵抗は試験に落ちることだった。多分親族の経営している漬物業者(陸軍に福神漬等を納品していた)戦争に負けそうだという情報を入手していたように思われる。表向きは日本が勝っていると公言していても密かに学校内では戦争がうまくいっていないと思っていた感じがする。
 この件で練馬の陸軍納のタクワン業者の子孫に聞き込みをした。当然当時は敗戦を公言すると罰せられるので薄々の行動で空襲の少ない地域に疎開先を用意していたという。戦後でも負け戦と言いうことであまり話したくない、聞きたくない話題であって、疎開の準備行動から推測出来たという。
 陸軍納のタクワン漬は4斗樽で納品した。納品先は武蔵野鉄道石神井駅で今の西武線石神井公園駅の貨物駅まで大八車で運んだという。当時の陸軍の食事はタクワンと梅干が主力であった。とんでもない販売量でお金が家に貯まっていたという。この金も敗戦後に新円切り替えで無価値となったという。
 練馬の郷土資料館のふるさと文化館での練馬大根のイベントでは軍事産業だったタクワン製造業の歴史が消えている。
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高校生部活の古書が届く 国会図書館と埼玉県立図書館に蔵書があって、地元の図書館に無い 

2023年03月20日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
春日部市庄和町にある埼玉県立庄和高校の地暦部が平成元年に出版した古書が届いた。この本は庄和高等学校の隣接地にある春日部市立庄和図書館や他の春日部市の図書館には蔵書が無い。そこで先日春日部市歴史資料館を訪問した所蔵書としてあって、少し読ませてもらった。事前にネット検索で古書店には在庫があるのでコピ-する必要はなく、古書店から購入決断した。図書館の横断検索すると埼玉県では県立図書館のほか何か所の図書館で蔵書している。(県立熊谷図書館3冊、越谷市・杉戸市・川越市)そして驚くことに国会図書館にも蔵書がある。そんな本が春日部市の地元というところ図書館に無いということが普通なら不思議と思うがなぜか蔵書したくなかった事情があったと思われる。
 このあたりのことは特攻で亡くなった叔父の遺書等の処分に関係があると思うようになってきた。
 鹿児島県南九州市にある知覧特攻平和会館の遺品館には特攻で亡くなった兵士の遺品があるところに叔父の遺品は何もない。どうやら同期の人のは殆どあるようでなぜ叔父だけが何もないのが長い間不思議だった。この件の解明が徐々に進んで、戦後の特攻に関する考えだ英霊扱いから無駄死に犬死にと変化してとても耐えられないから処分したと思っていたが庄和高等学校地暦部の部活で聞き取り調査した本を読むととんでもない地域独自の事実が分かり、これでは遺族が地域の仲間のために処分した可能性も見えてきた。それは地域全体で戦中と戦後の混乱期の様子が記憶喪失となっている。いずれきむらけんさんの本が出回れば川辺小学校の学童疎開の人たちから気兼ねの無い情報提供があるかもしれない。
 高校生の部活の聞き取り調査の本が春日部市史の文献となっていて、このような事例が他の市町村の戦後史本にあるのだろうか。
 この部活の本と春日部市の正史という本と見比べてみたい。どこが部活の本から除かれたのだろうか。叔父の経歴調査で不都合なことが隠してあってもどこかで記録と記憶が残っていて徐々に解明しつつある。

 まだ確定していないが叔父は陸軍特別操縦1期生の受験を埼玉師範学校の軍事教官に受験を強要されたと思う。従って合格する意思がないので家族には受験することを伝えなかったと思われる。しかし昭和18年9月に合格発表があって、毎日新聞埼玉版には埼玉師範学校から陸軍10名海軍22名が合格している。しかし予定通り叔父の名前は新聞の所には無かった。だが陸軍と海軍に両方合格した人が1名いて、当時の人気から多分海軍航空隊に行ったと思われる。すると陸軍の方が1名欠員が出るので師範学校の軍事教官が画策し、叔父を繰り上げ合格させたと思われる。その理由は現在でも埼玉大学教育学部に保管されていた叔父の成績表を見せてもらった時すぐに解かった。
 視力が1.5もあった。当時の朝日新聞の飛行士官の不合格となるのが視力であった。埼玉県文書館に昭和25年の埼玉師範学校の同窓会名簿で陸軍航空士官に合格した10名の内、海軍へ1名、一名死去理由不明だった。全体として昭和18年9月の繰り上げ卒業者140名の内2割程度が昭和25年にまで生死不明だった。今の生命表からだとほとんどこの年代は生きている。

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226の日曜日 映画を見たい

2023年02月26日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
大方は二月にやりたい、したいことを終わってしまった。転居で家が狭いし、物価高で先行き不安もあって、交通費の掛かるところは排除し、シルバ-パスと歩行で用を済ます。今日は映画館の所で今上映中の映画を入場する気が無く眺めていた。さらに家に帰ってネット検索で見ると、昭和20年3月10日の映画があるようだ。見たい。この日に親族の家が燃え、行方不明者もあるようだが交流もなく詳細も解からない。
 3.10と3.11さらに1.17の日本の悲惨な日に自分の知り合いが亡くなっている。日本人の寿命の延びと映像等の進歩で思い出す記憶が伸びたようだ。しかし空白な時もあって、戦後の大混乱時に何が起きたか、記録と記憶の漏れがありそうだ。この時期は紙の質と量の不足で貴重書扱いで調べることに難儀している。その時期に生きていた人も75年経てばもう認知症と記憶の時期区分が不明で辻褄の合わない証言となることもある。
 そして今日は226事件の日で昨年だったが都立中央図書館へ行くとき麻布十番駅からの道の所の麻布賢崇寺に226事件の人たち22士の墓と慰霊碑があることを思い出し寺の中へ図書館の帰りに寄った。本堂の前に仏心会 の関係者以外はご遠慮下さいとあって、ネットで調べると慰霊の会合があるようだ。なぜ226事件が気になるかというと叔父の苗字が栗原ということで、そもそもこの寺院に墓があることは栗原安秀の父との縁があるようだ。
 戦後に226事件が陸軍統制派の台頭を許し、戦争に導いた原因と言われている。埼玉春日部市の栗原家は陸軍の栗原と交流が無く、叔父の経歴から無縁と思ったいたが、陸軍特別操縦1期生の試験で不合格となっていた。その後なぜか繰り上げ合格となり、埼玉師範学校で同時期の試験で陸軍と海軍の航空士官試験で両方合格していた人がいて、人気のある海軍へ行ったと思われる。(個人情報の関係で未確認・この人は特攻でなく戦死している)欠員の出た埼玉師範学校の陸軍から派遣されていた軍事教官の人に叔父が欠員補充で選抜されたと思われる。海軍に行ってしまい欠員させないメンツのため視力が良い事と栗原という苗字もあるかもしれない。埼玉県は熊谷で計画された救国埼玉青年挺身隊事件 も皇道派の拠点で栗原安秀も関与していた。埼玉師範学校の軍事教官はどんな理由でに欠員補充したのだろうか。納得がいかない。
 どうも栗原家の言い伝えでは陸軍特別操縦の試験に無断受験のように聞いている。同期生の同調圧力か又は試験に不合格になる計画があって、家族に心配かけないでいたかもしれない。出征時の記念写真の表情が招集令状が納得がいかないと言っているように思える。
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昭和20年9月の埼玉新聞

2023年02月19日 | 陸軍特別操縦見習士官1期
浦和の埼玉文書館の公開架のとことに、終戦間際の昭和18年からの埼玉新聞の縮刷版がある。何らかの理由があると思うが白紙の所もあって戦前は検閲、発行禁止もあって不思議ではない。戦後にも白紙の縮刷版があって、当時の埼玉の情勢が途切れて見えていた。戦後の始まりの昭和20年8月16日以降に女性の貞節という言葉がよく出ていた。埼玉新聞では9月の1面の下段の広告に女子事務員募集の広告があった。特殊慰安婦の募集なのに事務員募集という広告が新聞社のやましさを感じる。その広告の上段では日本女性の貞節を説いていた。
 昭和20年9月15日に埼玉県では1万人の米兵が進駐してきた。その中の46名が今の東武野田線南桜井駅付近に進駐した。

『ドキュメント 昭和二十年八月十五日―占領下の日本人』安田武、福島鋳郎著
この本を図書館で借り出し、特殊慰安婦R・A・Aの内容の内容を知った。
 昭和20年8月22日に米軍の慰安所に決まり、その後の様子が元従業員の証言が書かれている。大森海岸の小町園という。
 今は第一京浜国道が京浜急行の鈴ヶ森付近で交差し、大森海岸駅から平和島駅付近まで、国道の東側はマンション群となっているが当時は料亭のような建物があって、その中の一つが小町園のようだった。
 小町園の盛況から米軍相手の施設が次々と生まれたがまだ公式の区史等では記述できない部分が多いと感じる。同様にヤミ市というのもあったがこの方は少し文献が集まってきていると感じる。

 なぜこんなことが気になるかと言えば叔父の最後の日々を見ていた人からの証言で遺書等を残していたという。それでなぜ叔父のが写真だけが残っていて、後は伝聞しかないしそれも具体的ではない。さらに地域の記憶も消えていて、知覧を訪問した人から尋ねられても何も答えられなかった。何か戦後にあったと思われる。
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