舞鶴透図鐔 林又七
舞鶴透図鐔 無銘林又七
何て美しい構成なのであろうか。林又七(はやしまたしち)を代表する図の一つである。細い線描写がこの画面を決定付けていることは明白。下から上へと耳の丸みを大きくゆったりとさせ、首を画面左に向けている点は別として、翼の構成は微妙に左右の均衡を崩して動きに妙味ある変化を与えている。鉄色黒く光沢があり、ねっとりとした質感は写真ではわかり難いであろうが、この工が求めた本質でもある。
林家は加藤家に仕えて肥後に居住していた鉄砲鍛冶。又七は加藤家の改易によって浪人したが、その後肥後を治めた細川家に鐔工として仕えることとなる。平田家及びその門人である志水家、西垣家とは流れは異なるが、細川三斎の求める美空間の再現を目的としてこれら三家と歩調を同じくしながらも、精美なる地鉄の美しさを背景に作品を生み出してゆく。春日村に居住したことから春日派の呼称がある。初代又七、二代藤平(重光)、三代藤八、四代平蔵、五代又平・・・と続き、藤八の門人に神吉派が興され、その二代が深信、三代目が楽壽。
又七は鉄を吟味し、良質の鉄地を良く鍛えて素材とし、図柄構成も計算し尽くした上で製作する。それ故に作品数が西垣勘四郎に比較して少ないと、肥後金工研究家の伊藤満氏は論じている。この御家伝統を守り続けたものであろうか、確かに西垣や甚吾に比較して鉄地の仕上げは丁寧であり、神吉派にまでその風合いが及んでいる。もちろん神吉派のそれは江戸時代後期の嗜好も相乗してのものであろうが、又七の目指したところは受け継がれていると考えたい。
舞鶴透図鐔 無銘林又七
何て美しい構成なのであろうか。林又七(はやしまたしち)を代表する図の一つである。細い線描写がこの画面を決定付けていることは明白。下から上へと耳の丸みを大きくゆったりとさせ、首を画面左に向けている点は別として、翼の構成は微妙に左右の均衡を崩して動きに妙味ある変化を与えている。鉄色黒く光沢があり、ねっとりとした質感は写真ではわかり難いであろうが、この工が求めた本質でもある。
林家は加藤家に仕えて肥後に居住していた鉄砲鍛冶。又七は加藤家の改易によって浪人したが、その後肥後を治めた細川家に鐔工として仕えることとなる。平田家及びその門人である志水家、西垣家とは流れは異なるが、細川三斎の求める美空間の再現を目的としてこれら三家と歩調を同じくしながらも、精美なる地鉄の美しさを背景に作品を生み出してゆく。春日村に居住したことから春日派の呼称がある。初代又七、二代藤平(重光)、三代藤八、四代平蔵、五代又平・・・と続き、藤八の門人に神吉派が興され、その二代が深信、三代目が楽壽。
又七は鉄を吟味し、良質の鉄地を良く鍛えて素材とし、図柄構成も計算し尽くした上で製作する。それ故に作品数が西垣勘四郎に比較して少ないと、肥後金工研究家の伊藤満氏は論じている。この御家伝統を守り続けたものであろうか、確かに西垣や甚吾に比較して鉄地の仕上げは丁寧であり、神吉派にまでその風合いが及んでいる。もちろん神吉派のそれは江戸時代後期の嗜好も相乗してのものであろうが、又七の目指したところは受け継がれていると考えたい。