鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

熊谷敦盛図目貫 後藤廉乗

2011-03-31 | 目貫
熊谷敦盛図目貫 後藤廉乗


熊谷敦盛図目貫 無銘 後藤廉乗

 後藤宗家十代廉乗の目貫。宗乗作と同じ構図。
 敦盛十六歳。敦盛は笛の名手として知られ、熊谷直実も、夜半にその笛の音を耳にして涙している。ところが戦場において手柄を立てねば武士の存在感は無に等しい。沖の舟に逃れようとする敦盛を呼び返したばかりに我が手で首を取らねばならなくなってしまった現実。この戦いの後、熊谷直実は出家したという伝承もある。

一ノ谷熊谷敦盛図目貫 後藤宗乗 Sojo-Goto Menuki

2011-03-30 | 目貫
一ノ谷熊谷敦盛図目貫 後藤宗乗


一ノ谷熊谷敦盛図目貫 無銘 後藤宗乗

一たび京を離れた平家は、瀬戸内を西に逃れたものの何処においても叛旗が翻され、流離った末に屋島に辿り着き、仮の御所を築造した。もちろん平家の水軍が持つ舟戦の力は衰えておらず、京を目指して反撃の機会を窺っていた。一ノ谷は、背後を急峻な山で護られているため、京奪還を狙う平家にとっては重要な足掛かりの地。寿永三年初頭から盛んに兵を送り込み、城郭としての機能を高めていた。この追討を命じられたのが源範頼と義経。
 一ノ谷の合戦でも多くの場面が語り継がれている。最も有名で、涙を誘うのが、熊谷直実が、わが子ほどの年齢の若武者敦盛の首を取らねばならなかった出来事であろう。沖へ逃れようとする敦盛を呼び返して一騎打ちを挑んだ熊谷を、左右に描いてその対照的な様子を浮かび上がらせる手法は、目貫という金具に適していよう。
 この目貫は後藤宗家二代宗乗の作。精巧で緻密な彫刻表現を鑑賞してほしい。

宇治川合戦図鐔 後藤栄乗 Eijo-Goto Tsuba

2011-03-29 | 
宇治川合戦図鐔 後藤栄乗




宇治川合戦図鐔 無銘 後藤栄乗

 後藤宗家六代栄乗の鐔で、高綱と景季の先陣争いの様子と、京を追われて瀬田に向かう義仲に付き添っていた巴御前の奮戦する場面を、表裏に描き分けている。
 巴御前は女ながら武術に長じ、馬を巧みに操り、太刀薙刀を振り回して一人当千の活躍をした。この鐔では、雑兵を片手で掴み上げ、一方の手で兜を剥ぎ取った瞬間を描いている。
 義仲軍は宇治川を突き破られ、三条河原でも敗退、近江粟津へと敗走、ついに最期を悟った。巴も義仲についてゆくことを願うのだが、義仲は巴に最期まで生き延びることを命じる。

畠山重忠宇治川先陣図縁頭 Fuchigashira

2011-03-28 | 縁頭
畠山重忠宇治川先陣図縁頭


畠山重忠宇治川先陣図縁頭 無銘

 畠山重忠が自らの馬を担いで川を渡っている最中、その郎党の大串次郎が重忠の草摺にしがみついてきた。藻草に足を取られて流されそうになったもので、溺れかけている。そこで忠重は次郎を掴み上げると、そのまま対岸へと投げ渡したのである。すると、岸辺に転げ上がり、すっくと立った次郎は、なんと「歩にて先陣を為したのは武蔵の住人大串次郎なるぞ」と名乗ってしまったのだ。だが衆人環視の中の出来事。この調子の良い先陣に、どっと笑い声が上がったという。
 この縁頭では、担がれている馬は描かれていないが、鎧にしがみつく大串次郎の姿がある。

畠山重忠宇治川先陣図縁頭 利壽 清壽 Toshinaga・Kiyotoshi Fuchigashira

2011-03-26 | 縁頭
畠山重忠宇治川先陣図縁頭 利壽 清壽


畠山重忠宇治川先陣図縁頭 銘 利壽 清壽

 江戸中期の奈良派の名人利壽の縁と、これに添えて製作された江戸時代後期の東龍斎清壽の頭。この頭が利壽の縁に添えて製作された経緯が、頭の裏に金象嵌で記されている。
 宇治川渡河の先陣争いをしたのは景季と高綱だけではなかった。畠山重忠の勢も渡河を試みている。ところが、川の中ほどで自らの馬が鼻先を射られて怯み、動かなくなってしまった。そこで、重忠は馬から下りると逆に馬を担いで対岸を目指したのである。その豪胆さは東国武将の評価を高めたことは言うまでもない。□
 赤銅地高彫金銀素銅色絵。清壽は利壽の作風を下地として製作しているが、もちろん独創的な技法を組み込んでいる。両者の違いを鑑賞されたい。

宇治川先陣図鐔 Tsuba

2011-03-25 | 
宇治川先陣図鐔


宇治川先陣図鐔 無銘 浜野派

 分かりやすい図柄構成である。赤銅地を高彫にし、金銀素銅の色絵を施し、この場面、この瞬間を見事に再現している。宇治川の雪解け水の様子も巧み。迫力ある名場面の活写は、浜野派の得意とするところ。詳細は不明ながら、この鐔も浜野の系統であろう。
 先を越して行く高綱を睨みつける景季の表情が印象的。宇治橋とその下を流れる宇治川の様子など状況描写も迫力がある。

宇治川先陣図小柄 後藤光理 Mitsumasa-Goto Kozuka

2011-03-24 | 小柄
宇治川先陣図小柄 後藤光理


宇治川先陣図小柄 銘 後藤光理(花押)

 この先陣争いには因縁があった。両者が操る跨る馬はいずれも頼朝の愛馬であったが、高綱のイケヅキは荒馬で、頼朝さえも手に余しているほどであった。最初にこれに目を付けたのが景季であったが、頼朝からは許されず、代わりに与えられたのが磨墨。これも名馬。ところが高綱は執拗に頼朝に迫り、ついに頼朝から「この馬も盗まれてしまってはどうにもなるまいな」と諦め顔で言われ、その意を解した高綱はある夜見事に盗み出してイケヅキ我が物としたのである。それが故に景季には強い対抗心があり、宇治川渡河はどうしても自らが先頭を切らねばならなかったのだが…。策士としての高綱の姿が浮かび上がる一方、景季の一徹さも窺いとれる物語である。
 この小柄は、後藤宗家十二代光理の在銘作。

宇治川先陣図目貫 後藤程乗 Teijo-Goto Menuki

2011-03-23 | 目貫
宇治川先陣図目貫 後藤程乗


宇治川先陣図目貫 無銘 後藤程乗

 弓を口にして馬の腹帯を直す景季、その脇を走り行く高綱。宇治川渡河を競う早駆けは、この二人によって為された。だがこのとき、高綱が先に走り出した景季に対して馬の腹帯が弛んでいることを指摘したため、景季はこれに気をとられて高綱に先を越されることとなった。
 先陣争いは高綱の勝ちとはなったものの、源平盛衰記はその背景を伝えている。常の準備を疎かにしてはならぬという戒めがある。
 後藤宗家九代程乗の目貫で、緊迫の瞬間が後藤家らしい構成と彫法で表現されている。赤銅地容彫金銀色絵。
 この彫口を鑑賞してほしい。画一的にならざるを得ない後藤家ではあるが、名品である。

宇治川先陣図鐔 後藤 Goto Tsuba

2011-03-22 | 
宇治川先陣図鐔 後藤


宇治川先陣図鐔 無銘 後藤

 この宇治川合戦では、幾つかの物語が生まれている。最も有名なのが佐々木高綱と梶原景季の先陣争いであろう。先陣とは、その言葉通り、真っ先に敵陣目指して突き進む危険と隣合せの行動。統制がとれないことから禁止されているにも関わらず、最も目立つことから名を上げたい武士は早駆け先陣を競った。
 後藤家は、本来鐔は製作せず、目貫、小柄、笄を専らとしていたが、桃山時代の五代徳乗の頃から、ごくわずかではあるが鐔も製作するようになった。馬で競り合う高綱と景季の姿が活写されている。川中を進むのが高綱、弓をくわえているのが景季。

宇治川の義経図縁頭 浜野 Hamano Huchigashira

2011-03-19 | 縁頭
宇治川の義経図縁頭 浜野


宇治川の義経図縁頭 無銘 浜野派

 寿永三年一月、木曽義仲追討の命を受けた範頼軍は勢田に陣を張り、義経の軍勢は宇治川を前に陣を張った。義仲軍は、宇治橋の橋板を剥がし、川中には逆茂木を配して戦を有利に運ぼうとする。宇治橋は京都の入り口に当たり、攻防の要所であり、ここを取ることこそ京を取ること。かつて頼政が奈良へ逃れようとして橋板をはずし、平家追軍の足を止めようと試みた橋合戦も意味は同じ。
 義仲攻めは義経にとって初めての戦であり、これに勝って兄に認められることこそ、源氏の武士である自己の確立であると信じていたが…。
 この図のように、馬上で采配を振る義経の姿が描かれることが多い。宇治の川面と橋を縁に描き、この場面の説明をしている。

忠度和歌図目貫 Menuki

2011-03-18 | 目貫
忠度和歌図目貫


忠度和歌図目貫 無銘

頼朝が東国で武力を結集している頃、木曽義仲は北信濃、越後、越中、加賀と攻め進んで京を見下ろす比叡山に布陣。その勢いに圧された平家は幼い安徳天皇を奉って都を離れた。寿永二年七月のことである。
装剣具において平家都落ちの場面は比較的少ない。その中で語られることの多いのは、和歌に長じていた平忠度(ただのり)の行動。
忠度は清盛の弟。この頃、歌人の藤原俊成が『勅撰和歌集』を編んでいた。これに自らの和歌の載録を願うため、都落ちの最中、淀の辺りで引き返し、闇に紛れるように俊成邸を訪れたもの。
この目貫は、俊成にみずからの和歌集の巻物を手渡す場面。和歌を書き記した短冊を弓矢に添えて手渡す構成もある。弓矢に和歌のみで忠度留守模様も間々みられる。哀れ、都落ちの場面である。
 この後、義仲による京の支配があり、頼朝は東国勢を結集して西を睨んでいる。そして、武家政治による安定を意図する頼朝とは意識を異にした義仲は追討される立場となる。

黄瀬川対面図鐔 Tsuba

2011-03-17 | 
黄瀬川対面図鐔


黄瀬川対面図鐔 無銘

 治承四年十月、東国の武士を団結させた頼朝は甲斐の源氏勢をも合流させ、西からの平家軍を迎え撃つに適した地、伊豆半島の付け根に位置する黄瀬川に陣を敷いた。その西、富士川に軍を進め、平家勢とは川を挟んで対峙したものの、平家勢は水鳥の群れ飛ぶ音に驚いて逃げ去ったことは余りにも有名(富士川の戦い)。
 この直後に奥州平泉から駆けつけたのが義経。黄瀬川の陣にて両者が始めて会う場面を描いたのがこの鐔。
 平家への仇討ち、そして源氏の再興を願う義経に対し、仇討ちよりもむしろ武家政治の確立を願う頼朝とは、武家意識も違っていたのだが、義経にとっては血を分けた兄であり、両者は深い絆で結ばれていると信じていた。

石橋山図鐔 Tsuba

2011-03-16 | 
石橋山図鐔


石橋山図鐔 無銘

 赤銅魚子地高彫金銀素銅色絵の手法で表現した鐔。赤銅の色合いは夜の様子を表現するに好適。
頼朝に迫った追手である梶原景時は、このとき平家に与していた武将であったが、後に頼朝の下で、武家の政治のため、その機構を確立してゆこうとする。義経とは武家としての意識を異にしており、義経よりはるかに頼朝に近い考え方を保持していた。
 石橋山で敗戦、そして伊豆山中から逃れた頼朝は舟で上総国へ渡り、以降は東国の武将を結集させ、次第に西へとその矛先を向けてゆく。

石橋山図鐔 藻柄子入道宗典 Soten Tsuba

2011-03-15 | 
石橋山図鐔 藻柄子入道宗典


石橋山図鐔 銘 藻柄子入道宗典製

 石橋山に挙兵した頼朝勢であったが援軍はない。平家勢の大庭軍の手を逃れるべく闇夜の伊豆山中を経、真鶴辺りに出て房総へと海路を求める手はずを整えたが、追手の松明はいたるところに揺れており、しかもその包囲網は次第に狭まっている。疲労も極まっている。頼朝は大きな木の洞に身を潜めて朝を待つこととしたが…。
 その中、松明を掲げた数人の武将が、頼朝の隠れている洞の近くに迫った。頼朝は太刀に手を掛けた。するとその一人が、頼朝の隠れている洞を覗きこむようにした。目が合った。ところが男はそのまま振り返ると、いやおらぬ。足跡は向こうへ続いているぞ、急げ。と仲間を追い立てるように言い放った。この男こそ、後に活躍する梶原景時である。
 鉄地肉彫金銀素銅象嵌地透。 

頼朝挙兵図鐔 藻柄子入道宗典 Soten Tsuba

2011-03-11 | 
頼朝挙兵図鐔 藻柄子入道宗典


頼朝挙兵図鐔 銘 藻柄子入道宗典製

 頼政の挙兵が失敗に終えた知らせが伊豆に伝えられると、頼朝は挙兵の決断を下した。平家の先鋒が東国へ向かって動き始めているという事実もあった。頼朝は、三島神社の大祭の夜。伊豆の目代山木兼隆を倒してまずは伊豆を取ることを目標とした。
 頼朝の後ろ盾である北条氏の館で知らせを待つ頼朝の様子を描いたのがこの鐔。臨場感に溢れた構図となっている。赤銅地肉彫地透金銀素銅色絵。
頼朝には手勢が少なく、応戦する平家勢は次第に増えている。明け方ようやく山木邸に火が上がって兼隆の首を取った知らせが届いたが、大庭軍が迫っている。頼朝はすぐさま関東に通じる伊豆東端の石橋山に移り、三浦氏などの援軍を待った。だが、豪雨によって酒匂川が増水して三浦軍は合流できず、頼朝勢は孤立し、伊豆山中を逃避行する結果となった。