鐔鑑賞記 by Zenzai

鍔や小柄など刀装小道具の作風・デザインを鑑賞記録

予譲図縁頭 Fuchigashira

2013-03-26 | 縁頭
予譲図縁頭


予譲図縁頭

 予譲最期の場面を劇的な構成で表現した作。赤銅魚子地高彫金銀色絵。
 以下に『刀装具の登場人物』から予譲の生き様を紹介します。

数百年もの間、黄河の中流域に栄えた晋国は、紀元前五世紀頃に至ると皇帝の力も衰えて国内は頻りに乱れ、天下奪取の意志を秘めた重臣氏族が各地に起ち、中でも智伯、趙、范、中行といった有力氏族が頭角を現して晋の国内はさらに激動の様相を強めていった。
 ここに一人の男がいた。名を予譲(よじょう)。動乱の世であったが故、自らを国士として高く評価してくれる主を求めるために范氏や中行氏など有力氏族を渡り歩くが、その能力を充分に認めてくれる者はなかなか現れなかった。そこで晋国中でも最も悪名の高い智伯の元へと向かった。すると智伯は、予譲に秘められた能力を察知して高く評価し、予譲もまた主に報いるべく力を尽くしてその要求に応えたのであった。
 ところがその後、趙襄子軍攻撃のために兵を挙げた智伯軍は、同盟を結んでいた韓と魏に裏切られて壊滅。智伯は斬首、その領地は趙、韓、魏に三分割されるに至り、この機に乗じて智伯の家臣の多くは趙襄子に下ったのである。
だが予譲は、かつて自らを認めなかった有力氏族の軍に下ることを潔しとしなかった。智伯への恩に報いるべく敢えて再び浪人の道を選び、「士は己を知る者の為に死す」の決意を秘め、趙襄子暗殺の機会を得るべく野の徒となったのである。
 そこで予譲は、まず名前を変え、下賤な囚人として趙襄子軍の牢に入り、宮中の汚物処理をする最下の労役を受ける身となった。そして数か月の時を送り、ついに行動の好機を見出したのであったが…。
 その日、趙襄子は胸騒ぎに襲われていた。不審に思った趙襄子は常にも増して警戒していたところ、果たして懐中に短剣を秘めて隠れる予譲が発見されたのである。すぐさま従者が予譲を殺そうとするが、趙襄子はこれを止め、すでに智伯という主を失ってさえ、かつての主への恩義を果たすべくこうして忍び来るとは誠に忠孝心の厚い人物であろうと、逆に褒め讃え、以後こうして会うこともないであろうが、もし万が一にお前が私を狙って再び出会った時は、どちらかが死ぬ時であろうと、言い渡し、この事件を戒めとして予譲を解き放したのである。
 しかし予譲にとっては一度捨てた命。初心を貫くという固い信念は衰えず、再び野に下ってとなり、顔を爛れさせて人相を変えたばかりか、喉に炭火を投じて声をつぶすなど、尋常ならざる行為を重ねて姿を変え、さらに趙襄子暗殺の決意を強くしたのであった。
 その後、再び予譲が趙襄子に出会う時が訪れた。この日、予譲は趙襄子の軍馬の行く手を先回りして橋の下に潜み、一行が通りかかるのを待っていた。ところが趙襄子が橋に差し掛かったとき、俄かに馬が怯えて嘶いた。さては刺客かと辺りを探ったところ、短刀を手にした予譲が姿を現したのである。だが多勢に無勢、予譲は刃を向けることもかなわず捕縛されてしまった。
 趙襄子は、二度も自らを狙った予譲を前に、かつて予譲が仕えた范や中行などの氏族を滅ぼした智伯であるにもかかわらず、なぜこれほどまでに忠義を尽くすのかと詰問すると、地に押さえつけられていた予譲は、自らの行動原理を口にしたのであった。
かつて范氏や中行氏に仕えたとは言え、いずれにおいても冷遇され、自らを国士として認めたのは智伯氏のみ。もし范氏や中行氏に対しても智伯氏と同様に義を感じるなら、それこそ内に二心を抱くものであり、主君に仕える者としては恥ずべきこと。かつての同輩が、趙襄子を殺すなら、その臣下の礼をとりながら隙をみて命を狙うが易かろうと忠告したが、これとても二心を抱いて仕えること。真に己を認めた智伯氏に報いずしてどうして生き続けることができようか。
 予譲の胸の内に秘められた忠義の心を悟った趙襄子であったが、群臣の見守る中でとらえられた以上、そして最初の暗殺が失敗した際の言葉通り助けることは叶わない状況。
予譲もまた助命を求めず、最後の望みにと、趙襄子の着衣を借り受けて短刀で切り裂き、「これを自らが為し得なかった智伯への仇討である」と叫ぶや、返す手で自らの首を掻き切って見事に果てたのである。これこそ主に二心を抱かぬ男の最期の主張であった。

予譲図小柄 Kozuka

2013-03-25 | 小柄
予譲図小柄


予譲図小柄

「士は己を知る者の為に死す」の言葉を残した、紀元前四百五十頃の武将予譲は、現代からすればあまりにも狂気に満ちた人物。自らを認めてくれた主の復讐を誓い、死ぬことを厭わなかったという。
 この小柄の図は、橋の下で仇敵を待ち伏せる予譲と、これに気付いた敵将の様子といった場面か。赤銅地を彫口深く高彫にし、金銀の色絵を濃密に施している。

養由基図鐔 Tsuba

2013-03-23 | 
養由基図鐔


養由基図鐔 

 養由基の馬上から天空を狙う姿を描いた鐔。真鍮地を鋤下彫と高彫を組み合わせて立体的にし、金銀素銅の色絵を施し、強弱変化のある毛彫をも加えている。

養由基図鐔に合わせて《鐔Tsuba装剣小道具の世界 バックナンバーから》を更新しましたので参考にご覧ください。

養由基図縁頭 弘親 Hirochika Fuchigashira

2013-03-22 | 縁頭
養由基図縁頭 弘親


養由基図縁頭 銘 弘親

 百発百中の語源ともなっている養由基(ようゆうき)の弓の術を示している場面。養由基は天空高く飛翔する渡り鳥を狙って外したことがなく、木陰に隠れた猿をも確実に射抜いたという。天上の雁を頭に描き、それを狙う養由基を縁に描き分けている。朧銀地高彫金銀赤銅素銅色絵。水戸金工らしい精巧な彫刻、その背景にある確かな構成も見どころ。
 かつて『銀座情報』に連載した『刀装具の登場人物』において紹介したことがあるので、参考に再度掲載する。


 弓は古くから実戦武器の代表格として重用され、操作上からは武術としても完成をみている。大陸において馬上で用いられた半弓とも呼ばれる小型の弓は、騎馬民族によって機能性が高められ、鎌倉時代末期の元軍襲来の際には、日本軍がこれによって翻弄されたことは良く知られている。
 騎馬民族が用いた半弓に対して和弓は、『保元物語』に記されている源為朝や、『平家物語』では那須与一の扇の的で知られるように、棹が大きく弦も強く張って迫力がある。半弓が我が国で主流とならなかった理由は命中率の問題であろう。弩と呼ばれたボーガンのような台座付きの小型の弓は別として、半弓は命中率を犠牲にする代わりに操作性の良さが追求されたものと推定される。韃靼人の狩の図が古くから文様化されて武具の装飾ともされているように、これこそ走る馬から野生の動物を射る騎馬民族の姿である。
 我が国では、弓が源義朝、義家、頼政などの活躍譚に登場し、武門の、殊に源氏の象徴のように捉えられている。その理由は鬼退治伝説で知られた源頼光の夢見にあった。古代中国の楚に仕えた弓の名人養由基の娘椒花女が頼光の夢に現われ、父が用いた弓雷上動と、水破、兵破と呼ばれる矢を授けたというのである。
 因みに、これら霊弓と霊矢は頼政に伝わり、宮中を不安に陥れた鵺を射落としたのがこれであるとも伝えられている。
 さて、養由基が生きたのは動乱の春秋戦国時代(紀元前五六〇年頃)。幾多の小国家が権力闘争を繰り返し、後に秦始皇帝によって漸く統一をみるのだが、その間の数百年は小国家間での戦と謀略の連続であり、数多の武将が知と武を磨いたものの、その姿を流星の如く光らせ戦さの歴史の中に消えて行ったことも良く知られている。養由基もその一人ではあるが、我が国では特に優れた弓術に視点が置かれ、平安時代から江戸時代に至るまで武門の教学書にも記されて手本とされた点においては、まさに恒星の如く輝き続ける数少ない古代の武将である。
 養由基の伝説は数多遺されている。百発百中は現代でも良く用いられる語だが、天高く雲間に飛翔する鳥を一たび狙い定めては弓矢で射落とさぬことなく、また、風に揺れ動く柳の葉を百歩離れて射通すに百に一の外れもなかった養由基の技が起こりである。古代中国の弓具が小型のものであれば、その命中率の高さも驚愕に値しよう。
 楚の王に仕えていた時のことである。狩に出かけた王が猿を射ようとしたところ、逃げ回って狙い定まらず、射た矢は猿に弄ばれるほどであった。憤慨した王は猿を射よと命ずる。養由基は獲物を見据え、静かに矢を番えると、それまで激しく動き回っていた猿たちは急に脅えだし、木の陰に身を潜めるものあり、木に抱きついて震えるものもあった。だが養由基は、太い木の陰に身を隠した猿さえも射損ずることがなかったという。
 さらに、木に掛けた鎧七領を重ねて射通すという荒業を、同様の強弓の使い手と競い合ったという伝説もある。これも我が国に場を移し、奥州に源氏の存在を知らしめた八幡太郎義家の活躍譚として再現されている(一矢三鎧図)。
 勿来関図は、場面こそ異なるが、任地陸奥国へ向かう義家の、鎧を身に纏って弓を手挟む雄々しい姿を捉えたもの。己が身に散り掛かる桜の花を眺めて叙情味溢れる歌を遺した義家は、雅な心を併せ持つ人物として広く好まれ、画題に採られることも多いが、弓の使い手としてもよく知られている。
 写真の打越弘親の縁頭は、このように我が国に強く影響を及ぼした養由基を題に採り、天上高く雲間に飛翔する獲物に狙いを定めている厳しい姿を捉えた作。色合い黒い深味のある朧銀地を磨地に仕上げ、正確な構成と精密な高彫で縁に養由基を、頭には雁を彫り出し、金銀素銅の色絵を施し、各部に緻密な鏨を切り加えている。引き締まった表情が画面に緊張感を与えている。

太公望図鐔 一滴斎 Tsuba

2013-03-21 | 
太公望図鐔 一滴斎


太公望図鐔 銘 奥州会津藩一滴斎

 鉄地一色になる高彫の作品。太公望を主題とし、森の背後に文王の一団が近づく様子を描いている。周囲を騒がす者に動じないという姿勢はこの鐔でも同様に題意として採られていると言えよう。常にみられる多くの同図に比して若く描かれている点は作者の想い入れであろうか。裏面には呂尚の許へと歩む文王の行列を描き、人との交わりを捨てたという呂尚の強い意思のありようをも表現している。
 一滴斎の号を持つ作者については詳らかではないが、その下に記されている花押のような崩し文字は「盛寿」と読むのではなかろうか。

太公望図鐔 水戸金工 Tsuba

2013-03-19 | 
太公望図鐔


太公望図鐔 無銘水戸金工

 正確な構成と精密な彫り口で高彫に表現するを得意としたのが水戸金工。もちろん製作の時代は宗典に比較して下がり、この間に彫刻手法や技法の発展があることから、宗典とは作風の上で比較できないが、顔に刻まれている皺の表情などからも、水戸金工の技術の高さは理解できよう。画題の意味が理解できなくても充分に楽しめる作品である。
 釣り人に貴人の組み合わせで太公望の図が完成するのだが、この鐔のように太公望のみで文王を描かない例も多い。知的で何物にも左右されないという強い精神力が示された作品である。水戸金工は、その背景にある文化により、古典に題を得た作品が多い。

 パソコンを替えたという話をしたが、このブログの編集画面の一部が見えていない状態。背景の色が再現されないから、一部の色文字が見えていないのだ。クリックする位置を手探りで探しながら処理している。写真のアップも途中で止まってしまうし、最悪。

太公望図鐔 Soheishi Tsuba

2013-03-18 | 
太公望図鐔 無銘藻柄子


太公望図鐔 無銘藻柄子

 日本の風俗や風習に題を得た作品を紹介してきたが、唐突に古代中国に目を転じる。
 よく題にとられるのが、釣りをしている人物とそれを見守る貴人の図。釣りをしているのが古代中国でも殊に時代の上がる紀元前一千年以上前の武人呂尚、わが国では太公望と呼ばれている人物、貴人が文王である。伝説的な面が強く、武人とは言うも軍師、軍略に長けた人物で、野にあって自由な生活をしていたところへ、狩りに来た文王に見いだされるというもの。文王の父が待ち望んでいた人物という意味で「太公望」と呼ばれたという。
 藻柄子宗典は和漢の歴史人物を本作のような鉄地肉彫地透に金銀の象嵌を施して奥行と立体感、さらには画面に広がりを持たせた構成を得意とした。合戦図などでは人物が小さく描かれることが多いのだが、ここでは主題を明確にし、人物の表情の描写にも気配りされている。

パソコンを変えてWin-8にしたところ、入らないソフトが頗る多く、DLもできないソフトが多く、手こずっています。何がいけないのかも分からない。とにかく、簡単に動きそうもないので、ブログも少し間があきそうです。少しずつ更新してゆきます。Win-8は近年最悪の気配。

大仏図目貫 Menuki

2013-03-14 | 目貫
大仏図目貫


大仏図目貫

 この図が何を意味しているのか、最初は良く分からなかった。表は大仏様であろうかと思うのだが、裏目貫に描かれている大岩を抱き上げようとしている旅人らしき人物が問題。そんなある日、鎌倉の長谷を歩いていたところ、力石と呼ばれる岩があることを知った。御霊神社と呼ばれる、鎌倉では歴史の古い鎌倉権五郎神社の境内に置かれている玉石で、力自慢がこれを持ち上げて競ったものと言われている。もう一つ、源義経を祀る白旗神社(鎌倉の隣の藤沢市内)に、弁慶の力石がある。これも力自慢が持ち上げたというが、また、この石に触れると病気にならないとも言われている。この目貫に描かれているのは力石に他ならず、まさに旅人がこの石に挑んでいる様子が描かれており、風俗として頗る面白い。大山、江ノ島、鎌倉といった観光ライン上の名物であったのだろう。

江ノ島詣図縁頭 Fuchigashira

2013-03-13 | 縁頭
江ノ島詣図縁頭


江ノ島詣図縁頭

 平和な江戸時代後期には、お伊勢参りなどで知られるように観光旅行が流行している。江戸の近隣の旅では、落語にもあるように、大山詣でが人気であった。大山、江ノ島を廻り、川崎で遊んで帰る。その中で江ノ島は重要な位置付けにあった。もちろん大山と江ノ島は修験道で関わりがあり、急峻な崖に囲まれた霊場という意識からも訪れる人々は多かった。その様子が描かれた縁頭である。現在では橋が架けられて歩いて渡れるが、江戸時代にはここに描かれているように馬などを使って引き潮の際に浅瀬を通ったのであろう。馬上の旅人の姿が、まさに観光という旅のありようを鮮明にしている。

鴨川畔図鐔 細野政守 Masamori Tsuba

2013-03-12 | 
鴨川畔図鐔 細野政守


鴨川畔図鐔 銘 細野惣左衛門政守(花押)

 鴨川の河原において繰り広げられた遊興の場。川辺に設けられた台座で涼む人々、物売りがあり、食べ物を商っているのであろう団扇で火加減を調整している様子、矢場があり、橋の上からそれらを眺めている人々がいる。裏面には万歳らしきを演じている者、煙管を使う者、早く料理を持って来いと催促する者などなどが描かれている。申し訳ない、裏の写真を紛失してしまって紹介できない。このような時代の一場面を記録している、まさにスナップ写真のような魅力、面白さを再確認してほしい。

三条大橋図縁頭 一宮長義 

2013-03-11 | 縁頭
三条大橋図縁頭 一宮長義


三条大橋図縁頭 銘 一宮見龍子長義(花押)

 東海道を京に上り、最後の難所でもある東山を越えて坂を降った粟田口の辺り。頭には多くの旅人が描かれている。縁は三条大橋であろう、京の賑わいが巧みに表現されている。長義は人物表現に長けた長常の門人。鉄地毛彫平象嵌。

筏図縁頭 細野政守 Masamori Fuchigashira

2013-03-09 | 縁頭
筏図縁頭 細野政守


筏図縁頭 銘 細野惣左衛門政守(花押)

 同じ政守の作。桂川に取材したものであろうか、筏によって森林の木を下流に運ぶのは京都では桂川が有名。その上流の嵐山辺りの流れの呼称は大堰川、流れを降る筏は京の雅とは趣を異にする作業ながら独特の風情を漂わせ、京人にとっての人気の観光スポットでもあった。そのような景色を背景に釣り人。いかにものんびりとした景色が平和な世情を映し出している。四分一地毛彫平象嵌。

農村風景図鐔 細野政守 Masamori Tsuba

2013-03-08 | 
農村風景図鐔 細野政守


農村風景図鐔 銘 細野惣左衛門政守(花押)

 遠くに寺院の塔が見える農村を描いた鐔。京都近辺に取材したものであろう、表は種まき、裏は収穫の頃の風景だ。細野政守はこのような市井の風景をパノラマ風に表現するを得意とした。描かれている人物をそれぞれ追ってみると、小さく描かれていることと毛彫表現である点で表情までは分からないが、仕草や動きが一様でなく頗る面白い。四分一地毛彫金銀素銅平象嵌。

地引網漁図小柄 後藤程乗 Teijo Kozuka

2013-03-07 | 小柄
地引網漁図小柄 後藤程乗


地引網漁図小柄 無銘後藤程乗

 浜辺の風景と言えば地引網。後藤程乗作と極められた小柄。横長の画面を活かし、海上の作業、浜辺の人の動き、さらには漁村の家並みなどを一つの画面に採り入れている。説明的ではあるが頗る面白い。網の中では魚介類が飛び跳ねている。そんな様子も描いているのである。銀魚子地高彫金色絵。金の色味を微妙に違えている。江戸時代前期のごくごく当たり前の景色を捉えて絵画表現しているわけだが、この時代、町彫り金工はまだ活躍しているわけではなく、少し後に京都の細野惣左衛門政守が市井の人物風景を題に採り、さらに後に江戸の奈良派が台頭、さらに後に人物描写を得意とした京都の一宮長常が登場する。程乗は、長常のように特定の人物に焦点を当てているわけではないが、市井に生きる人々を題材に得ているという点で、歴史的な面から金家などに連なる意識を持つ金工の一人であったと言えよう。

塩屋図小柄・縁頭 Koduka

2013-03-06 | 小柄
塩屋図小柄・縁頭


塩屋図小柄・縁頭

 「藻塩焼く」とは夏の季語であるそうだ。だが、この小柄に描かれている様子を眺めると、冬の作業に思われる。もちろん夏の季語だから夏にしか作業しなかったとは言えない。人物は長袖、塩屋の屋根に描かれているのは雪であろう。