とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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ミャンマー大冒険(21)

2005年12月11日 13時48分04秒 | 旅(海外・国内)
日本の映画館で売られているような高い価格のコカコーラに憤慨しているところへ夕ご飯が届けられてきた。
駅へ到着するタイミングを見計らって食堂車で調理してくれた焼きそばだった。
「美味しそう」
と思わず呟いてしまうくらい腹が減っていた。
せっかくだけど、ともかく食べるのは後回し。
「コーラもう一本いる?」
と、Tさんの通訳によると件のガキが訊いているらしいが、要るわけがない。甘ったれてもらっては困る。私はお前さんのカモではないのだ。
その他にもたくさんの物売りが来ていたので、とりあえず冷やかしてみることに決めた。
なんとなく車内から楽しむマーケットという感じだ。
「これ美味しそうですね」
とTさんがニコニコしながら指さしたのはマンゴスチンだった。

マンゴスチン。
日本では「高級果物」で通っているこの南方の果物は、さすがにミャンマーへ来ると地元栽培だから驚くように安いのだ。
ある売り子の女性は頭に乗せた皿にマンゴスチンの束を山のように盛ってきている。
また別の売り子は両手にマンゴスチンの束をぶら下げてやって来ている。
Tさんがミャンマー語で売り子たちと交渉を繰り返している。
「これはちょっと硬いですね......あ、これは柔らかい」
と品定め。
実に楽しい。
思えば日本のマーケットではいつの間にかまともな品定めの習慣が無くなってしまったような気がする。
カゴに盛ったみかんを手に取り熟れ具合を確認したり、スイカを叩いて音をで中身を確認したり、ということがなくなってしまったように感じられるのだ。
ただ、産地と製産日(収穫日ではない)を確認し、見栄えの良いだけのラップやプラスチック容器でパックされた商品をレジで購入するだけになったしまっていたのだった。
ミャンマーの列車からの「お買い物」はそれとは正反対。
日本も少しは昔の良さを認めては如何かと思ったのだった。
で、散々品定めをしてTさんは一束のマンゴスチンを買い求めた。
「一緒に食べましょうね」ということでTさんの奢りだった。

そうこうするうちに遠くで汽笛が聞えた。
列車がゆっくりと動き出し、売り子たちも笑顔で列車から離れて行く。一人を除いて。
「コーラいらない?」
いらん、ちゅうのに。
しつこい少年もニコニコしているので腹立ちもなくなってきた。反対に愉快になってきたのだ。
それにしても、列車にしがみついていては危険ではないか。
「........!」
少年は窓から私たちをのぞき込んで何かを叫ぶと、ホームの端で列車から飛び降りてこちらへ向かって手を振った。
「石山さんはきれいなオネエサンですね、って言ってましたよ」
とTさんは笑いながら言った。
ませたガキであった。

タウングーは想像していたよりも大きな街であった。
弁当の焼きそばを食べながら車窓から眺める夜の景色でも、沿線に電話局らしき通信アンテナが立ち、ラジオの放送アンテナが立ち、学校やオフィスらしい大きな建物も数多く見られた。
「私の友達の一人がここに住んでいるんです」
Tさんの大学時代の友達が、結婚してここタウングーに住んでいるのだという。
いまにもその友達を訪ねたい、という表情のTさんだった。
弁当を食べ終り、空き容器をどうしようかと考えた。
「さっき、シャンの男性が弁当箱を窓から捨てたんでビックリしたんですよ」
と私。
「ハハハ、ミャンマーじゃ普通なんですよ」
「え!普通なんですか」
「日本じゃだめでしょうけどね」
Tさんは日本人の習慣を良く知っているようだった。
だからと言ってはなんだが、その日本人は清潔好きという印象をワザと壊してやろうとイタズラ心が沸き起こってしまったのだ。
「捨ててもいいですか?」
と私はTさんに訊いた。
「え?」
「窓から、この弁当箱。捨てても良いですか?」
「....いいですよ」
Tさんは笑いを噛みしめながら言った。
そこで私は躊躇しながらも「えいっ!」と弁当箱を窓から放り捨てると、Tさんも「えいっ!」と放り捨てた。
石山さんが「いいんすか」と言いながらお菓子のゴミクズなどを捨てたので、一蓮托生である。
この後、歓談しながらミカンを食べるようにマンゴスチンを食べたのだが、残念ながら半分以上が熟しておらず、これらも「残念ですね」「悔しいです」などといいながら窓から放り投げたのは言うまでもない。

この日本人にあるまじき行為をお釈迦様が見逃すはずはなかった。
この後、まったく予想外の形で、私たちはお釈迦様のお叱りを受けることになるのだった。
「いやそんな迷信じみたこと、まさか、アホかいな」
と言われてしまうことかも知れないが、まさに罰が当たったとしか言いようのない出来事が私たちを待ちかまえていたのだった。
そんなことも知らずに、「このマンゴスチンもダメ。えいっ!」「この空き缶もえいっ!」と陽気に楽しくゴミを窓外に放り投げていた私たちであった。

つづく

驕れる白人と闘うための日本近代史

2005年12月10日 21時57分07秒 | 書評
中東以東、世界史上アジアの国々の中で植民地にならななかった国はタイと日本の2カ国しかない。
中国は植民地にはならなかったが、主要な都市には治外法権の外国人の街が作られ、経済は完膚無きまで外国人に握られた。
私たちとタイとが他国に侵略されなかった理由はいったいなにか。
それをつらつらと考えてみると次のようなことが挙げられる。
まずタイは西欧列強が最もその影響力をアジアに及ぼしていたとき、現チャクリ王朝が誕生したことが幸いした。
現在のプミポン国王に見られるように、チャクリ王朝の歴代王様は時代を見る目が機敏で、かつ強力な指導力を持っていた。
しかもその指導力はロシア帝国のごとき一方的な専制主義ではなく、国民に愛される半専制君主制であり、それがためプミポン国王若かりし日に立憲君主制国家へと速やかに移行することができたのだ。

「われわれがアメリカやイギリスの宣教師たちと交際しているのは、科学や芸術についての知識を欲しているからであって...(中略).....わが国は、あなた方の考えているような(未開野蛮の)国ではない。なぜならば、われわれは古来、道理と礼節をわきまえているからである。(中略)ユダヤ人の宗教などはしょせん比ぶべくもないのである」(石井米雄著 タイ仏教入門 めこん刊より)
というのは、1833年シンガポール・コロニクル紙に掲載されたモンクット親王のお言葉である。
モンクット親王とは映画やミュージカルにもなった「私と王様」のモデル、後のラーマ4世王のことだ。
このような凛とした指導者をいただいたタイ王国も列強の植民地になることは免れたものの、領土の一部は切り取られるという屈辱は味わっている。
「メコン川以北を抛棄したら、軍事行動を控えてやる」というフランスの脅しに屈して手放した領土が現在のラオスであり、イスラム教徒の人口が多く、度々テロが発生している南部の一部はイギリスに盗られたものを、日本軍が力づくで取りもどしてタイにひっつけた地域なのだ。

では、なぜ私たちの日本が植民地にならずに済んだのか。
その原因は、まず19世紀の半ばは欧州、米国ともに大きな紛争問題を抱えていたことが挙げられる。
フランスとプロシャ(ドイツ)は一触即発の状態にあり、米国にはリンカーン大統領が出現し、今にも南北戦争が始まらんとしていた時なのだ。
そして大英帝国もインドを手中に収め、アヘン戦争で中国を破壊しはしたものの、前線が延びきって、大艦隊を日本まで送るだけの余裕を失いつつあった。
しかし、これらの国際的要素よりも、もっと大きな原因が日本国内に存在していてことを、学校は教えないし、テレビも新聞も伝えないのだ。
1854年(嘉永6年)にぺーリー提督率いるアメリカ東洋艦隊が浦賀沖に現れた時点で、日本国民の識字率を上回る欧米列強の国はまったくなかった。
この嘉永6年の時点で全国の学校にあたる寺子屋は1万件以上。特別な理由がない限り、ほとんどの国民が仮名と簡単な漢字を読むことができたのだ。
そして列強より進んだ資本主義経済体制があった。
学校教育では明治維新以前の日本社会は「封建主義」と言われているが、実際は高度な資本主義社会で、すでに株式相場や先物取引、飛脚に代表される通信事業に国道整備の宿場制が驚くほどに機能していたのだ。
為替制度も完璧で、三井住友銀行、UFJ銀行の前身はすでに「両替商」という名称で、現在とほぼ似たりよったりの事業を行っていた。
そこへ「我らは文明。我らこそ神の名の下に高度な文明(キリスト教を基盤とする資本主義)を伝えるミショナリー」とやって来た欧米列強は異文化にしてすでに近代社会へ突入していた日本という謎に満ちた未知の国にであったのだ。
武力が日本を救ったのでもなく、運が日本を救ったものでもなかったのだ。
つまり高度な教育体制と、経済システムが日本を無意識のうちに植民地化の陰謀から救ったのだった。

「日本」といえば、欧米では未だに「フジヤマ、ゲイシャにニンジャにスモウにスシ、トウフ」といったイメージが強いようだ。
これはひとえに日本人が自分の国を宣伝しないこことにあると思えるのだが、たとえば海外に住む、その日本人自身が満足な歴史教育をなされておらず、母国に対する知識に乏しいため外国人に十分な説明をすることができないことに原因があるのではないかと思われてならない。

「驕れる白人と闘うための日本近代史」は、このような海外で活躍する日本人ばかりでなく、全ての日本人が目を通すべき書籍といえるのだ。
著者の松原久子さんは長年ドイツで生活し、現在はアメリカに居を構える正統日本人の論客だ。
日本に対する誤ったイメージを得意のドイツ語と英語を駆使し、相手を説き伏せて行くことのできる数少ない日本人なのだ。
本書を読むことで、なぜ日本が突如世界史に登場し、そのまま列強の仲間入りをし、戦争に負けはしたがそのまま現在に至ったかを、読者は客観的かつ具体的に知ることができるだろう。

~「驕れる白人と闘うための日本近代史」松原久子著(原著はドイツ語) 田中敏訳 文藝春秋社刊~

弁護士

2005年12月09日 22時43分09秒 | 社会
子どもの頃の私は「弁護士」という仕事は正義の味方だと思っていた。
これは私に名前をつけてくださったのが、大阪で弁護士を営むK先生であったことが影響をしている。
K先生は当時、大阪の大手有名企業のいくつかの顧問を務めておられ、大阪弁護士会でもとても地位の高い方であったと記憶する。
季節ごとに母に連れられて堂島にあった先生のオフィスを訪れると、着物姿の先生が執務室でどっしりと腰を落ち着け、私を自分の孫のように嬉しそうに迎え入れてくれたものだった。
その姿は今思えばウヨクの親玉ような迫力があったが、その時の私には「偉い弁護士のおじいちゃん」という印象の優しいお爺さんだった。
先生は東京帝大の学生時代、岸信介元首相と同窓で友人関係であったことから、岸元首相の名前を勝手にかどうかわからないが頂戴し、私の名前を考案してくださったのだ。(私の実名には「信」の字が使われている)
それだけに、凄い先生、正論派、だから弁護士は偉い。という固定観念が私にはあったのである。
この観念は先生が亡くなり大学を卒業しても暫く続いた。
先生のご子息の若K先生(私は若先生と呼んでいたが父よりもひとまわり以上年長だった)が最高裁判所の判事に就任されたこともあり、弁護士に対する私の尊敬の度合いは益々深まったのであった。

このためかどうかわからないが、中学時代や高校時代に度々見ることになったアメリカのテレビドラマに「悪徳弁護士」「人権弁護士」などが登場してくることがよく理解できなかった。
「ドクター刑事クインシー」という番組では、事故死した青年の臓器を移植したことについて、「それは明らかな殺人だ!」と絡んでくる人権弁護士が出てくるエピソードがあった。そんな弁護士は存在するはずはないと腹が立ったし、金を貪るためであれば、人を殺した犯人でさえ無実だと、被告が殺人を犯すように仕向けられたのは社会のせいだ、と主張して無罪判決を勝ち取ろうとする弁護士さえ見られることに
矛盾を感じた。

これらはきっとフィクションの世界の弁護士の話だろう。と、思っていたら違っていた。
1980年代後半から、わけのわからない裁判が次々にアメリカで行われ、釈然としない原告勝訴が続いた。
コーヒーをこぼして火傷をしたのはマクドナルドのせい、で何億ドル。ありもしないセクハラで三菱自動車から数億ドル。ディスクドライブが壊れるのは不良品だからで、東芝から数億ドル。道に段差があってこけて怪我をしたらNY市から数万ドル。
アメリカだからこんなおかしな訴訟を引き受ける弁護士が出てくるのだと思っていたら、いつの間にか日本も似たような状況になっていた。

人を殺したら精神障害を装い無罪を主張。
人を殺したら未成年だからと無罪を主張。
世間のほとんどの人が「それっておかしんじゃない?」と思っても、言えない社会、言えないマスコミ、口封じが巾を効かせている。
昨日山口県光市の母子殺害事件の裁判が最高裁で争われることになったが、犯人が少年だったと主張して、もし極刑に処さなければこの国家には正義はない。
最近の殺人事件は「精神鑑定」を弁護士が主張して「キチガイ」だからと罪を逃れるように「指導」する。
麻原裁判も然りである。
このような弁護士たちのどこに「正義」があるというのだろうか。
犯人を弁護するのが仕事だから、犯人を守ろうとするのは義務であることはわかっている。しかし誤った守り方は反社会的だということがわからないのだろうか。
そうこうするうちに、ついにアメリカ型弁護士が登場した。
広島県で少女を殺した偽日系ペルー人カルロス・ヤギ(偽名)の弁護士だ。
容疑者に面会した弁護士は、本来守秘義務のある被告との会見内容を記者会見を開き公表した。
ひとえに「犯人は悪魔が自分に入ってきたというようなキチガイです。だから無罪です」と言うがために。

「弁護士は正義の味方」は遥かいにしえの時代に過ぎ去ってしまったのだろうか。

ミャンマー大冒険(20)

2005年12月08日 20時23分06秒 | 旅(海外・国内)
いつの間に眠ってしまっていたのか、気がつくと列車はスピードを落とし、トロトロと走っていた。
「○○△△××○○△○○!........」
なにやら外から叫ぶような大きな声が聞える。
この声で目覚めたようだ。
眠い目をこすりながら起き上がり、真っ暗な窓に顔を近づけると、ガラスの向こう側に人の顔があってビックリした。
距離にして3センチ。
思わず声を上げそうなくらいビックリしたのだ。
なんせ、ガラス板1枚挟んで、向こう側に顔が浮かび上がっているのだからビックリするのも当然だ。
だいたい走っている列車の窓の向こう側に人の顔があるなどということを誰が想像できるだろうか。
いや想像できまい。
私は一瞬ミャンマーの「ナッ」が本当に現れたのかと思った。
ちなみに「ナッ」とはハナ肇の挨拶ではない(古い)。
「ナッ」とは土着の精霊信仰の神様のことで、タイやベトナムでは「ピー」と呼ばれ、日本では極めて形式化して神道における八百万の神様と呼ばれているが、つまり仏教国に欠かせない土着信仰のことだ。

「なにか飲み物は要りませんか?って言っているんですよ」
Tさんが眠そうな目をこすりながら、上段のベットから降りてきて私の向かいに腰かけながら説明してくれた。
そうか、彼らは物売りなのか。
ということは、列車がトロトロ走っているのは駅に近づいたからであり、間もなく最初の停車駅タウングーの駅へ到着するということだ。
腕時計を見ると午後9時40分。
ダイヤ通りの到着だ。
旅行社が私に送ってくれた電子メールに記されていた「ダゴンマン列車は比較的時間通りに走ります」という情報は、ここでも正確なものであることが実証された。
なかなかやるじゃないか。ミャンマー国鉄。JRならぬMR。
外にはポツポツと明かりも見えてきた。
ふと隣の座席を見ると、暗がりの窓にピッタリ顔を貼り付けてにこやかに呼びかける売り子の顔を目撃した石山さんが「キャッ」と引きつっていた。

列車が停車すると売り子の群れがやって来た。
ある者は「飲み物はいかがッスか」と叫び、またある者は頭にマンゴスチンの束を乗っけて窓に近づいてきた。
窓を開けると、プラットホームからワイワイ騒いで首を突っ込んでくる。
「何か飲み物でも要りますか」
とTさんが言ったので、喉が渇いていた私はコーラを飲みたいと言った。
Tさんはミャンマー語で中学生ぐらいの年端の男の子になにやら伝えた。すると彼は一目散に駅舎に向かって走り出したのだった。
「あ、コーラがいくらか訊くの忘れちゃいました」
と私が言うと、Tさんも「あっ」という表情をした。
まあここはミャンマー。そんなに高いことは云わないだろうと思ていると、またまた駆け足で戻ってきた男の子が手渡してくれたコカコーラ350mlは1缶2000チャットであった。
2000チャットというと日本円で200円である。
ボッタクリであった。

だいたいミャンマーにはコカコーラの工場はない。
かつて数年前。ペプシコーラがミャンマーに工場を作ったことがあったそうだが、アホなアメ公の市民団体が「人権を無視。市民を弾圧し続ける軍事政権のミャンマーに工場を作り、乏しい民から利益を貪るというのは許せない!」などと宣い、そのあまりの下品さ、否、正義の主張にペプシは恐れをなして撤退してしまったということだ。
アメリカ企業もご苦労様なことである。
この市民団体の皆さんはきっとミャンマーに来たことがないまま反対運動をしたのだろう。
ミャンマーが「民主的でない」と言うのであれば、中国にも「人権弾圧をするな!」となぜ抗議しないのかわからない。
きっと強きを助け、弱きを挫く、弱い者イジメの好きな市民団体なのだろう。さすがアメリカの市民団体だと思った。

そういうことで、ミャンマーで売られているコカコーラはお隣のタイからの輸入品である。
赤いお馴染のパッケージにはタイ語で「コーラ」と書かれている(と思う)。
タイ文字で書かれているので読めないのだが、明らかにローマ字の「ター」に似た文字(ホントはコークワーイとかコーカイとかいったタイのアルファベットが英文字のアルファベットのTARに似ているのだ-解説)が表記されており、但し書きも全てタイ文字であった。
バンコクのファミマやセブンイレブン、ジャスコで買うと、1缶わずか10バーツ(約28円)ほどしかしないコカコーラが200円なので、怒らないほうがおかしい。
ミャンマーの公務員の基本給は月給6USドル相当だというこだから、このガキはコーラ1缶で公務員の1週間以上の収益を稼いだというわけだ。

つづく

七歳の捕虜

2005年12月07日 21時23分45秒 | 書評
これまで見てきたテレビドラマで最も感動し印象に残っている作品はNHKのミニシリーズ「大地の子」だ。
中国残留孤児を採上げた山崎豊子原作のこのドラマは、近ごろめっきりスケールが小さくなった大河ドラマとは比べられない巨大なスケールを持っていた。

終戦後、ソビエト軍の急襲を恐れながら日本へ引き揚げようとしていた満州の一家に悲劇が訪れる。
離れ離れになった親子、兄妹がその後、2つの国で2つの人生を歩み、そしてやがて再会するという劇的な内容だ。
後半の数話は、恥ずかしながらティッシュペーパーを手元に置かなければ見ていることができないほどに心を打たれた。もちろんティッシュを手放せなかったのは涙を禁じ得なかったからで、読者は変なことを想像しないように。
とりわけ主人公が行方不明になっていた妹をやっと探し当てるエピソードが涙を誘った。
日本語を話せず、乏しい中国人の養母の面倒を見るために結核の治療も受けられずに死んでしまう妹。
その妹の死の直後、実父に再会するという運命の仕打ち。
このシーンを見ていた私は、まるで先日のフィギュアスケートGPを初制覇した織田信成選手のように号泣してしまったのだった。

先の大戦は数多くの戦災孤児を生み出し、普通の人生を送るべきして生まれてきた普通の人々を、数奇で過酷な運命へと導いてしまった。
それは日本人に対しても、中国人に対しても同じだったのだ。

「七歳の捕虜」は七歳で日本軍の捕虜となり、その後日本軍とともに行軍し、終戦後は日本に帰化した実在する人物の回顧録である。

日本が中国の戦乱に介入していった理由は数多くあるだろう。
軍部の暴走。
欧米列強の嫌がらせやケンカの挑発。
中国そのものの内乱状態。
などなど。
世界史における当時の状況、つまり覇権主義の世界環境にあって、このとき日本のとった行動は必ずしも世間の言うような非難されるべき内容ではない、と私は考えている。
考えているが、やはり戦争は数々の悲劇を生み、その一番大きな犠牲となるのは年端もいかぬ子どもであることは今も昔も変らない。

この回顧録で、主人公の少年は「学校に行かせてあげたい」という実母の望で中国軍の将校に預けられるが、その将校が少年に「新しい名前」として俊明(しゅんめい)という名前を与えてしまったことから、やがて少年は自分の実名、そして母のいる街を忘れてしまう。
やがて将校とともに日本軍の捕虜となった少年は「としあき」と呼ばれ、日本軍の兵士に可愛がられ、ともに従軍していくのだ。
敗戦後、バンコクの収容所に中国軍の使節が少年を迎えに来るのだが、中国語さえ忘れ、母の所在地も思い出せない少年は日本へ行くことを希望するのだ。

本書にはこの中国からインドシナへの行軍の間の日本兵について数多くのことが記されている。
一般に中国大陸での日本軍は「鬼」のようにいわれることが多いが、少年の見た日本兵は思いやりのある優しい大人たちであった。
先にマレーへ入っていた少年を可愛がっていた日本兵がバンコクで少年と再会すると号泣して「よかったな」と語りかけたという話には生きることの難しかった時代の心情を感じ、思わずぐっときたのである。

現在、神戸で貿易商を営む著者は1980年代になってテレビ局の力と国際機関を通じて中国の実母を探し求めたが、やっと見つけた母だと名乗る人物が、実母ではなく、未だに生みの母には再会できずにいることが書かれていた。
その母だと名乗った中国人の老女も戦中に子どもとはぐれ、常に探し求めているのだという。
そしてこのような中国人親子の離れ離れの話は無数にあり、社会的問題の一つだという。

この回顧録は中国から見た「大地の子」なのかも知れない。

~「七歳の捕虜 ~ある中国少年にとっての「戦争と平和」」~光俊明著 現代教養文庫刊

ポーラーエキスプレスDVD

2005年12月06日 20時38分09秒 | 映画評論
ポーラエキスプレスをDVDで再観賞した。
映画のDVDは公開されてから半年くらいで発売される普通なのだが「ポーラーエキスプレス」は待てど暮せど発売される気配がみじんもなかった。
「もしかして、クリスマスに併せて発売か?」
と思っていたら、予想は的中。
映画は2004年のクリスマス。
DVDは2005年のクリスマスに相成ったというわけだ。

映画館で見たときの衝撃はDVDになっても変らなかった。
画面が小さく、音響効果もホームシアターレベルなので致し方はないものの、やはりスピード感溢れるファンタジックな映像はまたまた私の心を虜にしてくれたのだった。
「ホットココア」のシーンは何度見ても楽しいし、氷上を滑走する機関車の迫力には目を見張る。
今回はプレーヤーの選択ボタンを日本語版にセットとして観賞したが、要所要所のカットが日本語で作られているのにも驚いた。
「金かかっただろうな」
というのが感想だ。
確か映画館でのロードショーは今一つヒットしなかったと記憶する。
映像マニアが固執する。そんな映画なので仕方がない。

ところで、今回家で見ていたことも手伝って、妙なところに目が留まった。
それはサンタクロースがトナカイに鞭を入れるシーンだった。
ずらっと並んだトナカイに橇に乗ったサンタさんは美しく輝く鞭を「ビシッ!」と降り下ろす。
これって、もしかして動物虐待?
サンタクロースのトナカイの橇はまったく当たり前のように思っていたが、「優しいはずのサンタさん」が「ホーホホホホホー」と笑いながらトナカイさんに鞭を下ろすのは、動物愛護団体からの抗議ネタになるんではないかと、ふと思ったのだ。
サンタクロースという聖人が弱き者「トナカイさん」に鞭を入れるのは、ある意味キリスト教の暗い本質をついていると言えなくもない。
で、サンタさんは動物虐待で告訴されテレビのレポーターたちに囲まれて、グリンピースや各国の動物愛護協会といった左に傾いた人たちから「生卵」や「石つぶて」「ペンキ」などを投げつけられながら裁判に臨む。
などというような困ったサンタさんのストーリーが頭に浮び、映画のストーリーとは関係なく一人で笑ってしまったのだった。

考えてみれば、サンタさんだけでなく訴えられそうな偉人や聖人はたくさんいそうだ。
足柄山の金太郎さんは「熊に跨がりお馬の稽古」というのも熊虐待ではないかと思えなくもないし、
鬼と闘うための報酬がたった数個のきびだんごだというケチな桃太郎さんもキジ、猿、犬に対する虐待ではないかとも思えるのだ。

鞭を打たれて「何さらすんじゃい!痛いやんけ、ワレ(河内弁)」とトナカイがサンタさんにイチャモンをつけたらもっと面白かったんではないか、とポーラーエキスプレスを見ながら思ったのは、落語の見過ぎも影響か。

~「ポーラーエキスプレス」ワーナーホームビデオ~

個人情報保護から殺人事件

2005年12月05日 20時31分33秒 | 社会
唐突ではあるが、個人情報保護法に賛同する人には疚しいことがあるのではないかと思えてならない。

個人の年収が他人に知られるのは恥ずかしいことかも知れないが、それが己の甲斐性であるというのであれば、それはそれで仕方がないであろう。
それに30歳、40歳を越えても独身であるならば、それはそれで仕方がない。
異性から見ると魅力がないのかも知れないし、性的に不能なのかも知れないし、実はゲイなのかも知れないので、それはそれで仕方がない。
勤めている会社が真当な会社でなければそれはそれで仕方がない。
北朝鮮にあくせく送金しているパチンコ屋に勤めているのも仕方がないことかも知れないし、児童売春を助長しているテレクラに務めているのも仕方がないことかもわからない。
また、国籍を公にできないのも仕方がないのかも知れない。
学生ビザで入国してきて、自国の年収よりも遥かに大きな月収が稼げることがわかった某国留学生であっても仕方がないし、永住資格を持つ自国人を頼ってやってきたら、ビックリするような給料が稼げることがわかって不法滞在を繰り返すこれまた南北某国人であっても仕方がない。
さらに、実は人を殺して服役したことがバレるのが困る人かも知れないのだが、それはそれで仕方がないだろうし、実は成人女性にはまったく興味が持てず、重度のロリコンであってもそれはそれで仕方がないだろう。

個人情報保護法というのは、こういう「仕方がない人たち」を、暗に保護するための法律であるのではないかと思われてならないのだ。

今居住しているマンションの理事会で「うちのマンションも年寄りが多いので、連絡を密にとる必要があるんじゃないだろうか」という意見が出された。
「個人情報保護法があるから、安易につきあうことができませんね」
という驚くような意見が出てきたのにはビックリした。
国勢調査で「すいません。調査票を回収にきました」と自治会の会長が訪問したら「なんで、アンタにうちの家族事情を報告せんといかんねん!」と扉をガチャリと乱暴に閉ざした人がいる。
近所の人を知るにはまずは個人情報をある程度共有する必要があるだろう。

広島県で小学校1年生が日系人を装ったペルー人に斬殺された。
栃木県でも小学校1年生が何者かに刺殺された。
数年前には大阪教育大学付属の小学校で8人が殺傷されて、同じ年に新潟県で9年間も監禁されていた少女が発見された。
15年前には今田祐子と名乗るロリコン男が4人の幼児の命を奪い、昨年は同じような手口で小学生の女児を殺害。被害者の親を愚弄する輩が現れた。
そして今日。大阪で若い姉妹を刺殺して放火した犯人を捕まえてみたら数年前に自分の母親を撲殺した人だった。

どれもこれも個人情報をきっちり「公開」しておけば、犯罪を防げたり、早期解決のできたことばかりだ。

むかし隣組という制度があって、近所の情報を共有していた。
これを声のデカイ一部の人たちは「人権侵害制度」「思想統制制度」などと呼んでいるが、この制度は実は江戸時代からの住民自治と自衛のシステムだった。
「人権」「思想」のキーワードを叫ぶ人たちが実は特殊な人たちであることは、今なら誰もが知っている。
この特殊な人たちが叫んでできた法律が「個人情報保護法」。

犯罪が増えるのもさもありなん、ということか。

ミャンマー大冒険(19)

2005年12月04日 14時36分15秒 | 旅(海外・国内)
雨は激しくはなかったが、まだ降り続いていた。

ヤンゴンを出発後暫くすると、車窓には田園風景が広がってきた。
とっても日本の田舎とよく似た風景だ。
田んぼを隔てて線路と同じ方向に走る道路を大型のバスやトラックが走っている。
これも日本の田舎と似た光景だ。
おまけにトラックやバスには「○○運送」とか「○○交通」などという、それらが日本を走っていたときそのままの塗装が消されることなく走っているので、まるっきり日本と同じ光景なのだった。
ただ田んぼの中にある集落やこんもりとした森を見ると、明らかに日本と異な風景が点描されていた。
高床式でニッパヤシを葺いた屋根の家々。
板を渡しただけのクリークを渡る橋。
ココナツの木々やバナナの木。
放牧されている水牛たち。
などなど。
雨に煙る風景は、昨年この国を訪れたときと同じで、それはそれで風情がある。
昨年はシッタン川を渡るときに見た景色がミャンマーだけどまるで水墨画の世界であったことに大いに感動したものだった。

出発から約二時間が経過したころ、列車は比較的大きな街を通過した。
バゴーの街だ。
自動車でもヤンゴンからバゴーまでは1時間半ほどかかる。
そこをトロトロ、ホアンホアン走る列車は2時間で通過した。
列車はここまで東に向かって走っていたが、ここで方向を北へとる。
バゴーの駅のポイントを通過するとき列車はスピードを落とした。
ガチャガチャ、ガチャガチャとポイントを通過する音と、連結器がドタガチャ鳴る音が賑やかだ。
私たちの列車はぐんとカーブして北へ進路を変えた。
単線のレールが真直ぐ西へ分かれて行く。
あの線路は昨年訪問したチャイティーヨーパゴダの近くの街チャイトーを通り、モーラミャインへ向かう鉄路なのだ。
そしてそして、あの線路こそ半世紀以上も前、ビルマ・タイ国境を越えてタイのカンチャナブリからバンコクへ通じる日本が建設した「泰緬鉄道」そのものだったのだ。

などと旅情に浸っていると、列車は徐々にスピードを上げはじめた。
モーラミャインへ続く旧泰緬鉄道の線路は単線であったが、私たちが走る本線は意外なことに複線であった。
この一つだけの事実でも、この鉄道が保線不十分とは言いながらミャンマーの大動脈であることを教えてくれていた。

「ちょっと上で休んできますね」
とTさんは雨漏りで湿った寝台へ上っていた。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
大丈夫なわけはないのだが、少々頑固なところのあるTさんなので、諦めて降りてくるまで放っておこうと思ったのだった。
で、隣の座席を見ると石山さんが読みかけの文庫本を半ば閉じて眠っていた。
このガチャガチャ揺れる列車の中でよくぞ文庫が読めるものだ、と感心していたら、寝ていたのだ。
ご苦労さんである。

暫く景色を眺めていたが、やがて夜の帳が下りてきて真っ暗になってきた。
線路の周囲は田んぼや畑ばかりなのか街灯一つ見えない真っ暗がりなのだった。
真っ暗がりでも列車はガチャンガッチャン、ホワンホワン、ユッサユッサと揺れながら走り続けている。
さしてスピードは出ていないのだろうが、音が喧しいのと揺れが激しいのが相まって、猛烈なスピードで走っているような錯覚を起こすのだった。

「どのあたりを走っているのかな」
と思いつつボーと真っ暗な窓を見つめていると、Tさんが座っていた向かい側の座席にシャンの男性がスチロール製の弁当箱を下げてやってきた。
自分の席では石山さんがのんびりと寝ているので遠慮して私の前にやってきて弁当を食べようというのだろう。
彼は私に微笑みかけて折りたたみ式のテーブルを起こし弁当の蓋を開けた。
「美味そうだな」
と私は心で呟き、ニッコリ笑って彼の食事を羨ましそうに眺めた。
私は次の停車駅タウングーに着くまで食事にありつくことができない。
シャンの男性は焼き飯らしき弁当を美味そうに食べている。
列車が激しく揺れるので少々食べにくそうだが、これも旅の楽しみ。私も景色を見ながら列車の中で弁当を食べるのが大好きだ。
最近は出張の時でも弁当を食べることが少なくなった。
東京への出張が終っても、東京駅から大阪の私の家までは三時間半ほどしかからないので、高価な駅弁を我慢して家で食べることにしているので弁当を食べる機会がすっかり少なくなってしまったのだった。
最近買った駅弁は2年前に鳥取への出張の帰りに購入した「かに弁当」だった。1つ千円という高直なことはさておき、すこぶる美味い弁当であった。
ミャンマーの駅弁もなんとなく楽しみであった。

弁当を食べ終ったシャンの男性はスチロール容器の蓋を閉じてビニール袋に入れた。
そして再び私に向かって満足げに微笑んだ。
そりゃ満足であろう。
こっちは腹ぺこである。でも「よかったね、おいしかった?」という意味合いを込めて私も微笑んだのだった。
そして彼は窓を開けた。
きっと満腹で、外の夜風にあたりたいのかな、と思った。
雨も止んでいたし、客車内のエアコンは故障で止まっていたので、私も少し外気を吸いたいところだった。
すると彼は食べ終った弁当の容器をビニール袋ごと、おもむろに窓から車外に放り投げたのだった。
そして何事もなかったように窓を閉めると、またまた私に微笑みかけたのだ。
私も微笑み返してはいたが「なんちゅーことすんねん」と驚愕した心臓がドキドキと激しく脈を打っていたのだった。
こういう場合どうすれば良いんだ?
「こら! 窓からゴミを捨ててはいかん!」と怒るべきなのか?
それとも文化の違いなのか。
どうリアクションして良いのか悩んでいるうちに、彼は微笑みながら自席へ戻って行ったのであった。

つづく

フィギュアスケート

2005年12月03日 21時29分32秒 | スポーツ
「仕事、つまらんな」
「ホンマですね」
成績優秀。売り上げ向上。会社設立以来最高の粗利を稼ぎながら、しょーもないボーナス回答(レギュラープラス0.2ヶ月)を受取った私と腹心の部下W君は、2週間前意気消沈していた。
「なんかこう、ぱーーーーー!と気分転換できることしたいな」
「そうですね。なんか、こうスポーツ見てエキサイトしたいですね」
部下のW君は大学時代関西学生ラグビー界で腕を鳴らしたスポーツマンだ。
「昨日、地下鉄の駅でフィギュアスケートのポスター見たんやけど、行けへんか?」
「それって、ミキティ出てるヤツですか?」
「そうや」
「行きたいッス!」

ということで、昨日(12/2)。仕事をサボってW君と一緒に大阪のなみはやドームへ行ってきた。
「NHK杯国際フィギュアスケート」
年明けに迫ったトリノオリンピック代表を選考するための重要な大会だということで、緊張感溢れた国際大会へ行ってきたのだ。

会社近くのうどん屋で昼食をとったあと、「ちょっと難しいお客さんがあって、二人で行かんとなんから」と他の連中に言い訳をして外出した。
「いってらっしゃい」
ホワイトボードの行き先には、どこにでもありそうな会社の名前を創作して書き込んだのは言うまでもない。
もちろん帰社時間は「NR(ノーリターンの略)」

それにしてもフィギュアスケートのルールもろくに知らずに「ミキティを見たい」というだけで、よくぞ足を運んだものだ。
そもそも大阪でウィンタースポーツの世界大会を観戦できるなんてことはほとんどない。
だからこの際、ルールなんかどうでもよいのだった。
「ミキティの姿さえ拝めれば」
というミーハーな気持ちでチケットを購入したのだった。
これでは、
「ルールなんてわからないけどぉ、甲子園に一度いってみたいのね」
などとと宣う野球のルールも分らないパープーお姉ちゃんとあまり変らないと言われるかもしれないが、我々にはスポーツを見る目があることから、それとは別次元の話だと思い込むことに決めた。
で、本当は今日(12/3)のチケットが欲しかったのだが、すでに売り切れており、仕方なく昨日のチケットを購入したのだった。

フィギュアスケートといえば華麗な氷上のダンスというイメージを持っていたが、この潜入観念はまったく改めなければならないと痛感した。
生で見ると、これほど凄いスポーツもなかなかない、
スピード感、リズム感、造形美、表現力が他の全てのスポーツよりも要求されることを痛烈に感じたのだ。
出場選手は世界最高峰。
感動しないほうがどうかしている。
「凄い筋肉やぞ」
オペラグラスで安藤美姫の姿をみると、筋肉がモリモリしているのがわかった。
「ほんまや!スゲー!」
とW君。
そして安藤だけでなく、どの選手も美しさとともに、スポーツマンとしての惚れ惚れするような素晴らしい肉体を持っていたのだ。
フィギュアが美のスポーツであるとともに、過酷で激しいスポーツであることも感じたのだった。

で、肝心のミキティは今一つ調子が出ず、4位と残念だったが、まったく期待していなかった中野由加里が見事な演技を見せてくれて度肝を抜かれたのだった。
黒の衣装で演技する中野の演技は群を抜いていた。
「凄い!」
私たち二人も含めて、観客席からはため息と驚嘆の声が聞えてきた。
ショートプログラム第2位だった中野由加里は今夜のフリーでも昨日に勝る演技を演じ、見事優勝した。
ああ、オレも君が代を一緒に歌いたかったよ。

ということで、すっかりフィギュアに嵌り込んだ週末だった。
そして自分の演技後、もらったスヌーピーのぬいぐるみを抱いて観客席でペアの演技を見ている安藤美姫の姿も、妙に脳裏に焼き付いていたのだった。

シングルCDはどこ行った?

2005年12月02日 07時12分33秒 | 音楽・演劇・演芸
先週号の週刊文春を読んでいて、二年前に松任谷由実が発表した「雪月花」という曲が9000枚、今年発売した新曲も3万枚しか売れなかったことを知って驚いた。
松任谷由実が9000枚。
あのユーミンが1万枚を切っているとは思わなかった。

私の家から歩いて3分のところにレンタルビデオのTSUTAYAがある。
ここは書籍の販売とDVD、CDソフトの販売もしているので、ここでちょくちょく購入しているが、たまに今発売中のシングルCDを見ていて愕然とすることがある。
何に愕然とするかといえば、その種類の少なさに愕然とするのだ。

私がシングルレコードを買いはじめた小学校高学年の頃、近所のレコード店へ行くと、最新のヒット曲を中心に何種類ものシングルレコードが売られていた。
当時アイドルだったキャンディーズに山口百恵、桜田淳子、岩崎宏美、沢田研二、フォーリーブス。
好きではなかった(今も好きでない)演歌も北島三郎、五木ひろし、細川たかし、ぴんから兄弟、殿様キングスなどなど。
1枚だいたい500円で販売されていたと思う。
好みの歌手、今風に言うとアーティストの新曲がでると、レコード店へ行って、シングルレコードを買い求めた。
人気番組「ザ・ベストテン」でもシングルの売り上げランクは重要だった。

今はシングルは買わずにネットだよ。
という意見もあるかも知れないが、変化が出たのはCDが発売されてからだ。
最初、CDのシングルは直径8cmの小さなメディアが一般的で、ジャケットもなぜか真ん中で折れるようになっていてポケットサイズだった。
音質は良いのだか、ジャケットがポケットサイズなので、子どもの頃の小学何年生などという雑誌なんかに付録でついていたソノシートを思い出し、安っぽく感じたのだった。

やがてメーカーもシングルCDのサイズに気づいたのか「マキシシングル」などというフルサイズCDのシングル盤が発売されるようになった。
こうなると、外見上普通のアルバムとの区別がなくなると同時に、なぜフルサイズなのに2~3曲しか入っていないの?ということにもなってしまう。
価格もいちまい1000円前後。
もう500円も足せばアルバムを買うこともできる。
消費者がシングルCDに興味を失うのも当然か。

新曲に胸をときめかしたドーナツ盤。
あのかつての栄光を引き継ぐシングルCDは、いったいどこへ行ってしまったんだろう。