とりがら時事放談『コラム新喜劇』

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キャメラマン一代

2005年10月26日 21時01分09秒 | 書評
手塚治虫の晩年の傑作「陽だまりの樹」の主人公の一人、伊武谷万二郎は北辰一刀流の修業のため神田お玉が池の千葉道場の門をくぐった。
そのわずか数日後、千葉周作先生が亡くなられ、伊武谷は悲嘆に暮れて泣き崩れる。
「なんだ、あいつ。まだ入門して三日目じゃないか」
諸先輩の剣士に苦笑される伊武谷だった。
それほど短い期間でしかなく、なおかつ直接の指導を受けることもなかった伊武谷なのに、周作先生への敬慕の念は凄まじいものだったのだ。

映画カメラマン、宮川一夫先生は私にとっての千葉周作に他ならない。
もっとも、私は宮川先生にたった3日しか教えを受けなかったといことは決してないし、直接ご指導を頂戴したこともある。
しかし、あまたいらっしゃる先生のお弟子さんからすると、わたしなんぞは千葉道場の伊武谷万二郎に他ならず、つまりその他大勢の学生の一人であり、そういうところが私には寂しくもあり、哀しくもある。

宮川先生の名前は、映画ファンなら知らない人はいないだろう。
映画カメラマンとしての業績は計り知れない。
先生が撮影した主な作品名を少し挙げるだけでも日本を代表する映画の題名が飛び出してくるのだ。
「無法松の一生(坂東妻三郎主演)」「羅生門(黒澤明監督)」「東京オリンピック(市川崑監督)」「雨月物語(溝口健二監督)」「浮草(小津安二郎監督)」「用心棒(黒澤明監督)」「瀬戸内少年野球団(篠田正浩監督)」などなど。
亡くなられる前の最後の作品は篠田正浩監督の「梟の城」で、車いすに乗り、たったワンカットだけファインダーを見られた。

宮川一夫先生の凄いところは、いつも頭が柔らかで、新しい技術を次から次へと吸収していかれることだった。
私が教えを受けた1980年代前半は映画のカメラにビデオが装着され、撮影されている画面をモニターで確認できるようになった頃だった。
またデジタル処理が始まり、ネガからポジにフィルムを焼く際に画調の細かな制御が可能にもなってきた。
これらの最新技術を私たちヒヨッコにもならない「たまごっち」レベルの連中に、熱い口調で論評し、あるいは称賛し、これからの映像製作について語り聞かせてくれたのだった。
「あのね、君。キャメラはね。動かなくちゃいけない。止まってちゃダメ。」
「白黒の画面には色が付いているんだよ。あの水墨画の濃淡にはカラーを感じるでしょ」
「未知との遭遇は凄いね。コンピュータを使って、あれだけ人の心を打つ映画がつくれるんだよ」
小柄な先生が私たち若者(当時)に語りかける目は、鋭く、真剣で、そして優しかった。

本書は1985年に先生が書き下ろした大映入社から現代(85年)までを振り返った自伝的なエッセイだ。
多くの監督との交流や、俳優、女優さんとのエピソード、撮影テクニック秘話などがふんだんに盛り込まれている。
そしてなによりも、映像を作ろうとする多くの若きクリエーターたちへの暖かい愛情に満ちたメッセージが折り込まれているのだ。

~「私の映画人生60年 キャメラマン一代」宮川一夫著 PHP出版刊~

メモ:この本は現在絶版です。神田の古書街では7800円というような法外な価格を付けて売っている店がありますが、インターネットで検索すると定価に近い良心的な価格で買い求めることができます。