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とりがら時事放談『コラム新喜劇』



谷村新司がアリス時代に作詞した大ヒット曲「チャンピオン」は沢木耕太郎のノンフィクション「一瞬の夏」をヒントに書かれたものだという。
「一瞬の夏」はカシアス内藤という実在のボクサーを主人公に筆者が関わったあるタイトルマッチについてのドキュメンタリーだ。
ボクシングという孤独な戦いを通じて、ひとりの人間の生き様を描いた物語は、読む者の心に直に響いてくる何かを包含していた。
それは、カシアス内藤という当時すでにボクサーとしての絶頂期を過ぎてしまっていた主人公に対する、誰もが持つ人生における運命のようなものを感じ取ったからだからかもしれない。
また一つの目標に対面したとき、人は一瞬強さを見せることももあるが、いざその目標に挑むとき弱さが露呈し、それどのように立ち向かうのか、といったことが哀しくも愛おしく描かれていることが心の琴線に触れてくるからだろうとも思えるのだ。

考えてみれば、ボクシングという孤独なスポーツは人生の縮図を表しているからこそ、人々の心を捉えて放さないスポーツであり続けているのだ。
一つの試合が、一つのラウンドが、一人一人の人生と結びつき、ある時は打たれ、またある時は打ち返すという、このくり返しが、単なる殴り合いではないスポーツとしての物語の深みを写し出していると言えるだろう。

沢木耕太郎のノンフィクションは、常に一個の人間を追い求めているように思える。
上述の「一瞬の夏」ではカシアス内藤を。
「テロルの決算」では山口乙矢を。
「壇」では壇一雄を。
あの紀行文の名作「深夜特急」でさ、「私」である作者自身がたった一人の主人公として描かれているのだ。
個々の人間の生き様を巧みな文章で彫り出しているからこそ、沢木耕太郎のノンフィクションには、他にはない魅力が潜んでいるのだ。

最新作「凍」は山岳家、山野井夫妻がヒマラヤ・ギャチュンカンに挑んだ、命を賭けたクライミングを描いている。
そしてここでも、ともすればボクサーよりも遥かに孤独な戦いを強いられるであろう一個の登山家を描くことにより、人間の生き方、生に対する考え方を厳しく、そして情熱的に浮かび上がらせているのだ。
実際読み進むにつれて、どうしてこうまでして山に登らなければならないのか、という疑問に取り憑かれてくる。
本書の中にも記されていたが、他のスポーツと違いクライミングというのは誰かに見せるものでも、誰かとリアルタイムで競い合うものでもない。
それはただひたすら、登り、そして降りてくるという自分との闘いに終始するのだ。

スリリングで手に汗握る展開に、読み進むにつれて紙面から目が離せなくなってしまうエキサイティングな物語だ。
しかし、帯に書かれている文句につられて買い求めて読むと、もしかすると、ある意味期待外れに終る物語かも知れない。

~「凍」沢木耕太郎著 新潮社刊~

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