近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

横浜市青葉区の市ヶ尾横穴古墳群とは!

2012年05月12日 | 歴史
次に横浜市市ケ尾町では“市ヶ尾横穴古墳群”など、多くの古墳が見つかっている。

市ヶ尾駅から北に約1キロ行った小高い山の中腹にあるのが、1933年に発見された“市ヶ尾横穴古墳群”。





写真は、市ヶ尾横穴古墳群発掘を記念した、“市ヶ尾遺跡公園”の入口と登口。

本古墳群は、“市ヶ尾遺跡公園”として整備されているので、気軽に歴史にふれられる場所として、市民の散歩ルートになっている。







写真は、市ヶ尾横穴古墳A群の光景及びA群のうち9号墳内部の様子。

横穴古墳とは、台地や段になった丘の斜面に高さ2m前後の穴を掘り、人を埋葬した墓のこと。

この埋葬方法は古代東アジア社会などでも見られるという。





写真は、市ヶ尾横穴古墳B群の光景及びB群のうち5号墳内部の様子。

上述のように、古墳群はA群とB群に分かれており、A群には古墳が12基、B群には7基あり、土師器や須恵器などの装飾品も発見されている。

これらの古墳群は、6世紀後半から7世紀後半の古墳時代の末期につくられており、農耕を営んでいた有力な農民の家族を葬った家族墓のひとつ。

写真のように、横穴墓単体では、古墳に比較して規模は小さく、社会階層的にはムラ長に次ぐ有力者並びにその家族墓と考えられる。

ここで、墓制の歴史について遡ってみると、縄文時代には地面に穴を掘り遺体を埋葬する土壙墓が中心だったが、弥生時代は甕棺・石棺・木棺など埋葬用の棺の使用が中心となっていく。

社会階層の分化に伴い、階層による墓制の差異も生じて、集団内の特定の人物或いは特定なグループの墓地あるいは墓域が区画される。

古墳は地方の権力者レベルの墓だが、弥生から古墳時代の方形周溝墓に埋葬される人々は最下層ではないにしても、古墳をつくるほどの高い地位層でもなかった。

紀元3~7世紀頃には、権力者の古墳が出来たが、一般人は路傍に捨てられたり、河川等に作られた墓もできたり、或いは遺体を野原や死体捨て場のようなところに捨てて、獣が食うにまかせていたかもしれない。

従って古墳や横穴墓のように今日まで残されているのは、ほんの一握りの墓と云うことになる。

ところで市ヶ尾町は、横穴式石室の古墳が多く見つかっているところで、近くには、“稲荷前古墳群”や“朝光寺原古墳群”など、都筑一帯を統治していた首長層の墓が発掘されている。

“市ヶ尾横穴古墳群”に葬られた人々は、こうした首長層の人々と、なんらかの関わりをもつ人々だと考えられているという。