近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

関東地方の古墳巡りに先立って!

2012年04月19日 | 歴史
ここからしばらくは、関西地方の古墳巡りから離れて、関東地方の古墳巡りにご案内する。

関東地方の古墳群は、群馬県南部から埼玉県、東京都、神奈川県にかけて広く分布し、且つ密度が非常に高い。

しかし一方で古墳がほとんど分布しないか、きわめて少ない平地も広く存在する。例えば、武蔵野台地、大宮台地等の中心部には、古墳はほとんど存在しない。これらの台地には、水がないため水田が造れないばかりでなく、生活に必要な水もえられないためと見られる。

叉古利根川や中川沿いは著しい湖沼、沼沢地帯で、当時まだ水田開発の対象になりえなかったため、集落地として適さなかったと見られる。

ということで、関東の古墳分布の有無は、地質地形と密接な関係をもつ。

ここでは、関東地方の中でも、常陸国(現在の茨城県)と武蔵国(埼玉県・東京都・川崎市・横浜市東部)の古墳群について、特にヤマト中央王権との繋がり・関係を中心に巡ってみたい。

はじめに、古墳時代の成立・東征過程について、考えてみたい。

日本は弥生時代に、大陸や朝鮮半島からわたってきた稲作や鉄製・青銅製の武器や鏡などをつくる金属工芸の技術などによって、大きく発達した。

しかしその技術移転のため、経済や文化の面で優位に立つための戦いも、起こるようになった。

3世紀中頃から4世紀初頭にかけて、こうした地域的な戦いを統合してゆく過程を経てヤマト朝廷が成立し、古代国家への段階的な発展が始まった。すなわち古墳時代の始まりであった。

初期農耕社会として弥生時代共同体の特色は、「稲作」という生産手段を共通する経済による結びつきであったが、ヤマト王朝成立以降は、国家が武力による中央集権的な支配を背景とした、生産物を独占的に徴収する体制となった。この象徴が、各地につくられた前方後円墳などの古墳。

ヤマトタケルの父、第12代・景行天皇(71~130年)は各地に自ら征討軍を率いて乗り込んだ記述が、記紀・九州の風土記・播磨風土記・常陸風土記などにもその足跡を刻んでいる。

そして古墳時代と呼ばれる3世紀中頃から7世紀にかけての日本は、国家が成立してゆく過程にあたるが、古事記にあらわれる“ヤマトタケル”は、「熊襲タケル(九州の勇者)」、「出雲タケル(出雲の勇者)」などと、同じ「大和の勇者」の名をもった神話のなかの英雄たち。

ヤマトタケル時代には、ヤマト政権の東国伸張にしたがって東へ東へと、勢力圏は推移して行ったと考えられる。

この神話は、ちょうど国家的な中央集権的な支配を成立させたばかりの畿内の政治勢力が、全国に進出し、武力によって地方を征圧しようとする場面を描いている。

ヤマトタケルたちの古墳は、ヤマト王朝の付託の象徴として、金銅装の武器・武具などの副葬品を伴い、或いは風光明媚な山上・河川や海岸線沿いなどにヤマトタケルたちの姿を見ることができると云う。







それら古墳の代表例として、写真上より、京都府綾部市の私市円山古墳、福井県敦賀市の向井出山1号墳、大阪府岬町の鴻の巣山古墳から望む大阪湾。

これらは、地域有力者の墳墓で、圧倒的な勢力を象徴している。

墳丘規模・形態では地方豪族に抑えられていても、ヤマトタケルたちの埋葬遺物では、鉄製甲冑・刀剣・鉄鏃など圧倒的権威を象徴している古墳も見られる。

地方のユニークな古墳群からも分かるように、ヤマト王権に結びついた地方豪族或いはヤマト王権の付託を受けたヤマトタケルたちが、地域的な首長連合を形成し、南武蔵・霞ヶ浦沿岸など各地に出現したことを裏付けている。

墳丘・墳長の規模では、地方豪族に従属的な形であっても、副葬された遺物に金銅装の武器・武具・帯金具などにより、圧倒的な格差をつけることで、中央の権威を象徴しているケースも見られる。

ヤマト王朝の付託の象徴として、金銅装の武器・武具などの副葬品を伴い、或いは風光明媚な山上・河川や海岸線沿いなどにヤマトタケルたちの姿を見ることができる。

ヤマト王権の付託を受けた、関東のヤマトタケルたちは、やがて東北蝦夷征伐の足がかりとする。