近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

竹内街道の歴史を巡ってー推古・用明・孝徳天皇など!そのⅢ

2012年03月01日 | 歴史
推古・用明天皇陵巡りを更に続けます。



写真は、聖徳太子の父・用明天皇陵。

御陵隣接の白壁塀と門構え、如何にも御陵の管理事務所と間違えそうだが、実は民家がこれほどまでに隣接している今日的な典型姿。



推古天皇の皇太子として執政を取った聖徳太子

聖徳太子あ、叡福寺に生母・妃と共に合葬されている。

現在では、聖徳太子信仰の霊場として位置づけられている。



竹内街道沿いの孝徳天皇陵、太子町では一般的な円墳の一つ。

ここでも民家に隣接し、近所には小川が流れているが、恐らく当時の周濠ではなかったか?

推古天皇が切り開いた中国大陸への大道・竹内街道沿いの磯長谷(しながだに)王陵群は大阪府太子町にある、天皇陵を中心とした古墳群であり、大化の改新前夜の古墳群でもあるが、何故二上山を挟んで、奈良県飛鳥地方の天皇陵と別けへだてたのであろうか?

太子町の博物館である「近つ飛鳥博物館」は、奈良県明日香村の飛鳥資料館と区別している苦悩を感じつつ、一方ではあえて「近つ」と表現・強調している様にも思える。

中国・朝鮮半島へ通じる大道・入口として、又中国文化への橋渡しとしてこの地をあえて選んだのであろうか?

磯長谷は、用明天皇から孝徳天皇に至る蘇我氏系人物の陵墓だっただけに、当時の影の権力者として、その権力を誇示する為に、あえて奈良県飛鳥ではなく、この地を選んだのであろうか?

いずれにしても、今後の研究テーマとして更に調査を進めるに値する興味津々のテーマではある。