河内古墳群とヤマト古墳群との違いについて更に続けます。
大王墓の移動説を裏付ける背景として、古墳群の構成原理の違いに関して、具体的にどのような内容を指しているのかを説明する必要がある。
先ず、大和古墳群からみていくと、19基の前方後円墳、前方後方墳、円墳から構成されている。すべて前期の前方後円墳と前方後方墳から成り立っていると云える。
写真は、天理市の西殿塚古墳後円部からの光景。
これらの前期古墳群は、最大の西殿塚古墳が墳丘長219m、最小の火矢塚古墳が墳丘長49mを測り、古墳の大きさにかなりのばらつきがあることが分かる。即ち大和古墳群の群構成は、墳形や規模のバラエティに富む。
一方、大阪柏原市から羽曳野市にまたがる玉手山古墳群を見ると、前期の前方後円墳は14基を数え、数の点では大和古墳群と遜色がない。
写真は、柏原市の玉手山古墳3号墳墳丘光景。
しかし、玉手山古墳群のほとんどは、墳丘長が100m以内にとどまっていて、大きな差のないこと点が注目される。
玉手山古墳群は、大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上に位置し、4ないし5系列の首長が政治的な同盟関係を基礎に玉手山丘陵を共同の墓地として古墳造りを行なったと考えられる。
その首長相互には、古墳の墳形や規模を見るかぎり、力の優劣はあまりなかったと推測される。
首長の力の優劣が古墳の墳形や規模に反映していると見れば、大和古墳群は、西殿塚古墳のような大王墳を頂点にして、階層的な古墳群構成をなしていると解釈できる。
大和古墳群(奈良盆地の東南の山麓に沿って、南から纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の三つの古墳群)が大王を頂点とする階層的な構成の古墳群に対し、玉手山古墳群は均質的な構成による古墳群と評価することができる。
大和古墳群と玉手山古墳群は、前期の前方後円墳を主とする古墳群だが、群の構成原理には、かなりの違いがあることが分かる。
玉手山古墳群の存在が、後の古市・百舌鳥古墳群の成立と、その後の展開に大きくかかわっていると考えられる。
河内の代表的な前期古墳群の玉手山古墳群と、大和の代表的な前期古墳群の大和古墳群を比較すると、両者の量的・質的な差異は歴然としている。
ということは、古市・百舌鳥古墳群の成立を河内勢力の台頭に求めるのは難しい。
一方ヤマト古墳群を考えてみると、奈良県東南部に分布する多数の古墳は、初期ヤマト政権の築造に関わるものとして注目されてきたが、これらの古墳群は桜井市にあるメスリ山古墳と茶臼山古墳を除けば山の辺の道にそって、四つの古墳群に大別される。
すなわち南から三輪山麓の纏向古墳群、竜王山山麓の柳本古墳群、その北方の大和(おおやまと)古墳群、さらに北の東大寺古墳群。
そしてそれらの古墳群から想定される四つの勢力は、消長を見せながら佐紀古墳群の時代にはほぼ一つにまとまったように見える。
初期ヤマト政権が最初から一つにまとまった強い勢力ではなく、「四群があることは少なくとも四つの小勢力の合同体であったことを意味する。」という考え方もあり、このことは日本書紀が主張するような従来のヤマト政権に対する見方の変更を迫るもの。
特に1994・95年に相次いで発掘された大和(おおやまと)古墳群の中山大塚古墳が前方後円墳で、すぐ近くに位置する下池山古墳が前方後方墳であると云うように、双方が存在する様相があまりにも違いすぎる。
大王墓の移動説を裏付ける背景として、古墳群の構成原理の違いに関して、具体的にどのような内容を指しているのかを説明する必要がある。
先ず、大和古墳群からみていくと、19基の前方後円墳、前方後方墳、円墳から構成されている。すべて前期の前方後円墳と前方後方墳から成り立っていると云える。
写真は、天理市の西殿塚古墳後円部からの光景。
これらの前期古墳群は、最大の西殿塚古墳が墳丘長219m、最小の火矢塚古墳が墳丘長49mを測り、古墳の大きさにかなりのばらつきがあることが分かる。即ち大和古墳群の群構成は、墳形や規模のバラエティに富む。
一方、大阪柏原市から羽曳野市にまたがる玉手山古墳群を見ると、前期の前方後円墳は14基を数え、数の点では大和古墳群と遜色がない。
写真は、柏原市の玉手山古墳3号墳墳丘光景。
しかし、玉手山古墳群のほとんどは、墳丘長が100m以内にとどまっていて、大きな差のないこと点が注目される。
玉手山古墳群は、大和川と石川の合流点を望む玉手山丘陵上に位置し、4ないし5系列の首長が政治的な同盟関係を基礎に玉手山丘陵を共同の墓地として古墳造りを行なったと考えられる。
その首長相互には、古墳の墳形や規模を見るかぎり、力の優劣はあまりなかったと推測される。
首長の力の優劣が古墳の墳形や規模に反映していると見れば、大和古墳群は、西殿塚古墳のような大王墳を頂点にして、階層的な古墳群構成をなしていると解釈できる。
大和古墳群(奈良盆地の東南の山麓に沿って、南から纏向古墳群、柳本古墳群、大和古墳群の三つの古墳群)が大王を頂点とする階層的な構成の古墳群に対し、玉手山古墳群は均質的な構成による古墳群と評価することができる。
大和古墳群と玉手山古墳群は、前期の前方後円墳を主とする古墳群だが、群の構成原理には、かなりの違いがあることが分かる。
玉手山古墳群の存在が、後の古市・百舌鳥古墳群の成立と、その後の展開に大きくかかわっていると考えられる。
河内の代表的な前期古墳群の玉手山古墳群と、大和の代表的な前期古墳群の大和古墳群を比較すると、両者の量的・質的な差異は歴然としている。
ということは、古市・百舌鳥古墳群の成立を河内勢力の台頭に求めるのは難しい。
一方ヤマト古墳群を考えてみると、奈良県東南部に分布する多数の古墳は、初期ヤマト政権の築造に関わるものとして注目されてきたが、これらの古墳群は桜井市にあるメスリ山古墳と茶臼山古墳を除けば山の辺の道にそって、四つの古墳群に大別される。
すなわち南から三輪山麓の纏向古墳群、竜王山山麓の柳本古墳群、その北方の大和(おおやまと)古墳群、さらに北の東大寺古墳群。
そしてそれらの古墳群から想定される四つの勢力は、消長を見せながら佐紀古墳群の時代にはほぼ一つにまとまったように見える。
初期ヤマト政権が最初から一つにまとまった強い勢力ではなく、「四群があることは少なくとも四つの小勢力の合同体であったことを意味する。」という考え方もあり、このことは日本書紀が主張するような従来のヤマト政権に対する見方の変更を迫るもの。
特に1994・95年に相次いで発掘された大和(おおやまと)古墳群の中山大塚古墳が前方後円墳で、すぐ近くに位置する下池山古墳が前方後方墳であると云うように、双方が存在する様相があまりにも違いすぎる。