近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

古墳あれこれー前方後円墳から窺える古墳時代社会とは!そのⅥ

2011年11月06日 | 歴史
古墳時代社会の真相に、更に迫ります。

古墳は、円墳、方墳、前方後円墳など、いろいろな形があるが、3世紀後半ごろから前方後円墳に画一化されて、全国に広がっていくようになる。

前方後円墳の墳形については、現在では円形墳丘墓の通路部分が発達し、墳丘と一体化したものであると考えられている。

前方後円墳は日本列島の広範囲に分布しており、北は岩手県から南は鹿児島県にまでおよんでいる。また、近年、朝鮮半島西南部でも若干の存在が確認されている。

西日本の前方後円墳出現期の分布状況を見てみると、北部九州の玄界灘沿岸から、瀬戸内海沿岸各地をへて、近畿中央部に広く拡がっている。

その規模は箸墓古墳墳丘の長さ・200mを超えるものが奈良盆地の東南部に数多く見られる。

それに次いで大規模な出現期古墳が見られるのは吉備地方(茶臼山古墳は墳丘長138m)で、それに続くのは北部九州である(石塚山古墳は墳丘長120m)。

このように前方後円墳出現期の古墳規模からいうと、大和以外には、箸墓の二分の一以上の規模の古墳は見られない。こうした分布のあり方は、広域の政治連合が、大和を中心に形成されていたことを物語る。

前方後円墳は、大和政権のマークのようなもので、前方後円墳を造るということは、大和政権に属しているということ。

このころ古墳に埋葬されるのは、地方豪族の首長だったため、前方後円墳を造ることにより、大和政権に属する大和グループの一員ということを古墳の形で示したと云える。つまり、看板の役目も果たしていたわけ。

従って、前方後円墳がある場所は、大和政権下の土地であることが明白となり、敵なのか味方なのかが、すぐに分かる。

物資を輸送するときなど、安全かどうかがわかり、非常に便利な社会的証であったと言える。

畿内の首長連合の中核に大和政権が位置し、武力で各地の政治集団を滅ぼし、勢力を拡大していった。

5世紀に吉備政権を滅ぼし、6世紀には筑紫政権を滅ぼし、大和政権の力は全国に広がっていった。

5世紀を代表する古墳は、大阪平野の古市古墳群と百舌鳥古墳群。

天皇で言えば、第15代応神天皇以下、仁徳・履中・反正・允恭・安康・雄略・清寧・顯宗・第24代の仁賢天皇が続き、この時代を「河内王朝」と呼んでいる。





写真は、羽曳野市の応神天皇陵・誉田御廟山古墳の上空写真及び藤井寺市の仁賢天皇陵に隣接した民家と畑地。

第15代・応神天皇陵は、写真では分かりにくいが、左右非対称の前方後円墳で、前方部正面の外堤線が右側から左側に傾斜している。墳丘長415m・後円部の径256m・前方部の幅330mほどで、日本最大級の前方後円墳。

一方第24代・仁賢天皇陵は全長121mほどで、江戸末期に学僧によって発見されたと云うが、民家に隣接した、荒れ放題の前方後円墳。何故これほどまでに違うのか?

古墳、とりわけ「前方後円墳」に結実した墳墓の形は、古代人の「死」に対面するに当たっての観念が凝縮したものとして形成されたと考えられる。

流入した中国の思想を果敢に取り込みつつも、独自の形に纏め上げた創造力も感じ取れる。

多くの労働力を投下し、巨大なモニュメントとして「前方後円墳」は成立した。

これらは、日本列島に一つの時代をもたらした記念碑でもある。