近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

大阪府藤井寺市の鍋塚古墳とは!

2011年04月24日 | 歴史
鍋塚古墳は、近鉄「土師の里」駅の改札を出ると、道路をはさんで正面に小さな山が目に入る古墳。

樹木の生い茂ったその姿は、周囲の雑踏のせいか、ややこぢんまりとした印象を受けるが、一辺約50m・高さ7mほどの大形の方墳。





写真は、鍋古墳案内板及び墳丘の様子。

現状からでは確認できないが、濠をともなっていた可能性があると云う。

発掘調査が行われていないため、埋葬施設や副葬品等は明らかになっていない。しかし円筒埴輪列や墳丘斜面に石を葺いた葺石があることが分かっており、墳丘の表面では、家・衣蓋・盾・靫形などの形象埴輪の破片が見つかっている。

この古墳は特に目立つ規模ではないが、埴輪の特徴から古市古墳群のなかでは初期に築造された古墳の一つと考えられ、すぐ西側にある巨大な前方後円墳仲津山古墳(仲津姫陵)との関係が注目される。

鍋塚古墳の周辺には「沢田の七ツ塚」と呼ばれた中小規模の古墳が数多くあったらしい。

ところが戦後の宅地化等の工事のため、次々とその姿を消していったそうで、最後に残った鍋塚古墳が昭和31年に、国の史跡に指定され、現在にその姿をとどめている。

姿を消していった古墳の中に高塚山古墳があり、この古墳は鍋塚古墳の北側にあり、ほぼ同規模の方墳または円墳であったと云われている。

昭和29年の工事に先立つ発掘調査では、6mを超える長大な割竹形木棺とそれを覆った粘土槨が埋葬施設であることが分かったらしい。

内部の副葬品はすでに盗掘にあっていたが、鉄製武器や革盾・農工具類・ガラス小玉・管玉が残っていたと云う。

また、墳丘が姿を消した後の昭和60年に、大阪府教育委員会が近鉄線と府道堺大和高田線の間にわずかに残された空き地を調査し、一段目のテラス面とそこに立てられた円筒埴輪列を見つけた。

鍋塚古墳と高塚山古墳が造られたのは5世紀前葉で、南側にある大形の前方後円墳の仲津山古墳も同じころに造られており、両古墳は、仲津山古墳の陪塚として密接な関係にあったと考えられる。

かつて「沢田の七ツ塚」と呼ばれた古墳の中で現在も地上に姿をとどめているのは鍋塚古墳のみになってしまいましたが、道を行き交う車や人とは対照的に、そのかたわらでひっそりとたたずむ姿を見るとき、悠久の歴史の流れをひしひしと感ずる。