近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

桜井市の纏向勝山古墳詳述!!

2008年11月17日 | 歴史
纏向勝山古墳は、後円部径65m・墳丘長110m強の規模を有する前方後円墳。

今回の溜池改修工事に伴う事前調査で、約200点にものぼる木材・木製品が出土した。

墳丘側から一括投棄された状態で土器片・木屑片などが出土し、中でも手斧による加工痕跡が残る建築部材、丸太状の柱材23点・板材26点などが検出されたと云う。

朱が塗られたモノや付着したモノが多く認められ、墳丘上で執行された何らかの祭祀で使用された後、一括廃棄されたものと考えられている。







写真は上から、纒向勝山古墳現場2点及び周濠から木材出土状況。

当古墳周辺には、卑弥呼の墓との説がある巨大な箸墓古墳、3世紀中頃築造されたホケノ山古墳や3世紀初頭の木製品が見つかった纒向石塚古墳など3世紀代の古墳が集中する。



写真は、本古墳出土のヒノキ材クローズアップ写真。

平成13年の調査で検出された歴史的ヒノキ材で、長さ41cm・幅26cm・厚さ2cmのヒノキ材は、年輪年代法により伐採年代を推定した結果、遅くとも211年までに伐採されたと測定された。

伐採年と古墳築造年代は近いと見られ、古墳時代の年代はぐっと遡って3世紀初め頃と見直され、従来の通説であった3世紀後半から大幅に前倒しされることになる。

今回の大発見で、邪馬台国の女王・卑弥呼の時代は弥生時代とする通説が見直され、“倭国大乱”は弥生時代から古墳時代への過渡期と見られる。

古墳の築造が始まった時期は、卑弥呼が活躍した3世紀前半まで遡ることにより、邪馬台国畿内説が更に有力になったと考えられる。

又100m前後の古墳が当地大和を中心とする地域で次々と造られていったことと合わせ、「邪馬台国は大和である」と云う結論に更に一歩近づいたと云える。