近畿地方の古墳巡り!

歴史シリーズ、第九話「近畿地方の古墳巡り」を紹介する。特に奈良盆地・河内平野の巨大古墳・天皇陵の謎などを取上げる。

楠木正成物語 正成に対する評価の劇的変化とは!

2006年11月13日 | 歴史
正成に対する評価は、大きく振れた。
江戸時代には、忠臣として美談化され、江戸後期には尊皇家によって頻繁に祭祀されるようになり、その動きは明治に入って、湊川神社の創建に結実、又“南北朝正閏論”(南朝か北朝か、どちらが正しい系統かの論争)を経て南朝が正統とされると、正成は大楠公と呼ばれ、各地の神社で祀られるようになった。

「正成は、弱まりつつあった天皇の権威を強化する道具として利用された」とも酷評された。尋常小学校教科書でも、修身教育で正成は忠臣の象徴とされ、挿絵付で紹介されたように、客観的な評価からはかけ離れていった。
正成を祭神とする神戸市の“湊川神社”建設、河内長野市観心寺境内に建設された正成“建掛塔”、高村光雲作で東京外苑の“正成騎馬像”など、正成フィーバーが続いた。

そして1945年の敗戦と共に、呪縛が解かれて価値観は180度転換、教科書の正成美談は墨で塗りつぶされた。
戦前の反動からか、正成はタブー視され、長い無関心の時期が続き、忘れかけていた。





写真は、上から観心寺に保存されている、正成ゆかりの鎧、千早赤阪村郷土資料館に展示されている、正成の兜、及び腹巻。
ところで最上段の写真は、観心寺に残る重要文化財で、正成ゆかりの鎧“藍韋威肩赤腹巻”(あいかわおどしかたあかはらまき)と呼ばれ、戦前には国宝であったものが、戦後は重要文化財に指定替えされた。

しかし戦後も進むと、次第に正成研究も進み、本来の悪党としての性格が強調され、生き生きとした本筋の正成像が甦ってきた。
ということで、中世史の中で客観的に位置づけられるようになり、悪党正成が現代に息を吹き返した。

戦後、国粋主義が嫌われ、国家神道の存在が否定されたにもかかわらず、戦争推進の本尊として崇めたてられた正成像は、何故か破壊されることもなく、存続した。
正成は、あくまで戦争推進派に利用されたということであり、正成に対する公正な評価がゆるぎなく生きながらえたのは、民衆をバックにした正成イズムは混乱期を通じても、不滅であった証しであると云える。