全英連参加者のブログ

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COVID-19 改めて学校文化を考える

2020-11-16 04:00:00 | 気になる 学校の問題

 10年以上前、3番目の勤務校にいたときに「Tradition」を書いた。


 『学校は社会の多様な文化から固有の教育目標に適切なものを選別・編成し、系統的に配列して生徒に伝達する。教科書、教材、時間割、コース編成、特別活動、学校行事などがそれである。しかし、その文化の内容は非常に恣意的なものである。

 『学校的時間・空間の中で学校組織、カリキュラム、教育課程は固有の文化を構築する。そして文化は生徒及び教師に共有され、独自の枠組みで解釈・身体化していく。このように身体化する学校文化は、彼らに意識される部分もあれば、意識されない部分もある。卒業してから自ら特定の学校文化を身体化していることに気づく場合もある。
 (放送大学大学院教科書、『学校システム論 第6章』より)

***** *****

 体育祭における3年生のはたらき。それを可能にしている何か。それは何だろう。
 3年生は、3年生としてリーダーシップとでも呼ぶべき何かを発揮しようとしている。体育祭において誰かから何かを決めてやらされるのではなく、主体的にかつ当然に何かを為そうとしている。2年生、1年生は上級生依存ではなく、上級生である3年生の振る舞いを見て、自分たちの為すべきことを学んでいる。1年後、2年後を何とはなく予見、学習(吸収)している。

<中略>

 これって、やっぱり継承される伝統・学校文化なんだと思う。
 体育祭における3年生のはたらき。これは体育祭という学校行事を通してのみ育むことができる。そこには隠れたカリキュラムとでも呼ぶべきものがある。残念ながらこれを削ることの損失は、授業を少し増やす程度では補いきれないのである。夏休みを短縮して、授業を確保してでも、学校行事が削れない理由である。

<中略>

 いつごろから上級生がリーダーシップをとることが当たり前のようになったのかはよくわからない。かなり昔からのことだとは思うが、定かではない。ただ、いつのことかはわからないが、それがはじまり、引き継がれ、伝統になっている。生徒も、教師も、時代も変わったにもかかわらず、それが残っている。これはまさに、『現在によって再生、変容、再生産された伝統のみが、学校的時間・空間の中で価値あるものとして存在し続けるのである。』だと思う。その学校文化の善し悪しはひとまずここでは書かないことにする。


 令和2年度、多くの学校が個々の行事の中止という形で、学校文化に傷を負った。そしてそれは現在も継続中、深刻化している。感染拡大のためやむを得ざること、それは重々理解できる。しかしあまりにも影響が大きすぎる。
 学校は授業実施・授業確保に全力をあげた。ただ学校は授業だけではない。 運動部の活動が中止になり話題になった。文化部も生徒会活動もできない。感染者の確認により、臨時休校の高校もある。どんなにがんばっても、現在の生徒たちの学校文化の損失は取り返せない。そこから得られたであろうことも。

 社会科見学で得られたであろう、先生以外に何かを教えてくれる人の存在を知ること。教科書に書かれていることが、現実の社会とつながることを実感する機会。
 遠足・修学旅行などHR以外の場所で、クラスの仲間と過ごすことによる気づき。修学旅行で自然、歴史、平和の大切さを知ること。
 大人から見れば「ごっこ遊びの延長」に見えるかもしれないが、文化祭準備に向けて力を合わせること。
 部活動の先輩や生徒会の仲間と、行事に向けて仕事をすること。体育祭で大声を上げ応援したり、運動すること。
 厳粛な雰囲気の中で学校生活を始めること、そして終えること。

 これらの経験は、この複数年、従前のようにはできない。従来と同じことを経験できない学校で、生徒たちは3年間を過ごし、学校を卒業せざるをえない。

 その影響は後々顕在化するだろう。これは大変なことである。


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