Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

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人である聖体 聖体はまことの人である

2018年09月21日 | カトリックとは
人である聖体 

聖体はまことの人である

 礼拝 救い主にして天主なるイエズスよ、私たちは、まことの人なる御身を礼拝したてまつる。御身は聖体の中ではパンの形をおとりになるにもかかわらず、まことの人でおいでになるから、私たちは御身を愛すべき主と呼び礼拝しよう。それは、御身が私たちのひとりとなり、私たちの住まいである涙の谷にくだられ、私たちと同じ境遇の中に生活され、同じ法則に従われ、また同じ艱難辛苦を忍ばれたのが、明らかに私たちに対しての御身の愛のしるしだからである。

 御身がまことの人でいらっしゃる事実は、御身のあらゆる人間的な御慈悲の源である。御身は、父のように私を愛し、母のようにやさしく、忍耐深い友人のように忠実に、兄弟のように親密である。また、御身はよき牧者、よきサマリア人、わが医師、わが慰め主である。また御身は私のいけにえであり、救い主である。すべてこれらの御慈悲は御身がまことの人であるたまものである。

 さらにまた、私たちが御身を知り御身に信頼し、御身の友となって、御身と親密に交わることができるのも、御身がまことの人にましますからである。また、御身が私たちを理解し、私たちの苦しみと誘惑と、堕落と罪とに同情してくださるのも,御自ら人となり、試みられ、いざなわれ、服従し、忍耐し、死に至るまで苦しみを受けられたからである。

 ああ、わが救い主よ、ああ、わが兄弟なるイエズスよ、私たちのような者、私たちと同じ性をわかっておいでになる主よ、御身は私たちのように虚無から造られた霊魂を有して、愛と喜びと悲しみとをお知りになった。御身は母から生まれ、母の肉体から造られた朽ちるご肉身をももたれた。御身は私たちと同じ人生の旅路を歩まれ、御身の心臓は喜びにふるえ、寒暑に苦しみ、けんたいと疲労さえ経験された。

 イエズスよ、御身は私たちと同じ愛、同じ幸福、同じ憎悪、同じ弱さを持っておられた。御身は人々を愛し、人々に愛されることを好まれ、友の忠実を喜び、その忘恩を深くお悲しみになった。

 また、御身は私たちと同じ義務を持たれ、被造物としては創造主を拝し、子としては親に従い、天国の民であると同時に、人間社会の一市民であった。

 ああイエズスよ、まことに人なるイエズスよ、私たちのひとりなるイエズスよ、私たちはまことの人生を持っておられる御身を礼拝し、御身を賛美し、御身を祝福したてまつる。

 私たちは、聖体の秘跡においても、人なる御身を礼拝したてまつろう。御身は私たちが食することのできるパンの外観をもって、私たちと同じ人性を包まれた。しかし私たちは、それが御身であられることを知り、カトリック教会とともに、御身の神性のほかに、ご霊魂も、ご肉体も、御血液も、すべてが聖体の中においでになることを信じている。

 だから、御身は、もはや苦しみと死とに完全に打ち勝ち、したがって聖体の中では、もはやお苦しみになることも死にたもうこともないのであるが、私たちはここに、さらにまことに私たちのような御身、まことの天主にましましてしかも私たちのひとりであられる御身のおいでになられることを知り、御身を礼拝申しあげるのである。ああ、童貞母の御子、まことの人なるイエズス・キリストよ。 Ave verum corpus natum de Maria Virgine!
 
 感謝 これを考えるのは私たちにとってこのうえもない幸福である。私たちは、御身が人として聖体の中においでになり、御身の人性の祝福を私たちにお与えくださることを深く感謝したてまつろう。

 なぜなら天主は御身の人性によって私たちに近づかれたからである。こうして私たちははじめて天主の御姿を見、天主の御言葉を聞き、私たちの手をもって天主の御からだに触れ、天主の愛とご慈愛とを十分に理解することができるようになった。御身のやさしき御顔によって、天主の正義は和らげられ、その御あわれみを私たちに与えてくださった。御身のやさしいくちびるを通して、天主の平和は私たちに伝えられた。御身が十字架上で、お伸ばしになった御腕(かいな)によって、私たちは天主のお許しが真実であることを見た。また御身の柔和と温情と聖心の鼓動とによって、天主の愛は完全に私たちに示された。御身が人性の衣をまとってこの世に来られ住まわれるのを見たとき、人類はもはや天主の御怒りを受けず、大地はもはやのろわれたものではないことをさとったのである。

 御身が人としての生命を聖体によっておつづけになるのは、私たちに以上のことの確信を与えて、私たちをお慰めになるためであった。かりに御身が一瞬間でも人となることを止められるなら、天主と私たちとのつながりは断たれ、天主と私たちとの間には、和解も通いも消えるであろう。その時、天には天主の恐ろしい聖徳と正義の御怒りがあるだけで、地には罪悪と絶望と死とがあるばかりであろう。けれども私たちと似た者、私たちの長兄、私たちの保護者であり仲介者である御身が地上においでになるあいだ、天主は私たちを愛し、私たちに属し、また私たちを守ってくださるのである。私たちの弱ささえも、御身の弱さのために天主のみ旨をそこなうことがない。天主は私たちの罪を許し、御身の五つの御傷から流れ出る御血の絶えない償いを見て、これを堪え忍ばれる。天主は御自身の人性ゆえに、私たちの有する人性を愛される。まさに天主は、御身のいとも清く、いとも聖なる、いとも完全な人性のために、尽きない無限の愛をもって私たちの人性を愛しお喜びになるのである。このように御身が聖体の秘跡の中においても、なお人たることをおやめにならないのは、私たちの救霊のため、罪の許しの保証のため、私たちが天主を所有するためである。

 なお聖体は、私たちが御身から理解され、御身に近づいて交わり、うちとけて信頼することができる権利のしるしである。御身が私たちのひとりとなり、また聖体の中でその存在をつづけられるのは、私たちが御身を私たちのひとりとなし、あらゆる恐れを捨て、あらゆる妨げに打ち勝ち、私たちと御身との距離を忘れ、まっすぐ御身の聖心に行き、そこで休息するためでなくて何であろう。

 御身が私たちに求められるのは、なによりもまずこのことではないだろうか。御身が私たちに与えてくださるものは、この権利ではないだろうか。御身が私たちに送ってくださるものはこのお招きではないだろうか。御身は私たちに対する愛にたえかねて、聖体の中に何があるかを、私たちに示されたのである。すなわち、それは御身の聖心、愛に燃え、温情に満ちあふれた人としての聖心である。

 償い このように人を愛し、しかもそのかわりに、人々の冷淡と反抗と忘恩とのみ受けられたイエズスの聖心を見よう。主の御嘆きと苦悶の叫びとは、まことの人なる主のみ声である。そしてそれによって、私たちは、礼拝すべき主イエズスが、聖体の中で人として認められ、愛されるのを、どれほど望んでおられるかを感じるのである。

 実に主は聖心を傾け、愛と悲しみと苦しみと御血のすべてを尽くして、私たちを愛された。主の愛はほとんど無尽蔵である。主は聖心をからにするばかりに私たちを愛された。しかし、主が愛されたのは、人々に愛しかえされるためである。主が御身を与えてくださったのは、私たちが自分を主にささげるためである。主は報いを望まれる。主はこれをあきらめたもうことができない。

 人間の心は空虚を忍ぶことができない。もしも愛の代わりに愛を受けなければ、苦しみもだえ、悲しみ絶望する。救い主が聖体の中で私たちに示されるのは、このような聖心、本当に人間らしい聖心である。

 だから私たちは、主の聖心のお望み、御苦しみ、ご要求等を拝察して、人なる主をお愛ししよう。そうしないのは、主に堪えられない忘恩をもって報いるばかりでなく、また主に非常な御苦しみを与えることになるのである。聖体の中においでになる主がまことの人であることを忘れてしまうなら、私たちは、私たちの愛に対して感受性をもった生きた人としてではなく、霊魂も生命もない、愛にも冷淡にもむとんじゃくである一個の死物として聖体を取り扱うことになるのである。これが大いなる罪悪でなくて何であろう。なぜならば、これは天主の大いなる御業、大いなる愛を、実際において否定することになるからである。

 ああ、このような罪を犯すことなく、聖体の中におけるまことの人なる救い主に対して私たちの愛を倍加し、いっときも早く人々の冷淡を忘恩とを償いたてまつろう。

 祈願 ああイエズスよ、私たちが御身を愛し、また聖体の中においでになる御身を、御身のまとっておられるおおいにもかかわらず、地上での最愛の御者としてお愛しする恩恵を得させたまえ。御身に対する注意と熱情、忠実とやさしい心づかい、信頼と尊敬とをもたせたまえ。それは御身の思し召しにかない、また同時に私たちの完徳と幸福であるからである。

 実行 聖ひつの前に出たなら、主の御くちびるから『われなり』Ego sum というお言葉を必ず聞かなければならない。 

聖体の黙想 目次

聖体の制定された理由
1  聖体は天主のご托身の継続である
2  聖体は主の聖徳の模範の継続である
3  聖体は救い主のご受難ご死去の記念である
4  聖体は天父に対する最上の賛美である
5  聖体は救霊のみわざの継続である
6  聖体は天主の正義の御怒りを防ぐ楯である
7  聖体はカトリック教会の保護、慰め、浄化である
8  聖体は霊的生活のかてである
9  聖体は私たち各自に対する主の変わらぬ愛のあかしである
10 聖体は地上における愛の中心であって信者の結合の鎖である
11 聖体はキリスト信者の慰めである
12 聖体は地上の天国であって終わりなき生命の保証である

天主である聖体
13 聖体は至聖なる秘跡である
14 聖体は天主である
15 聖体は永遠の天主である
16 聖体は偏在の天主である
17 聖体は御稜威尊い天主である
18 聖体は全能の天主である
19 聖体は至聖なる天主である
20 聖体は至善なる天主である
21 聖体は摂理の天主である
22 聖体は万物の主宰者である
23 聖体は至高の審判者である
24 聖体は慈悲深い天主である

人である聖体
25 聖体はまことの人である
26 聖体は仲介者である
27 聖体は父である
28 聖体は母である
29 聖体は私の兄弟である
30 聖体は霊魂の浄配である
31 聖体は友である
32 聖体はわが助言者である
33 聖体はよき牧者である
34 聖体は霊魂の医者である
35 聖体はわが伴侶である
36 聖体はわが宿主であり、また客である
37 聖体はわがしもべである

聖体礼拝の理由
38 聖体は秘跡のもとに隠れたもう天主である
39 聖体はまことの人イエズス・キリストである
40 聖体は天国における光栄の王である
41 聖体は地上における天主の最大のたまものである
42 聖体はすべての祝福の源である
43 聖体は救い主のご受難の生ける記念である
44 聖体の礼拝は救い主に対する冒瀆の最善の償いである
45 聖体の礼拝はこれに対して犯される罪の最善の償いである
46 聖体の礼拝は祈禱の義務を果たすのに最善の方法である
47 聖体の礼拝はいともたやすく最も楽しい祈りである
48 聖体の礼拝は最も有効な祈りである

聖体の顕示に関する黙想
49 聖体降福式は聖体中の主に光栄を帰する最上の方法である
50 聖体顕示は主の王的主権の表現である
51 聖体降福式は主の勝利の凱旋式である
52 聖体降福式は盛大な感謝の儀式である
53 聖体降福式はご受難に対する最善の償いである
54 聖体降福式は聖体のうちにおける主の御遜りの償いである
55 聖体降福式は天主の御怒りを防ぐ楯である
56 聖体降福式は仲介者イエズス・キリストに捧げる賛美である
57 聖体降福式はたやすく主に祈る最善の機会である
58 聖体降福式はパレ・ル・モニアルで示された主の聖心の御望みにかなうものである
59 聖体降福式に対する義務

私たちの先祖のキリシタンが口癖のように言っていた Lovado seia o Santissimo Sacramento! を私たちも口ずさもう。
「至聖なる御聖体の秘蹟にましまし給うイエズスは賛美せられさせ給え!」

秘跡の中にあって今もやはり堪え忍んでいらっしゃるイエズスのために、いにしえのけいけんなエルザレムの婦人のようにお嘆きしよう。

主のおもてをぬぐい、主の御恥辱をお慰めしたヴェロニカはいないのか。

十字架をになうシモン、十字架の下にたたずむヨハネはいないのか。

救い主の御苦しみをわかつ悲しみの聖母にならう人はいないのか。

ああ聖体の中で、主が同一のご受難をおつづけになるなら、同じお慰めとご同情とが必要なはずではないだろうか。

天主様の祝福が豊かにありますように!
トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)


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