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【聖体の黙想】人である聖体 聖体は霊魂の医師である

2023年06月10日 | カトリックとは

聖体の黙想

人である聖体 

34 聖体は霊魂の医師である

 礼拝 あなたの肉体と霊魂とは無数の病を蔵している。この事実を深く自覚し、あつい望み、けんそんな信頼をもって、いとも親切で力のある医師イエズスを礼拝しよう。主は医師と呼ばれることを望んでおられ、地上でのかつてのご生涯におけるように、今日聖体のうちにおいても、医師の務めを果たされるのである。『医師を要するは壮健なる人にあらずして病める人なり』 Nan egent qui sani sunt medico, sed qui male habent とおおせになった主は、いつもどこででも人間の霊魂と肉身との医師でおいでになる。
 今日世間は重病に伏し、まことに力のある医師を要している。だから、天来の医師がみ手を休められることなく、ししとしてお励みくださるのは、まことにありがたいかぎりである。
 人祖が禁断の木の実を食べてから、病毒は人類の血液中にはいりこみ、諸器官を侵し、血液を腐敗させた。これによって人類は虚弱となり、害毒を受けやすく、その恐ろしい結果として手のくだしようがない難治の病をもつようになった。霊魂の病の本態は、肉身の病よりもいっそうわかりにくい。聖アウグスチノは、『全世界の上に横たわるこの大病人には偉大なる医師が必要である』 Magnus de coelo venit medicus quia magnus per totum orbem terrce jacebat cegrotus. といった。
 主はこの病をいやすために地上においでになった。実に主のご托身それ自身が、すでに根本的に全人類をいやしてくださるものだったのである。主が天主性を、人性すなわち人間の霊魂と肉身とに一致させてくださったことは、そのまま人類を健全な生きた体となされたことである。天主性に一致されたキリストの人性は、すべての病に対する力のある解毒剤となった。イザヤが『われらは主の御傷によりていやされたり』 De livore ejus sanati sumus. といったのは、その意味にほかならない。主はそのご教訓をもって私たちの病んだ知能をいやし、愛をもって私たちの死んだ心をよみがえらせ、秘跡をもって主のすべての御徳とご生命とを私たちの霊魂のうちに循環させてくださる。また医師であるキリストは私たちの肉身をも顧みてくださり、あるいは奇跡によって病をいやしてこれを健康体にし、あるいは聖体拝領によって心の苦しみを和らげて光栄ある復活の御約束の保証を与えてくださるのである。
 『医師を尊め。そは全能の主われらをあわれみ、病をいやさんとて彼らを送りたまいたればなり』 Honor a medicum propter necessitatem ; etenim ilium creavit Altissimus, a Deo est omnis medela. (Ecclus. xxxviii.) と聖霊もおおせになった。医師としての完全な知識と経験とをもって、私たちのすべての病をいやす方法を知っていらっしゃるイエズスをあがめ、そして礼拝しよう。どんな傷にも献身的な愛を示し、またどんなにわがままで恩知らずの病人であっても忍耐を失われない主をあがめ、そして礼拝しよう。私たちは主の治療に信頼し、その処方を忠実に守って、その全知、全能、全善に依頼して少しも疑ってはならない。

 感謝 主が地上のご生涯の間、霊魂または肉体的な病人に、いかなる慈愛と忍耐と熱心とをもって近づかれたかを思うとき、私たちは感謝の心を抱かないではいられない。主は、彼らを訪問し、また彼らが群れ集まることを許された。『病をいやされんとて群集おびただしく集まり来たり』『彼はそのすべてをいやしたまえり』 Magna multitudo languentium ; Et curabantur omnes. とは聖書のところどころに見られる言葉である。ある時は、ただ一言をもって、または手を触れただけで病をいやされた。またある時は病人に近づいて御身をかがめ、肉体の健康とともに、慰藉と信仰、改心と心の平和とを与えてくださった。
 肉体的な病人よりももっと苦しんでいる精神的な病人、すなわち悲しむ者、泣く者たちに対しても、主は彼らをいやそうと約束なさった。その際、主がお求めになったのは、主の御もとに来てその心に信頼し、いっさいの重荷をおまかせすることだけであった。『われに来たれ、すべて労苦して重荷を負える者よ、われ汝らを回復せしめん』 Venite ad me omnes qui laboratis... et ego reficiam vos. と。
 もしあなたが求めるなら、主は今日、より以上のことをしていっそうの愛を示し、私たちのためにその御力を用いて、各人の霊魂のすべての不安、すべての病をいやしてくださるのである。この際のあらゆる薬剤が、たったひとつの偉大な薬のうちに含まれている。それは主ご自身である。主は天主性と人性、ご霊魂とご肉身、御血と御肉、御徳とその御功力とのすべてをもって、ひとつの霊薬をつくり、日々これを私たちに施してくださるのである。アンチオキアの聖イグナチオは『聖体は不死の薬、死の解毒剤、罪を清め悪を追う霊薬である』 Panis pharmacum immortalitatis est, mortis antidotum, medicamentum purgans vitia et omnia pellens mala (S. Ign. Antioch.) といった。
 主の薬は非常に飲みやすい。『天よりの医師は甘味に満てるよき香油もて薬をつくり、われらを見守りたもうに倦(う)みたもうことなし』 In his curans mitigabit dolorem, et unguentarius faciet pigmenta suavitatis, et unctiones conficiet sanitatis, et non consummabuntur opera ejus. (Ecclus. xxxviii.) とあるとおりである。たびたび全快はおそく、不明瞭であり、また病人の不注意と不従順とによって妨げられる。しかし主は、少しもこれを意にかけられず、いつも同じ慈愛と深い心づかいとをもっておいでになり、病人の最後の日までこれを繰り返されるのである。
 ああ慈悲深いよき医師よ、倦むことなく私たちをいやそうと努めてくださる御身に、すべてをおまかせしない者があるであろうか。深い感謝の心を抱かない者があるであろうか。

 償い あなたの霊魂が過去においてわずらったことのある種々の病、また、現在および将来においてかかるかもしれない多くの病について、まじめに、また真剣に、その数、その重さ、その恐ろしさなどを考えてみよう。
 心の中に絶えず燃えている邪欲のほのおは、すべての悪の根源である。あなたはその中に生きている。世間、あなたの呼吸する空気、その他すべての感覚的被造物は、内部の邪欲に呼応して、その忌まわしい火をそそりたてる。だから、もしもほんとうに、あなた自身の腐敗と弱さとをあなたが知ったなら、あなたはどれほど自分を怖れ、同時にどんなに全幅の信頼をもって、慈悲深い医師に信頼することであろうか。
 ところが実際はこれに反して、私たちは彼を無視し、彼から遠ざかろうと努めている。私たちは真の医師よりも、にせの医師を好んで、創造主に求めなければならないものを被造物に求めている。ちょうど福音書の中に描かれている血漏の婦人のように、全信頼をむなしいものに傾けつくして、しかも病はだんだんと重なってゆくのである。
 慈悲深いまことの医師は、私たちのこの狂態を見て、み心を痛められるのである。ああ、いつ私たちは愚かな抵抗をやめ、信頼して彼を迎え、主よりも被造物を愛好するような無礼と侮辱とを改めるのであろうか。
 あなたはまた、自分だけでなく、他の愚かな人々のためにも償いをささげなければならない。彼らは自分の病のために、天主である医師をあなどるだけでなく、彼を憎み嫌い、彼の治療の効果を否定し、単に言葉だけでなく、時には暴力をふるってさえ、彼を他の霊的の病人のかたわらから追い払うのである。聖アウグスチヌノは、これらの人々を、天主である医師を十字架にかけた刑吏と同じように憎まねばならないものであるといったが、まさにそのとおりである。
 しかしながら主は常に慈悲深く、常に親切で、名誉が傷つけられることも、また生命が危害に会うこともすべてこれを意とせず、愛と忍耐とをもって人々の憎悪に打ち勝とうとして、自分を避ける人々のために祈り、彼らによって尊い御血が流されることがあっても、その御血を彼らの救霊のために天父にささげ、彼らのごうまんがくじけ、かたくなな心が和らげられることを願われるのである。主は縛られ、むちうたれ、ののしられ、あざけられ、十字架につけられ、冒瀆されても、ご自身が彼らをいやすためにあまくだった医師であるというひとことしか考えておられない。
 ああいかに不思議な忍耐、献身、けんそん、並びに愛の模範であろうか。私たちはこれをまことにさとってはじめて、愛のいけにえなるいとも愛すべき医師に尊敬と柔順とを誓い、その傷つけられた御稜威にふさわしい償いをなし、み心のお望みになる御慰めをささげることができるのである。

 祈願 福音書中で、あわれな病人、盲、つんぼ、不具者などが、その病をいやされるために主に叫んだ熱烈な祈りを、あなた自身のために繰り返すがよい。彼らの祈りは必ず聞き入れられた。あるいはすぐその場で、あるいはもっと不思議な方法で少しのちに。……このことはあなたの信頼を深めるはずである。
 生まれつきの盲は『主よ、われをして見えしめたまえ』といった。エリコの盲は『われをあわれれみ給え、ダヴィドの子イエズスよ』と叫んだ。カナアンの女は『わが娘は悪魔に苦しめらる』『子犬もその主の食卓より落つるパンくずを食するにあらずや』と祈った。悪魔につかれた子どもの父は主のみ前にひざまずいて、『主よ、わが子をあわれみたまえ、彼は悪魔につかれて激しく苦しめらる』と嘆いた。十人のらい病人は主の御姿を見かけるとすぐに、遠方から手をあげて、『イエズスよ、よき師よ、われらをあわれみたまえ』と願った。これらの祈りをみな、あなた自身の祈りとするがよい。
 もし不信の友だちが、ごうまんと性急との心から、あなたの祈りを妨げるようなことがあるなら、エリコの盲のように、もっと声高く、もっと熱心に叫ばなければならない。だがあなたの祈りは同時に、『主よ、わがしもべ病めり、されどわれは主のわが家の下に入りたもうにたえず、ただひとことをのたまわば彼はいえん』といった百夫長の祈りのようにけんそんでなければならない。
 最後に、ミサ聖祭中、司祭が聖体を拝領するときに『主イエズス・キリスト、われは主の御肉と御血とを受くるにたえざれども、願わくはこの聖体拝領が、わが審判と宣告とにならずして、主の御あわれみにより、かえってわが霊魂と肉身との守護といやしとにならんことを』 Perceptio Corporis et Sanguinis tui, Domine Jesu Christe, quod ego indignus sumere prcesumo, non mihi proveniat ad judicium et condemnationem, sed pro tua pietate prosit mihi ad tutamentum mentis et corporis et ad medelam percipiendam. との祈りの言葉を教会といっしょに唱えるがよい。
 
 実行 私たちの苦痛と傷と病とを、聖櫃中においでになる医師に語り、またその薬である聖体を拝領しよう。

X. Jesus in the Sacrament is the Physician of Souls. 

I. Adoration. 

Adore, with a deep sense of your incurable infirmity, amidst the exhaustion into which the innumerable maladies of your body and soul plunge you — adore with an urgent desire, with the cry of an ardent prayer and of a humble confidence that you will be listened to by the most kind, the most powerful Jesus, under the title of " Physician," which He has willed to take, in which He glories, and the functions of which He has exercised since He came upon earth, formerly in His mortal life and now in His Eucharist. 

" It is not those who are well who need a physician, but those who are sick:" Nan egent qui sani sunt medico, sed qui male habent (Luke v. 15.) And He is the Physician of human nature, of the soul and of the body, of the whole universe and of all times! 

Oh! how sick the world was and in what need it stood of a powerful and wise physician! How sick it still is and how necessary it is that the heavenly Physician, who has undertaken to cure it, should not abandon it but continue towards it His assiduous care. 

Since the day when the first man ate of the forbidden fruit, poison entered into the veins of humanity, deranged its organism, corrupted its blood, rendered it weak, easily susceptible to evil, incapable of being ever radically cured, always exposed to the most terrible accidents, to the most complicated maladies, to the most dreadful results. 

This poison of the mind and the body circulates in the will, in the intellect, in all the faculties, all the passions, where sin has extended its ravages, infecting, disorganizing, corrupting, paralyzing, leading to death and to decomposition, for which there is no remedy. The nature of the sicknesses of the soul would take still longer time to define than even those of the body, which are already incredible. Saint Augustine has well said, " For the great patient who lay stretched out over the whole earth, a great doctor was necessary : " Magnus de coelo venit medicus quia magnus per totum orbem terrce jacebat cegrotus. (Serm. 9. de Verb. Dom.) 

He came and set Himself to attend and to cure. In Himself, first of all, as in its vital principle and in its essential organ, He cured the whole of humanity ; by the contact and the personal union of His divinity with the soul and the body which He assumed He constituted a humanity wholly healthy, living, and perfect ; and of this humanity He made a vivifying principle, a powerful antidote, which cures and restores all men who are inoculated with it. It is thus that Isaias speaks : De livore ejus sanati sumus. 

He inoculates this restorative virus by means of His words, which cure the intellect, by His goodness and His love, which make their hearts revive, by His Sacraments, which penetrate into souls and make His virtues, His dispositions, His life circulate in them. He even cures our bodies, formerly by means of the miracles which restored them to health, and now in assuaging their pangs by Communion, and placing in them the pledge of a glorious resurrection. 

Honor the physician, says the Holy Spirit, for it is the Almighty who has created Him in His mercy to cure us : Honor a medicum propter necessitatem ; etenim ilium creavit Altissimus, a Deo est omnis medela. (Ecclus. xxxviii.) 

Honor then, adore in Jesus, the knowledge and the perfect wisdom of the physician, for He is acquainted by His knowledge and by His experience with all our 
ills and all their remedies; honor, adore in Him the indefatigable devotedness which no wound repels, which no sick man, however rebellious and ungrateful he may be, can ever weary; honor Him and confide to Him your cure, but obey all His prescriptions with scrupulous fidelity, and abandon yourself to His goodness, to His power, to His wisdom, without ever entertaining any doubts with regard to Him. 

II. Thanksgiving. 

We cannot recall to mind, without being touched by it and grateful for it, the goodness, the sweetness, the patience, the earnestness with which Jesus, the Physician of souls and of bodies, applied Himself to cure them during His life. 

He visited the sick, He called them to Him, He allowed them to surround Him, He always had a multitude of them with Him: Magna multitudo languentium ; and He cured them all: Et curabantur omnes. Sometimes by a word, sometimes by a touch, approaching the sick man, bending down over him and giving him, with health of the body, a kind word of encouragement, and often even faith, conversion, and peace of soul. 

To those who were suffering from moral maladies, worse than those of the body, to the afflicted, to the discouraged, to all who weep, He gave His promise to cure them, to raise them up, to renew them, asking them for nothing except to come to Him, to believe in His heart and confidently to cast therein their troubles and their burdens : Venite ad me omnes qui laboratis . . . et ego reficiam vos. He does more now, or if you prefer it, He extends His curative action and exercises it in a manner in which His love shines forth still more brightly. He comes to each particular soul, He visits it and penetrates into it, that He may take account of all the wounds, of all the discomforts, of all the sources of its sufferings. He visits all, penetrates everywhere, to cure all. He comes in person and His visit is prolonged; He stays near the patient, He dwells with him, He applies the remedy. All His remedies are enclosed in one single remedy, which is marvellous; it is Himself, yes, His divinity and His humanity, His soul and His body, His blood and His heart, His virtues and His merits; of all these He has made a remedy, a balm of life and of immortality: Panis pharmacum immortalitatis est, mortis antidotum, medicamentum purgans vitia et omnia pellens mala (S. Ign. Antioch.), and He applies it to the soul, to the heart, to the faculties, to the passions. He returns every day, because He is devoted and assiduous; and each day He applies with the same gentleness, the same condescension, the divine remedy which encloses all virtues, all efficacy. 

Oh ! how sweet is the remedy, how easy to take is the beverage! The Holy Spirit has well said, "The heavenly Physician has made remedies full of sweetness, a perfumed oil, and He will never weary of attending us : " In his curans mitigabit dolorem, et unguentarius faciet pigmenta suavitatis, et unctiones conficiet sanitatis, et non consummabuntur opera ejus. (Ecclus. xxxviii.) The cure is slow, is not very manifest, often counteracted and delayed by the imprudence and the disobedience of the patient; it does not signify! He is never rebuffed, and He returns with the same tender solicitude; He will do so down to the end, to the very last day of the patient's life. 

Oh! charitable and sweet Physician! Who would not have confidence in Him, and who would not thank Him gratefully, for never being weary of curing us. 

III. Reparation. 

Endeavor to see without subterfuge, without illusion, the number, the gravity, the horrible nature of the maladies of which your soul has already felt the mortal attacks, and by which it is always threatened. 

Sensuality is the fire always burning in the very centre of your being, the always purulent source; the medium in which you live, the air which you breathe, the whole sensible creation acts from the exterior upon this internal fire. Oh, if you could but thoroughly comprehend your corruption and your weakness, how you would despise yourself, and with what absolute and humble confidence you would have recourse to the most merciful Physician! 

Instead of that, we keep far away from Him, we despise His remedies; we prefer to have recourse to false physicians, and to seek from the creature what the Creator alone can give us. But, like the woman in the Gospel who had an issue of blood, we spend the resources of our confidence, and our state is continually aggravated: Erogaverat in medicos omnem substantia™ suatn. 

Ah, let us cease from this insane resistance which occasions us so many evils, and gives so much pain to our charitable Physician ; let us give our confidence to Him who deserves it, and do not let us inflict on Him the shame of always preferring the creature to Him. Fili, in tua infirtnitate, ne despicias teipsum ; da locum medico, etenim ilium Dominus creavit; et non discedat a te t quia opera ejus sunt necessaria. (Ecclus.) 

The reparation would not be complete, if you did not deplore the folly and the fury of those who are not content with not having their mortal maladies attended to by the divine Physician, but pursue Him with their hatred, outrage Him, shower furious blows upon Him, chase Him away from sick brethren, denying His skill and the efficacy of His remedies, covering Him with ridicule, and even hindering Him by violence from approaching them. Saint Augustine has stigmatized them by including them in the same anathema with the executioners who crucified their Physician, come down from heaven to cure them: Homines desperate degrotabant, et ipsa cegritudine qua mentes perdiderant, etiam medicum ccedebant, quin et occidebant. 

But, always charitable, always good, taking little account of His honor, or even of His life, dwelling only upon triumphing over hatred by His love and by His patience, He continues to pray for the men who repel Him, and when they cruelly shed His blood, He offers it for their salvation; He makes it flow down upon their heads that it may melt their pride and soften the hardness of their heart: file autem, etiam cum occideretur, medicuserat: vapulabat et curabat ; patiebatur phrceneticum nec deserebat aegrotum; bound, chained, struck at, mocked, crucified, profaned, He remembers only one thing: that He is their physician, and that He desires to cure them : Tenebatur, alligabatur, percutiebatur, irridebatur, suspendebatur, et medicus erat! 

Ohl how these prodigies of love, of devotedness, of patience and of humanity, need to be understood, that the gentle Physician, the victim of His charity, may receive in the respect, the obedience, the fidelity, and the eagerness of His children, the compensations due to His dignity, the consolations desired by His heart. 

IV. Prayer. 

Love to repeat, whilst appropriating them to yourselves, the prayers, the appeals, the redoubled supplications, the cries of anguish and of suffering, which the poor sick patients and the poor afflicted people send up to the heavenly Physician to obtain their cure; and remember, in order to sustain your confidence, that they were always attended to, if not immediately, at least later on, and more marvellously then, that they might be consoled. 

Say with the man who was born blind: "Lord, make me to see!" With the two blind men of Jericho, "Have pity on me, Jesus, son of David!" Cry out with the Chanaan woman: " My daughter is tormented with the demon!" And again, "Lord, help me, do not refuse me the crumbs on which the dogs feed beneath their masters' tables!" With the poor father of the boy possessed by the devil, and who, going down on his knees, exclaimed: " Lord, have pity oh my son, who is possessed by the evil spirit, who afflicts him terribly!" With the ten lepers, who, as soon as they perceived Him from afar, raised their voices and cried out: "Jesus, good Master, have pity on us! " 

If pride, impatience, discouragement of shortsighted friends, wish to dissuade you from continuing your prayers, go on like the blind man of Jericho, crying louder and more perseveringly ! Let your prayer, though it be ardent and earnest, be also humble, like that of the centurion: "Lord, my son is paralyzed and suffers horrible tortures. I am not worthy that Thou shouldst enter into my house, speak only one word and he will be cured." 

Lastly, say with the Church, with the priest who every day repeats it at the very moment when he communicates, the beautiful prayer addressed to the allpowerful Physician: 44 Let not the participation of Thy Body and Blood, Lord Jesus Christ, which 1, though unworthy, presume to receive, tend to my judgment and condemnation, but through Thy mercy may it be a safeguard and remedy both of soul and body: " Perceptio Corporis et Sanguinis tui, Domine Jesu Christe, quod ego indignus sumere prcesumo, non mihi proveniat ad judicium et condemnationem, sed pro tua pietate prosit mihi ad tutamentum mentis et corporis et ad medelam percipiendam. 

Practice. 

To speak of our pains, our wounds, and our ills to the divine Physician of the tabernacle, and often to receive the Communion under the form of a remedy. 


【参考情報】ヴィガノ大司教、ロシアのテレビのインタビューに応じる:平和は、平和の君であるキリストからしか得られない。世界を覆っている脅威は、天主の掟の放棄から来る。

2023年06月10日 | カトリック・ニュースなど

ヴィガノ大司教、ロシアのテレビのインタビューに応じる:政治家らはこう自問すべき「キリストの御前に立って裁きを受けるとき、私はキリストにどう申し開きをすればいいのか?」

--- 平和は、平和の君であるキリストからしか得られない。世界を覆っている脅威は、天主の掟の放棄から来る。

2023年5月14日(主日)

Archbishop Viganò Interviewed on Russian TV

カルロ・マリア・ヴィガノ

「ロシヤ24テレビチャンネル」のためのアルカディ・マモントフのカルロ・マリア・ヴィガノ大司教(前駐米教皇大使)とのインタビュー(以下は、ヴィガノ大司教からザ・レムナントに提供された英訳からの翻訳)【ヴィガノ大司教は元バチカンで勤務していた高位聖職者でした。聖ピオ十世会に所属する修道会の司教ではありませんが、参考情報としてご紹介いたします。】

【問1(アルカディ・マモントフ)】大司教様のお考えでは、誰が、そして何が、ウクライナの宗教対立を誘発したのでしょうか?

【カルロ・マリア・ヴィガノ大司教】まず最初に、このインタビューに招待してくださったアルカディ・マモントフ、ドミトリー・トロポフ博士、そして「ロシヤ」の編集スタッフに感謝させてください。また、視聴者の皆さまにもご挨拶申し上げます。

ウクライナ危機は、何年も前から、ユーロマイダン以前から計画されていたことが、出来事の分析から私たちには分かっています。明らかに、米国のディープ・ステートは、国務省とCIAを通じて達成されたこの体制変革作戦を知らないはずはありませんでした。

主権国家の内政問題を干渉をするようにそれほど簡単に動いた者たちは、宗教問題をウクライナの内部不安定化のための道具と考え、それを実現するために、前もってこの前線に移動したのです。それでは、どうすれば宗教対立を実現できるのでしょうか。単純なことです。ウクライナ正教会をロシア正教会から教会法的に分離して、独立正教会とみなすことによってです。

私たちに分かっているのは、【コンスタンティノープル総主教が】ロシア正教会から離教状態にあったウクライナ正教会を独立正教会として承認するためのインセンティブとして、2018年に米国務省がコンスタンティノープル総主教に2500万ドルを割り当て、バルトロメオ【コンスタンティノープル総主教】が2019年1月にそれを承認したことです。当時、マイク・ポンペオ米国務長官は――正教会の内部問題への干渉によって――ウクライナ正教会に対する米国の支持を表明しました。

【問2】ウクライナにはすでにモスクワ総主教庁の正教会があって、この国の大多数の正教徒の市民を司牧していたにもかかわらず、コンスタンティノープル総主教庁には未承認のウクライナ正教会に独立正教会の資格を与える権利があったのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】私の考えでは、問題は、総主教庁に独立正教会の資格を与える権利があったか「どうか」ではなく、「なぜ」そうしたのか、ということです。カトリック教会で例えるとすれば、先日のシノドスの際に、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ【フランシスコ教皇】によってドイツの諸教区に関して同様の作戦が実行されたように私には思えます。彼【フランシスコ教皇】は、教区が持っていない、また持つことのできない教理的・道徳的事項における自治を認めることによって離教の前提を作り出し、それらの教区の司教は、同性婚の祝福、女性への聖職者の役割の授与、LGBTQとジェンダー・イデオロギーの正当化を承認しました。そして今、一部の少数の司教がこれらの逸脱に対して立ち上がりつつありますが、聖座は沈黙しています。なぜなら、これはまさに自分たちの狙った通りだったからです。

私たちが目撃しているのは、異端と悪徳を広めるためではなく信仰を持つ兄弟を固めるためにキリストが教会の長となさった人物によって実行された破壊転覆的な計画です。彼にそうする権利があるのでしょうか? いいえ。ドイツの司教たちにもその権利があるのでしょうか? いいえ。なぜなら、教皇と司教の権威は、キリストによって教えられた真理に拘束されており、そこから逸脱するやいなや無となるからです。私は、コンスタンティノープル総主教も、同じように、同じ目的を持って、同じ権力に動かされて行動したと信じています。

【問3】キエフのすべての決定が米国との協議の末になされることは、まったく秘密ではありません。今日、私たちはキエフ・ペチェールシク大修道院から修道士が追放されるのを目撃していますが、これは国家自らが擁護する宗教的権利と宗教的自由の原理に違反しているとお思いになりませんか?

【ヴィガノ大司教】キエフ政府による修道士や聖職者、そしてロシア正教会の信者に対する迫害は、この作戦が本質において政治的な性質のものであることを示しています。一方、あなたご自身が認めておられるように、キエフの決定は常に米国のディープ・ステートの指示に従って行われています。もしこの問題が専ら宗教的なものであったのなら、国家はこの問題に口出ししなかったはずです。自らを「世俗的」だと呼び、また国家と教会が独立していて主権を持っていると考える国家ではそうあるべきなのですから。

キエフ政府がウクライナのロシア正教会をロシア政府からの発出物とみなすなら、それはウクライナ正教会自体が政府に従属する国教会であり、そのためにウクライナの信者をコントロールする役割を果たすことができるという確信の表れでもあります。そしてこれこそが、北京が聖座との秘密合意によって行ってきたことなのです。この秘密合意により、親政府・共産主義者の司教たちを教区の長に任命し、ローマ・カトリック教会の信者に対する迫害を平然と続けています。

【問4】ウクライナでは司祭に対する刑事事件が始められており、一部の司祭はウクライナ市民権を剥奪され、小教区は離教者に乗っ取られています――このすべては私たちに何をもたらすのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】このような現象は歴史上常に起こってきました。世俗権力が教会権力に「脅威」を感じるとき、――私が考えているのは、例えば、フランス革命のときや1848年にフランスとイタリアで再び起こったこと、スターリンの共産主義ロシア、1920年代末のメキシコ、30年代のスペインで起こったことです――聖職者への迫害は、世俗の権威が反対意見を抑えようとする最初の方法の一つなのです。一方、キリスト教徒は常に全体主義体制によって迫害されてきました。なぜなら、天主の法を人間の法で置き換えようとする人々にとって、福音は危険なものだとみなされるからです。

【問5】教会の歴史の中で起こった離教をいくつか挙げていただけますか。また、その離教は、どういう結果になったのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】英国国教会の離教という象徴的な事例を挙げてみましょう。これは、まったく神学上の問題から生じたのではなく、ヘンリー八世が、ローマ教皇の霊的権威から逃れて、合法的な妻キャサリン・デ・アラゴンと離婚したいという願望から生じたものです。この現世的権力による霊的権力への抑圧行為によって、この英国の君主は自らを「英国教会の地上における長」であると宣言し、それまで聖座に属していた財産や収入を活用して、司教の任命を思いのままにすることができるようになりました。

同様の作戦が、その数年前にドイツで行われました。ドイツの諸侯は異端者マルティン・ルターを支持しましたが、それは彼らがルターの教理上の誤謬を共有したからというよりも、その誤謬を教会の財産を没収するための口実とみなしたからです。プロテスタントの擬似宗教改革においても、英国国教会の離教においても、世俗権威は自らを、教皇と司教の権威に対抗する教会的権威とし、彼らの権力を弱め、自らの権力を強化しようとしたのです。

【問6】世俗の権威に、教会の問題に干渉する権利があるのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】私はキリストの御言葉でお答えします。「チェザルのものはチェザルに、天主のものは天主に返せ」(マテオ22章21節)。この戒律は、世俗の権威と宗教の権威には、二つの異なる別々の活動分野があることを教えています。つまり、一方では、市民の調和のための国家の良き統治、他方では、信者の聖化のための信者の統治です。一つは現世的、一つは霊的な目的ですが、どちらの権威もやはりキリストをその模範としなければなりません。世俗の政府には王たるキリスト、教会には大司祭たるキリストという模範です。

革命は、メーソン的自由主義の革命と無神論的共産主義の革命の両方がこの社会秩序を破壊し、そのため2世紀にわたって、――またそれ以前にプロテスタントの異端によって分裂したドイツでは、――世俗の権威が教会の問題に干渉してきました。これは、キリストから現世的権力を盗んで、それを民衆から由来するものとした【主権在民】ことが原因です。つまり、一方では、個人を神格化し(自由主義思想が望むように)、他方では、集団を神格化するのです(共産主義思想が望むように)。

今日、私たちは、神学的であるとともに哲学的、政治的なものでもある、この二つの誤謬が同盟しているのを、自由主義的相対主義および経済自由主義を、社会主義的集団主義と結合させた新世界秩序(World New Order)の共同支配(synarchist)エリートの神格化において目撃しています。また、西洋では国家の社会的・宗教的基盤を破壊している、この地獄の同盟は、個人と社会に対するキリストの主権を否定しているため、必然的に反キリスト教的かつ反キリスト的なものです。ウラジーミル・プーチン大統領が最近指摘したように、それは悪魔的なものなのです。

【問7】米国の情報機関は宗教団体をコントロールしようとしているのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】ウクライナの宗教問題にバイデン政権とシークレットサービスがどの程度関与しているのか、私は知りません。その代わりに、近年公開されたジョン・ポデスタのメール[1]から私たちが知っているのは、米国のディープ・ステートがカトリック教会内の「カラー革命」を誘発する上で決定的な役割を果たし、教皇ベネディクト十六世から進歩的な教皇への交代を通じて得られる教理と道徳の変化を期待するという段階にまで至ったことです。思い出していただけると思いますが、ラッツィンガー教皇の退位前夜、世界の金融ロビーがバチカンの銀行取引を封鎖し、2013年2月12日の直後にSWIFTシステムが再稼働しました。ディープ・ステートの行動はディープ・チャーチに助けられており、ディープ・チャーチは、当時のメヘレン=ブリュッセル大司教だった故ゴッドフリート・ダンネルス枢機卿が認めたように、いわゆるザンクトガレン・マフィアによって、ベルゴリオの選出を組織的に整えていました。これは、ベネディクト十六世とは異なり、グローバリズムのイデオロギーに完全に足並みを揃えています。

ですから、私は米国の行為のことを言っているのではなく、米国やNATO、EU、WHO、世界経済フォーラムに属している、ほとんどすべての国で権力を握っている腐敗した破壊転覆的な部分(これは簡潔にディープ・ステートと呼ばれます)の行為のことを言っています。私の考えでは、同じ主張がウクライナについても当てはまるでしょう。ウクライナの腐敗した政権は、明らかにネオナチ過激派に支えられていますが、個人的な利益のためにグローバリストのエリートに服従しています。他方でウクライナ国民は、ミンスク協定を実施するだけで避けられたはずの戦争の最前線で虐殺されています。

【問8】コンスタンティノープル総主教バルトロメオがウクライナの新しい教会に独立正教会の資格を与えたのは、何がきっかけだったのでしょうか? 私たちは、彼が米国務省またはCIAなどの命令に従っていたように感じています。

【ヴィガノ大司教】コンスタンティノープル総主教バルトロメオは、国連とグローバリストのエリートの意向に完全に服従していることがよく知られています。彼がホルヘ・マリオ・ベルゴリオと非常に仲の良い関係にあることは偶然ではありません。コンスタンティノープル総主教座が長い間フリーメーソンの手中にあったことは、よく知られています。アテナゴラス総主教とその前任者であるメレティオス・メタキサキス総主教は、古代スコティッシュ・アンド・アクセプテド・メーソン・ライトの第33階級を授与されており、メーソン界隈では、ヨハネ二十三世もイスタンブールの教皇大使だったときにロッジに所属していたと繰り返し示唆されています。ですからバルトロメオが、米国務省やCIAを支配するディープ・ステートの命令に従って、ウクライナ正教会の独立正教会の資格を、教会法上の理由ではなく政治的な理由で認めたのではないかということは、私には不思議ではありません。これは、1964年にパウロ六世が、1205年に建立されたラテン典礼のコンスタンティノープル総主教座をエキュメニカルな風潮の中で廃止したのと全く同じ理由です。

2009年11月3日、当時のバラク・オバマ米大統領が総主教バルトロメオ一世と会談し、「環境保護」について語り、1990年代にマデリン・オルブライトとビル・クリントンによる失敗した試みの後、トルコのハルキのエキュメニカル神学学校の再開を推進したことを、私は記憶しています。

私が正教会の内部力学を正しく理解しているのなら、ロシア正教会はいわば正教会の「聖伝主義」の部分を構成し、一方、コンスタンティノープルのそれは「進歩主義的」で、フリーメーソンに浸透され、ディープ・ステートに操られ、宗教間対話、さらには環境主義イデオロギーにさえも好意的です。まるで、ベルゴリオのバチカンの「ファナリオット」【イスタンブール・ファナル地区の新興有力貴族層】版を見ているようです。

私が注目しているのは、エキュメニカル運動は、フリーメーソンが望む人類教の到来を準備するのを目的とし、19世紀にプロテスタントから始まり、第二バチカン公会議まではローマ教皇によって厳しく断罪されていましたが、その後は1960年代にカトリック教会と正教会にまで拡大し、それぞれの位階階級のトップに浸透したフリーメーソンを利用したことです。そして、私たちがフリーメーソンについて語るとき、私たちはグローバリストのエリート、新世界秩序のことを語っています。

【問9】特別軍事作戦について、大司教様はどのような態度を取られますか?

【ヴィガノ大司教】近年、ウクライナで何が起こったのか、私たち一人一人が、単純に事実に基づいて理解することができると思います。NATOが東に拡大しないことを約束したのは事実です。ユーロマイダン革命が、米国のディープ・ステート、特にビクトリア・ヌーランドをはじめとする共犯者の支援を受けて行われたことも事実です。ミンスク議定書が尊重されず、またアンゲラ・メルケル元首相やフランソワ・オランド元フランス大統領といった著名な指導者が、その合意の目的はウクライナに武装する時間を与えることであったと認めているのを私たちが聞いていることも事実です。特別軍事作戦の前夜、ロシア連邦がドンバスの自治権とともにルガンスクとドネツクの独立を尊重するよう求めていたことも事実です。プーチン大統領が、キエフ政府の度重なる継続的な侵略からロシア語を話す人々を守ることを決めたのであれば、それは突然起こったことではないでしょう。それどころか、10年以上にわたる挑発行為の後、これがまさにNATOの狙いであったことは明らかだと私には思われます。

【問10】大司教様のお考えでは、誰がウクライナでの戦争を誘発したのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】ウクライナでの戦争は、2014年の「カラー革命」の時から計画されており、自称慈善家のジョージ・ソロスも、グローバリストの陰謀全体とともに、それを知らないはずはありませんでした。一方で戦争を望んだ者たちは、ロシア連邦の代わりにほとんどの欧州諸国へエネルギーを供給しなければならなくなり、次にスキャンダラスな投機作戦で【供給を】乗っ取ることになりました。つまり、現在米国から供給されているガスの価格は、2022年2月以前に【ロシアによって供給】販売されていた価格よりもはるかに高くなっています。

しかし、これは二つの並行した目的のための手段でした。第一は、欧州諸国とロシア連邦の同盟を阻止し、ウクライナで起きたように、またグルジアで彼らがやろうとしたように、「体制転換」(regime change)作戦や「カラースプリング【カラー革命・色の革命・色の春】」によってロシア連邦をバルカン化させた上で孤立させようとしたことです。この第一の目的は、プーチン大統領を引きずり下ろす試みと同様、失敗に終わっています。それどころか、例えばBRICSのような多極化した世界が確立されるのを私たちは目の当たりにしており、その世界では、脱ドル化によって米国が隅に追いやられつつあります。しかし、このプロセスは、私の考えでは、グローバリストのエリートに従属する破壊転覆的な政府の罪の代償を米国民に払わせるものであってはなりません。

第二の目的は、欧州の経済構造を破壊することでなければなりませんでした――反ロシア的な鍵としてだけでなく――制裁がまず最初にEU諸国に対して逆効果となり、EU諸国を弱体化させて、気候変動詐欺に基づく、いわゆる「グリーン移行」を強制するのを可能にすることでした。しかし、これを実現するためには、その前の2年間のパンデミック茶番劇によるドレスリハーサルの後、ホワイトハウスにディープ・ステートの操り人形を置かなければならなかったのであり、そのため、不正選挙でドナルド・トランプ大統領を追い落とすことが必要でした。とりわけ、自分と自分の息子のスキャンダルのせいで脅迫されているジョー・バイデンは、ウクライナの生物研究所への関与や、おそらくは恐ろしい児童人身売買への関与も隠すことに、非常に関心がありました。それは、小児性愛者や臓器捕食、利益の上がる代理母出産市場の国際ロビーを養うためです。

このようなことが可能だったのは、多くの政府の協力の下に実施された、真のグローバル・クーデターがあったからです。その政府の指導者たちは、世界経済フォーラムやその他の超国家的な民間団体の重要な使者であり、これらの団体はみな、国民による正当性を持たない破壊転覆者からなる明確に特定できるボスたちの一団によって管理され、同様に特定できる金融グループの支援を得ています。

西側諸国民は、ごくまれな例外を除いて、グローバリストのエリートに売り払われた支配者たちの人質であり、このエリートは、反キリストの支配の確立に先立つ全体主義的共同統治(totalitarian synarchy)を確立することを目的としています。このことから私たちは、天主、宗教、家族、命に対する憎悪も理解できるのです。

【問11】大司教様は、以前は米国で奉仕していらっしゃいましたね。この国についてどのような印象をお持ちですか?

【ヴィガノ大司教】米国は、他の国々の数千年の歴史と比較すれば、かなり若い国です。このことは、肯定的な面と否定的な面の両方があるということになります。肯定的な面は、国民の良心にある種の素朴さがあることで、この良心は伝統的な「価値」(私は「原理」とは呼びません)、つまり家族、信仰、愛国心に本質的に支えられており、今もそうであることです。否定的な面は、確固たる精神的・文化的継承がないために、しばしば非アイデンティティ思想【非アイデンティティ思想とは自分が所属する団体や宗教や性別を特定しようとしない思想のこと。例えば自分はイタリア人ではなく世界市民とみなす、など】で埋められてしまい、この思想のせいで、支配階級、特に民主党左派を支配するリベラルでメーソン的な思想に汚染されることを許容する傾向にあることです。さらに、米国はどこか「世界の保安官」であるという一種の説得力があり、つまり、他の国々の正当な主権と衝突するという考えがあるのです。ディープ・ステートのクーデターによって引き起こされた経済的・政治的危機は、米国人に深い内的改革の必要性を認識させるのに役立つでしょう。この改革は、ドナルド・トランプ大統領が再選され、この偉大な国を諸国民による多極化同盟に参加させることで解放することができれば、確実に可能となるでしょう。もう一度言いますが、権威こそが、誰も選ばず、誰も望まない破壊転覆的な権力を集中させるための道具ではなく、共通善のために共同体に奉仕するように立ち戻らなければならないのです。

【問12】米国の主要な倫理原理とは、どのようなものでしょうか?

【ヴィガノ大司教】これは、単純であると同時に複雑な質問です。米国の主要な倫理的原理は、私が申し上げたように、フリーメーソンの行き過ぎた力のせいで、建国当初から米国に定着したプロテスタントのメンタリティーに強く影響を受けていると言えるでしょう。米国のカトリック信者は、私は東方正教徒もそうだと思いますが、この考え方で生きることに慣れており、この考え方が、「収益をもたらさない」哲学的な思想や文化に対して、行動や起業による成功を優先させることにつながっています。

プロテスタントのメンタリティーでは、経済的な成功は予定説のしるしであり、その結果、「敗者」とみなされ、天主によって救いに予定されていない弱者への抑圧さえも、事実上正当化されることになります。富が「WASP」(白人・アングロサクソン・プロテスタント)の手に集中していること、また、多くの移民、例えばアイルランド人やイタリア人が、歴史的に常に周縁的な役割を担ってきたことは、偶然ではありません。この傾向は1950年代に好転しました。そのとき、ピオ十二世の栄光ある教皇職のもと、米国のカトリックは大きなリバイバルを経験し、ローマ教会への改宗が顕著に増加したのです。残念ながら、この幕あい的な出来事は第二バチカン公会議で終わりを遂げ、この公会議が、ある意味でカトリックの少なくとも部分的なプロテスタント化を象徴し、米国のディープ・ステートとディープ・チャーチの間のあの邪悪な同盟を生じさせたのです。その代表的な人物の中で、私たちが名前を挙げられるのは、ジョー・バイデン、ナンシー・ペロシ、ジョン・ケリーといった政治家であり、セオドア・マカリック元枢機卿のような教会人です。マカリックの後継ぎは、いまだに教会の各団体に深く入り込んでいます。

ベルゴリオの教会の背教が多くの信者の目を開かせたことは認識しなければなりません。聖伝の信仰を自認する多くの米国人カトリック信者が、FBIが「国内テロリスト」として監視下に置くほど、ディープ・チャーチとディープ・ステートの両方からの共同迫害の対象となったまさにその瞬間に、彼らが再覚醒するのを私たちは目撃しているところです。ウクライナのロシア正教会の状況は、ある意味で、しかしもっと深刻ですが、私が今述べたことを鏡のように映し出しています。

【問13】そして、シリア、リビア、イラク、ユーゴスラビア、ウクライナ…と、世界中で戦争を繰り広げる米国の政治家たちを駆り立てるものは何でしょうか?

【ヴィガノ大司教】申し上げましたように、これらの人々はディープ・ステートに属する政治家であり、すべての国家機関やメディアに浸透しています。彼らは巨大な権力と、ブラックロックやバンガードのような非常に強力な投資グループから資金を得ており、それらはごく少数のアシュケナージ【東欧系ユダヤ人】の手中にあるため、巨大な富も持っています。ゼレンスキーがアシュケナージであるように、彼らの目的は権力です。彼らはすでにお金を作り出し、所有しているからです。この権力は世界的なものにならなければならず、新世界秩序を確立するためには、今日起こっているように、プロテスタントのキリスト教を含むキリスト教の破壊を必然的に必要とするのです。

また、イデオロギーの力と経済力の間には同盟関係もあります。つまり、共同統治の専制政治を確立するために世界を支配しようと望む人々と、利益を上げることだけを目的とする人々との間には、同盟関係があります。この理由で、20世紀から21世紀にかけて米国やNATOが推進した戦争は、ワンワールドの政府と国家主権の取り消しを視野に入れて計画されてきましたが、これらの紛争を、自分たちを豊かにし、他国を弱める巨大な好機とみなしてきた人々、今もみなしている人々によって支持されてきました。ウクライナの議員たちが、キエフ政府の腐敗と、同政府のメンバーの個人的な豊かさ(彼らは、武器売買やその他の不正な活動から法外な金額を受け取り続けています)について不満を訴えていることは、西側諸国の権力の座にある人々が、市民を守るのではなく、重大な利害相反を抱えているということを証明しています。

【問14】米国は善の帝国なのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】今日、この称号【善の帝国】を自分のものだと主張できる国家はないと思いますし、ディープ・ステートの破壊転覆的要素、「目覚めた」(woke)イデオロギー、LGBTQ理論、そして私たちが認識しているすべての倒錯者の人質であり続ける限り、米国がそうではないのは確かです。もちろん、どの国も、善であって善へと向かう「可能性」(potential)を持つ個々の人々で構成されていますから、天主の御摂理によって天主のご計画のために利用される可能性はあります。キリスト教を迫害もしたローマ帝国でさえ、その征服によって、世界に福音を広めるための前提条件を作り出しました。しかし、この任務は、一国の独占的な特権ではありません。例えば、ロシア連邦は、少なくともグローバリズムのイデオロギーが進めつつある慣習の破壊と諸国民の堕落に反対する点で、現在、自らをグレート・リセットに対する障壁として位置づけています。

私の考えでは、権力を集中させることによるのでもなく、同盟国を臣下や植民地に還元するのではなく――NATOはそのように行っていますが、そのようにではなく――、むしろ、個々の国の主権の重要性を再認識し、私たちに共通しているキリスト教の遺産、イエズス・キリストへの信仰によって二千年にわたって促進され実を結んだ文化や文明という共通の財産を再確認することによって、新世界秩序に対する共通の対抗勢力が結集されることが望まれるでしょう。

もし、諸国民がイエズス・キリストを王と認め、国家の法律が天主の掟とすべての人間の心に刻まれた自然法に適合しているならば、諸国民は自らを圧倒する必要はなく、他国に対して力を主張する必要もありません。キリスト教の秩序は、市民が選択する政治体制に関係なく、すべての国民の共通善を守り、すべての国民に真の天主の光をもたらす唯一の秩序なのです。一方、「世俗国家【宗教のない国家】」とされているものは、キリスト教を社会から疎外し、環境保護主義、キャンセル文化、民族代替、健康独裁といったグローバリズムの宗教に置き換えるための詐欺であることが明らかにされています。

これこそが、プーチン大統領がよく口にする「多極化」であり、共通のキリスト教の遺産で結ばれた諸国民のアイデンティティーと自由を尊重することだと私は思います。

【問15】もう誰も罪を避けようとはしないようです。今日の世界では、罪が規範の一部になりつつあるのでしょうか? 何か例を挙げてくださいますか?

【ヴィガノ大司教】罪を避けるということは、超越的な道徳的規範を、つまり天主が法をお与えになる者であることを認めることを意味します。要するに、天主が定められた超自然の秩序の内部で、私生活と公生活を営むということです。この2世紀の間、各国は社会に対するイエズス・キリストの主権を公に認めることを拒否してきました。

キリスト教の西洋は、世俗化のプロセスに対処する必要がありました。このプロセスは、カトリック教会の最高位にまで浸透してきているディープ・チャーチを巻き込み、また実際にディープ・チャーチによって扇動され、第二バチカン公会議によって、私たちの主の社会的王権の教理を実質的に取り消し、4世紀前にプロテスタントの異端によってすでに起こったように、信仰の実践を個人の問題へと矮小化してしまいました。

この世俗化は、個々の信者や市民が掟に従って生きることを助ける社会秩序の喪失を目的としており、それによって不道徳や罪、腐敗の蔓延を助長しています。なぜなら、国家が公徳を守らず、天主の掟や自然法に反するあらゆるものを実際に推進するところでは、宗教の実践に忠実であり続けることは極めて困難であるからです。そして、このことは、社会の世俗化が、キリスト教以外の宗教に自由を保証するという目的を持っていたのではなく、むしろ社会秩序を損ない、法律だけでなく日常生活においても、キリスト教の遺産のあらゆる側面を取り消すという目的を持っていたことの、もう一つの証明です。

【問16】教会におけるあらゆる分裂は、人々が天主から離れることにつながります。LGBTのアジェンダや、以前は罪とされていたすべてのものを正当化することは、有害な影響を及ぼします。

【ヴィガノ大司教】分裂が、革命と混沌のかしらである悪魔の仕業であることは間違いないでしょう。私たちが知っているように、そして信じているように、聖なる教会は一つです。つまり、教会は唯一の教会です。ちょうど、キリストが人間の救いのために地上に置かれた箱舟が唯一であったようにです。教会の体が分裂と離教の傷を負うとすれば、それが起こるのは、人類の敵であるサタンが、できるだけ多くの霊魂を永遠の滅びに引きずり込もうと望んでいるからです。

聖なる教会から離れるということは、私たちが恩寵のために受けた超自然の家族を捨て、敵【悪魔】の激しい攻撃に対して人間の手段で自分を守れると信じることです。それは、天主なる御子においてご托身になり、聖霊によって活かされた永遠の御父の真理を放棄することができると信じることを意味します。しかし、これは重大な高慢の罪であり、悪に抵抗する際に、私たちをさらに弱めてしまうのです。

【問17】ドイツでは、「何よりも大事なドイツ」(Germany above all)というスローガンがありました。ウクライナでは――「ウクライナはすべてに優先する」(Ukraine is above everything)。似ているところが多いと思いませんか? なぜ西側諸国はウクライナ民族主義者を支持するのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】「Deutschland über alles」【訳注:「世界に冠たるドイツ」と訳される場合が多いが、19世紀のドイツ統一を求める動きを反映して、「何よりも大事なドイツ」と解釈することもある。直訳は「全てにまさる【愛すべき】ドイツ」】はハプスブルク帝国の賛美歌にある愛国的な歌詞で、それをナチ党が超民族主義的な鍵で独自のものとしたのです。「国家をすべてに優先させる」という私が先ほど述べたプロテスタントの遺産に合致しています。しかし、オーストリア・ハンガリー帝国がカトリックでありながら、キリスト教の善政の原理に従って、それを構成する民族と文化に自由を認めたのに対し、ナチスの全体主義は、他のすべての人々に対する民族至上主義(アーリア民族の至上主義)を正当化するイデオロギーの基盤を作ることを目的としていました。

【参考】
『世界史の窓「ドイツ帝国」』
『ドイツ国歌第一節 Deutschland über alles の訳をめぐって』

このビジョンは、民族主義の行き過ぎを何十年にもわたって嘆いた後で、今日、さらに破壊的な鍵でカムバックしました。なぜなら、「グローバリズムの宗教」や目覚めたイデオロギー、キャンセル文化に道徳的優位性を認め、この全体主義の戒律に適合しないものはすべて異端とみなされ、それに適合しない者は市民共同体の一員になる価値がないものと判断されるようにするからです。このイデオロギーの主要な理論家たちが、ナチズムの思想家たちと文化的につながり、ある場合には親族関係で結ばれていることは、驚くには当たらないでしょう。例えば、ヒトラーがポーランド、ノルウェー、デンマーク、フランスへの侵攻を計画するのを助けた1940年の「陸軍総司令部参謀本部作戦部」(Operationsabteilung)トップのアドルフ・ホイジンガーは、1961年から1964年までワシントンのNATO委員会の委員長を務めていました。そして、さらに当惑させられるのは、このネオナチ主義の復活が、政治指導者やグローバリズムの著名な推進者の多くを含むアシュケナージ世界によって支持され、資金提供されており、それには、国連ですべてに優先して存在し、米国のディープ・ステートと結びついた親シオニストのネオコン運動が寄与していることです。

【問18】現代において、政治家が意思決定をする際に考慮すべきことは何でしょうか? 政治家は何を根拠に決断を下すべきなのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】政治家の役割は、昨日も今日も、良い統治をすることと、グローバリストのクーデターから同胞の市民を防衛することを決意することです。すべての国のすべての政治家が、区別なくこの任務に呼ばれていますが、特に、自らが新世界秩序の破壊転覆的なエリートの人質となっていることに気づいた政治家が呼ばれています。彼らはこう自問すべきです。「キリストの御前に立って裁きを受けるとき、私はキリストにどう申し開きをすればいいのか?」

私が以前から繰り返してきたことですが、反グローバル同盟を形成することが必要です。この同盟が、新世界秩序の確立、グレート・リセット、アジェンダ2030、およびそのプログラム・ポイントに対する反対と抵抗の行動において、すべての国民とその指導者を結びつけるからです。この同盟は、グローバル・クーデターとその建築家たちを糾弾し、(通貨主権を含む)国家主権を再適用し、破壊的なモデルやライフスタイルを押し付けて個人の自由を侵食するあらゆるものを組織的にボイコットすることをその目的とすべきです。

ジェンダー論という愚かなこと、子どもたちの堕落、家族の解体、キリスト教文明の取り消し、個人の奴隷化に終止符を打つことが不可欠です。また、国家を統治する者が、金融ロビーや多かれ少なかれ隠された権力グループに脅迫されず、国民を裏切ることを可能にする利益相反を厳しい法律で罰することも必要です。

この同盟は、今日、グローバリストのエリートが引き起こした紛争によって引き裂かれている国家間の平和を再確立するための優れた前提になるものであり、また、真実と自由のためのこの戦いにおいて、政府が自らをロシア連邦とその同盟国の敵であると宣言している国々の政治指導者も団結できるものだと私には思えます。

【問19】なぜ人類は、何千年もの歴史を通じて、戦争なしで生きることを学ばなかったのでしょうか?

【ヴィガノ大司教】人類は戦争なしで生きることができますし、そうしたいのです。NATOの戦争屋の指導者に対する民衆の支持の崩壊や、欧州の多くの国々で行われているウクライナでの(他の国々での)戦争に反対する何百人ものデモがその証拠です。しかし、戦争が、正義の再確立や攻撃から身を守るための道具(この場合は正当なものでしょう)としてではなく、むしろ新世界秩序を考慮に入れた専制社会というディストピアモデルを市民の不利益になるように押し付けるための道具とみなされている限り、私たちの誰もがそれから逃れることはできませんし、私たち全員が犠牲者になるでしょう。

繰り返しになりますが、民族間の平和的共存が存在するためには、破壊転覆的なグローバリストのエリートの排除が不可欠です。ドナルド・トランプ大統領も最近このことを言っていますので、このような宣言をすることで同大統領が、ディープ・ステートや、ディープ・ステートの危険な発散物である世界経済フォーラムの使者を、各国政府や超国家組織から追放することを目的とした和平交渉を開くために、プーチン大統領との特権的な対話相手となるように思えます。

【問20】私たちの番組は、ロシアとウクライナの両方で見られることになりますが、最後に何かおっしゃりたいことがおありですか。

【ヴィガノ大司教】司教として、また使徒の後継者として、私はロシアとウクライナの人々に、王たるイエズス・キリストと「キリスト信者の助け」なる天主の至聖なる御母の御名によってご挨拶申し上げます。救い主のご受難、死、ご復活という聖なる神秘をお祝いするこの祝福された時期に、平和を懇願するために信仰をもって祈ってください。この平和は、平和の君であるキリストからしか得られないものです。世界を覆っている脅威は、天主の掟の放棄から来ること、すなわち、私たちの善と永遠の救いのために主がお決めになった永遠の法に対する反抗から来ることを自覚してください。

主はこう言われました。「私なしには、あなたたちは何もできない」(ヨハネ15章5節)。平和の元后に祈ってください。天主の玉座の前で取り次いでくださり、私たち全員のために真の平和、「pax Christi in regno Christi」(キリストの御国におけるキリストの平和)を懇願してくださいますように。慰め主なる聖霊が、すべての国の統治者に真理と正義の感情をかき立てて、統治者に同胞の市民に対する尊厳と忠誠心を飛躍させるように導いてくださいますように。誰も望んでいない権力への服従、誰も選ばなかった権力――その権力の唯一の目的は、キリストをこの世から消し去って、キリストご自身の御血で贖われた霊魂を滅ぼすことにある――への服従から解放されるように、そのような統治者を誘導することができるように祈ってください。

心のうちには、陰謀家の利益ではなく共通善を持つ、誠実で勇気ある指導者を、主が皆さんの中から輩出してくださるよう祈ってください。しかし、親愛なる友人の皆さん、何よりもまず自分自身から始めてください。皆さんの心、皆さんの家族、皆さんの地域社会のすべてに、主が君臨なさるようにしてください。誰も皆さんから主との友情を奪うことはできませんから、天主の聖寵のうちにとどまってください。主は唯一の至高の善であり、どんな逆境にあっても、主が皆さんを聖なる援助のない状態には決してなさいません。イエズス・キリストはこう言われました。「私が命じることを行うなら、あなたたちは私の友である」(ヨハネ15章14節)。見てください、皆さんの心と社会を平和が支配する秘訣は、福音に従うことにあるのです。主が皆さんを祝福してくださいますように。

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[1]ジョン・ポデスタは、ヒラリー・クリントンの2016年大統領選挙キャンペーンの責任者だった。https://en.wikipedia.org/wiki/John_Podesta


英語版 Archbishop Viganò Interviewed on Russian TV

イタリア語版 Intervista di Rossyia 24 TV a monsignor Viganò - Aldo Maria Valli


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アヴェ・マリア・インマクラータ!
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