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【聖体の黙想】聖体は救霊のみわざの継続である

2020年06月16日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より

聖体の制定された理由

聖体は救霊のみわざの継続である

 礼拝 聖体のおおいの下においでになる主イエズス・キリストを私たち人類の救い主として礼拝しよう。主は十字架上で私たちの救霊のために尊い御血をお流しになったが、今もなお祭壇上にあって、絶えず救霊のわざをつづけられるのである。聖体の秘跡のご制定は、もとより御父の光栄のためであったが、それはまた同時に人類の救霊のためでもあった。なぜなら、イエズスが天父に光栄を帰したもう主要な手段は、私たちの救霊であるからである。こうして、主はかつて祈りと説教と、善業とご受難とによって、人々の救霊のために尽くされたように、今日も聖体の秘跡によって同一のことをお続けになるのである。

救霊の事業にいとまなくいそしまれる主のみ姿を仰げ。主はかつて寂しい山に登って幾夜かを夜もすがらお祈りになった。同じように今日、世界中の聖櫃から絶え間なく主の御祈りが天父にささげられる。聖櫃は都市と世界との安全を守る物見やぐらである。

また、主はかつて人々に教えて、信仰、従順、信頼、謙遜、忍耐などの諸徳をお説きになった。同じく今日、聖体の秘跡的状態そのものが、これらの徳の模範を示し、私たちに無言の説教をされるのである。

聖体は、またかつての日のように、私たちを癒し、養い、慰め、私たちに霊的生命をわかってくださる。それも昔のように単なる祝福でなく、実に主ご自身をお与えになることによってである。

最後に、主はかつて十字架上に死なれてこの世を救ってくださったが、今日では聖体が主のご受難ご死去の反復であって恩恵の源泉である。すべての秘跡の効果はもとより、私たちがどんなお恵みを祈り求めてもそれが聞き入れられるのは、みなこの秘跡的犠牲の賜物である。

このように聖体は、その秘跡的状態そのものにより、また、その祈りと賜物と犠牲とによって、絶えず人類の救霊のみわざを営みつづけられるのである。このおおしい忍耐深い大司祭が、ご自分の仕事を終わるとき、すなわち御父からゆだねられたご任務を完全にお果たしになるときは、世の終わりにほかならない。感嘆すべき愛のみわざを仰ぎながら、主を礼拝し、主を賛美しよう。

感謝 聖体によって救い主が私たちの救霊のために、私たちひとりひとりのもとに来てくださる事実をよく考えるなら、私たちの心は、どんなに喜びと幸福とで満たされることであろう。地上でのご生涯の間、主はすべての人々のために一様にお祈りになった。しかし今では私たちのひとりひとりのもとにおいでになり、私の心の中で私とともにお祈りになるのである。主は恩恵と善徳との甘露をもって私を養い、私の心にみ教えを刻みつけるために親しく私を訪れてくださり、尊い御血を私の心の中で流し、御功徳と償いとを全部分け与えて、私のために死にたもうのである。だから私たちはみな、めいめい次のようにいわなければならない。『私は救い主が真実に私の救霊のために努力されることを知り、私の霊魂の中にそれを感じる。私は確かに主のご慈愛と、ご苦心との対象であるから、私は自分さえ主のみわざに一心に協力するなら必ず救霊の御恵みを受けるに相違ない』と。
ああ聖体は、いかに尊い愛のあらわれ、救い主が私を救おうとなさるみ旨のいかに確実な保証であろうか。

主の御あわれみとご慈愛とにふさわしく感謝するために、秘跡の中のそのご忍耐を考えよう。そうすればあなたたちの心に、このあまりにも慈悲深い救い主のみ心に対して、感謝の念が自然と湧きあがるであろう。

償い イエズスはかつて主の御勧めを聞き入れず、救霊の御恵みを退けたユデア人らを激しく責められた。ユデア人はこのかたくなさと忘恩とのために厳罰を受け、主に捨てられることになった。

それでは、聖体の中の救い主のいけにえと御勧めとを拒み、主の愛にそむく人たちの運命はどうなるであろうか。彼らは、主が私たちと一緒においでになって、私たちの心を主のお住まいとなさりたい思し召しを無視し、主が日々全世界の各教会の祭壇で尊いご生命を犠牲として、ご自分を無きものとされるのに、その愛を考えてみようともしない。また、主が御からだを、私たちに欠くことのできない生命の養い、旅路の糧、悩めるときの慰め、罪の償いとして与え、私たちの心をかちえようと絶えず私たちを追い求めておいでになるのに、侮辱と冷淡とをもって主を退けてしまうのである。ああ、主は荒れ狂う波濤のうちに諸人に向かって救霊のみ手をお広げになるのであるが、人々はその御腕に抱かれるのを拒み、主に御悲しみを加えるのである。この忘恩、この不可解な頑固さ、この未曾有の愚かさは、いったい何を意味しているのであろうか。必ず救い主は二千年前にユデア人に対しておっしゃったお言葉を、この世に向かって繰り返されるであろう。『われもし来たらざりしならば、なんじらの罪は軽かりしものを……われを見てなお信ぜざる人々はわざわいなるかな』と。

だから私たちは、救い主が聖体によってお与えになる救霊の恩恵を重んじ、忠誠を尽くしてみ心を慰め衆人の罪を償おう。ことに私たち自身が聖体に対してどのようにふるまっているかを吟味しよう。はたして聖体への奉仕が私たちの生涯の主な部分を占めているか、たびたび聖体を拝領するか、ふさわしい準備と大きな愛をもってこれを拝領するか、聖体拝領の効果を私たちの生活の上に実現しているだろうか、私たちはこれらの点についてよく糾明し、必要な償いをしなければならない。

祈願 第一に、人々の救霊とあなた自身の救霊とのために、聖体の限りない御力に信頼するように熱心に祈ろう。第二に、しばしば聖体拝領をし、効果を結んで主に忠実に仕えるよう恩恵を求めよう。第三に、聖体拝領の効果を妨げるすべての障害、すなわち罪と誤った愛着、危険な機会等を取り除く恩恵を願おう。第四に、聖体が、ますます人々に知られ、尊ばれ、救霊のために利用されんことを祈ろう。

実行 なるべく聖体拝領の回数を増し、もしそれができないなら、聖体拝領の準備をもっと完全にすることを心がけよう。













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