テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
人である聖体
聖体はよき牧者である
礼拝 聖体の秘跡のおおいの下にいらっしゃるよき牧者を愛と感謝の目をもって眺め、喜びをもって礼拝しよう。よき牧者の御名は私たちに信頼と平和の感情を起こさせる。それは私たちがこのよき牧者の忠実な羊である幸福を有しているからであり、あるいは少なくとも忠実な羊であることを望んでいるからである。
イエズスはよき牧者についてご自分から次のように語られた。 『われはよき牧者なり。よき牧者はその羊のためにいのちを捨つ。されど牧者にあらずして、羊のわがものにあらざる雇われ人は、おおかみの来るを見れば羊を捨てて逃げ、おおかみは羊を奪い、かつ追い散らす。雇われ人の逃ぐるは、雇われ人にして羊をいたわらざるがゆえなり。われはよき牧者にしてわが羊を知り、わが羊もまたわれを知る。あたかも父のわれを知りたまい、われもまた父を知りたてまつるがごとし。かくてわれはわが羊のためにいのちを捨つ。彼らは、わが声を聞き、われは彼らを知り、しかして彼らはわれに従う。われはかれらに永遠のいのちを与う。彼らは死なず、またなんぴとも彼らをわが手より奪うものなからん』 と。
主はよき牧者の御職務を安全に遂行された。主のおいでになるまでは、天父の羊は東西にさまよい、おおかみのえじきとなっていた。悪魔が羊の群れを襲ってこれを殺しても、彼らを守る人はいなかった。雇われ人はただ自分の利益だけを目的として、羊の毛を刈り、これを売っては自らを富まし、羊を殺しては自分の食物としていた。彼らは羊の主を裏切り、実は、おおかみの味方であった。しかしよき牧者であるイエズスは、羊を檻(おり)に連れ戻し、彼らのあとを追い、彼らの名を呼び、彼らを愛撫された。また、主は、傷ついた羊を御肩に担い、弱い羊もお見捨てにならなかった。そして羊らをひとつの群れに集めて、天父のもとに導き、御自ら生命を投げうって彼らを守られたのである。よき牧者の任務は、昼夜羊の群れを離れないで、羊と一緒に住み、羊を守り、彼らをよい牧場に導き、よい飼料を与えること、傷ついた羊を看護し、弱い小羊をいたわること、おおかみに対して警戒し、あらゆるぎせいをはらって、これと戦い、羊をおおかみから守ることである。イエズスのご生涯はこの任務のために費やされた。主はこのために何ごとも惜しまれなかった。主は羊らのためには、ご自分の精力と生命とを消耗することを意に介されなかった。
主は羊を呼んでその前に歩み、彼らによい模範を示された。主は彼らに真理の牧草を与え、慰めと希望との水を飲ませたもうた。主は迷った羊のあとを追って疲れ、悪魔のおおかみと戦って、そのためにお倒れになったのである。それでも主は仕事をやめないで、復活ののちに、二頭の迷った羊を追ってエンマウスに急がれたのである。また、ペトロとその後継者とを教会の牧者に任命して、これに羊の群れを託されたのである。
そればかりではない。主は聖体の中に隠れて、いつまでもこの世にとどまり、全世界にわたる大きな羊の群れをいずこにあっても導くために、聖体の数を無数におふやしになった。そして驚くことには、ご自身の肉を食物とし、ご自身の血を飲料として、羊の群れをお養いになるのである。
ああキリスト信者よ、あなたたちの霊魂の牧者、聖体のうちにおいでになるいとも愛すべきキリストを礼拝し、心の底からお愛ししよう。
感謝 以上の真理を黙想するなら、あなたの霊魂は主の愛を感じ、自然に感謝の思いに満たされるであろう。イエズス・キリストは私たちの創造主であり、私たちの審判者でいらっしゃるのに、私たちに対して自分から牧者と称される。これほどありがたいことがあるであろうか。
牧者は、一般に単純な、善良な、忍耐深くて謙遜な人である。この職務は罪悪に満ちた都会から人を遠ざけ、短期粗暴の性質を和らげる。牧者は、自分の小屋、自分の寝床を捨てて、昼夜を分けることなく羊といっしょに住み、常に彼らを守り、決して彼らを離れない。群れの中に傷ついたものや、ふとりすぎて歩けない者や、あるいは生まれたばかりの幼いものがあれば、彼は忍耐強く自分の歩調をゆるめて付き添っていくのである。そういうものがいれば、いっそう群れの上に注意の目を向けて、弱い羊をいたわる。羊らが彼の声を聞いてその周囲に集まり、彼の手から牧草をもらい、彼のふところに抱かれて眠るのは彼にとってこの上ない喜びなのである。
いともやさしき牧者なるイエズスよ、主はこのように私たちに対してふるまわれるのである。昔、ヤコボとダヴィドとは、自からよき牧者ととなえたが、彼らは主のきわめて不完全な象徴にすぎなかった。しかし主は昼夜聖体のおおいの下から羊の群れを守ってくださる。詩篇に 『イスラエルを守る者はまどろむことも眠ることもなし』 とあるとおりである。また、主は聖体拝領に際して、私たちを御胸の中に抱いて、御胸の上にいこわせてくださる。私たちはこの時、司祭によって代表された主の御手から天よりのパンである主の御肉、力を強める主の御血を受けるのである。このように主は、主の御徳と功力と無限の富とをもって私たちの弱さ、冷たさ、および貧しさを補ってくださる。
いとも愛すべき牧者よ、私たちのもっているもので、主から受けなかったものがなにかあるだろうか。願わくは、主をふさわしく祝福することのできない私のかよわい力のすべてをもって主を祝福させたまえ。
償い よき牧者の報いは、群れが安全に生命を保ち、すこやかに育ってその数を増すことである。私たちの尊い牧者も、もし私たちがその御生贄(いけにえ)によって少しでも利益を受けるなら、ご自分の苦労を少しも心にかけず、かえってもっと多く苦しもうとさえお望みになるのである。
しかし実際はどうであろうか。多くの羊は主の熱心なご注意を無視し、自らおおかみの牙の餌食になろうとしている。多くの不従順な羊は主の御戒めにそむいて、世間と肉と虚栄とが与える偽りの牧草と水とを飲食し、自分の健康をそこねている。また他の者たちは、主によって遠方から連れ戻され、深い痛手を癒していただきながら、再び罪悪の道に帰り、慈悲深い牧者を打ち捨て、忘恩によって聖心を傷つけ、主の愛をむなしくするのである。
あなたはこれまで、はたして忠実に従順に牧者の御声に聞き従ったであろうか。もしあなたが過去において不忠実な、恩知らずの羊であったなら、それを嘆き、まじめに決心して主の御もとに立ち帰り、たとえ、それがどんなに美しくこころよくみえても、あなたを罪悪に導くあらゆる生活様式を避ける決心をしよう。最後に、愛にあふれるこの尊い牧者の聖心をお慰めするために、多くの不忠実な羊にかわって、さらにいっそう従順にその御導きに自分をゆだねなければならない。
祈願 祭壇上においでにあるイエズスを仰ぎ、心よりの信頼をもって聖トマの祈りを繰り返そう。
よき牧者よ、まことのパンよ、
イエズス、われらをあわれみたまえ。
われらを養い、われらを守り、
とこしえのいのちの国の
宝をば示したまえ。
BONE pastor, panis vere,
Iesu, nostri miserere:
Tu nos pasce, nos tuere:
Tu nos bona fac videre
In terra viventium.
実行 これからはよき牧者の御導きに従い、信頼してわが身を主におまかせしよう。