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聖体は仲介者である

2020年05月26日 | カトリックとは
テニエール神父著『聖体の黙想』 (1953年) (Révérend Père Albert Tesnière (1847-1909))より【アルベール・テニエール神父は、聖ピエール・ジュリアン・エマールの創立した聖体修道会の司祭で、聖体修道会の総長(1887-1893)も務めた。】
 
人である聖体
 
聖体は仲介者である
 
 礼拝 たとえホスチアの陰に隠れておられても、信仰の目にはきわめて明らかにみ姿を示される天主にして人なる私たちの主イエズス・キリストを、天主と人との間の仲介者として礼拝しよう。
 
 天主にして人なる御ありさまのうちで営まれる仲介者のご任務は、主にとっていちばん大切なお仕事である。なぜなら、これこそ宗教の本質であり、天主に最もふさわしく、同時に人間に最も必要なものであるからである。すなわち天主は、仲介者なるキリストによって、その正義を満足させ、無限の御稜威に対してささげなければならない宗教の務めを私たちに尽くさせ、また人は仲介者によってはじめて罪の赦しを受け、天父と和睦(わぼく)し、天主に嘉納される確信をもって、主に仕えることができるからである。
 
 人が罪を犯してから、天主は天主と人との間に存在していた愛のつながり、すなわち恩恵のつながりを切断された。本来人間は、自分を自然以上にあげる恩恵の助けがなければ、天主の御もとに至り、天主を賛美し、天主に嘉納されて、天主を所有することができないのである。ところが一方にはお怒りになる天主があって、これに対して他方には永遠に天主から分離した罪人がある。これが原罪によってもたらされた状態であった。天主と人間との間にあったのは、単に無限と有限との差だけではない。それよりもっと大きい差、聖なる御者のみ前において汚れた者、愛のみ前においての忘恩者、傷つけられた正義のみ前において償いをすることのできない者、これが天主と人間との間に横たわっていた距離である。
 
 天主の御子は、この深い淵(ふち)をうずめ、この相隔たる両岸をつなぐ橋とおなりになった。それは、御托身、すなわち天主たることをやめず人とおなりになったことによってである。私たちはこの御托身によって、主において人性と天主性とが和睦し、一致し、天主と人、無限と有限とがひとつのペルソナにおいてひとつとなられるのを見た。
 
 キリストの中における人性は、私たちの人性と同一であって、これを代表するものである。そしてこのキリストの中での尊い人性は恩恵と天主の愛とに満たされ、天主の生命、天主のあらゆる完徳と無限の幸福とを受けられた。そしてあらゆる人類にかわって、天父に罪の赦しを願い、そのために十分な償いをされた。すなわち、これが、御父におささげになった主の完全で無限の価値ある宗教的ご任務である。み言葉のペルソナは、キリストの人性に無限の価値を与えるから、この人性は御父のみ旨にかない、天主の無限の御稜威にふさわしい愛と尊敬とをおささげになることができるのである。
 
 だからこの尊い仲介者を礼拝し、感謝し、賛美しよう。キリストが人と天主との間の仲介者であるのは、単に一時的なことでなく、またある特殊なみわざをなさるときにかぎるのでもない。いや、それは御托身の後、永遠に、常にそうである。なぜなら、キリストは永遠に、常に、天主にして人に在(ましま)すからである。
 
 さきに説明したように、み言葉の御托身が、すでにそれ自身、仲介者であることである。主は、ほかになんらかのことをなさらなくても、すなわち、私たちのために天父に御あわれみを請い、償いをささげ、大司祭として祈らなくても、天主にして人に在す事実だけによって、永遠に天主と人間との仲介者でいらっしゃるのである。それは主のペルソナの中には、天主性と人性とが和睦し、一致して存在されているからである。
 
 聖体の中においでになるのは、この生きた天主の人キリストである。それで私たちは主を礼拝し、自分を主にささげ、主の仲介者の利益を受けるために祈らなければならない。
 
 感謝 イエズス・キリストの仲介の利益の第一は、これによって不可能事がなくなったことである。私たちは、イエズスの仲介によって、私たちの超自然的目的であり永遠の幸福である天主をたやすく見出すようになり、また天主に対する信心の不足と貧しさと不完全さとを絶えず補うことができるようになった。実際私たちは、たとえ恩恵の御恵みに浴し、思いのままに救霊の手段をとることのできる身であっても、主の仲介がなければ主にふさわしく仕えることは不可能である。
 
 その理由は、天主は無限に神聖で、天主に対しての奉仕は無限に完全でなければならないのに、私たちはこの奉仕を可能にする恩恵に、十分にまた常に一致していくことができないからである。尊い仲介者なるイエズスは、このような私たちの不足を補ってくださるのである。主は、主おひとりのためだけではなく、私たちすべての名において祈り、苦しみ、功徳(くどく)を積み、この測り知れない御功徳をことごとく私たちの上に注がれる。しかも主は、この愛深く、慈愛あふれるみわざを、尊い聖体の中において、うまずたゆまず、世の終わりまでつづけられるのである。
 
 パンとぶどう酒との外観のもとに死の状態をとり、祭壇上にご自身を供えられることによって、主は、毎朝この礼拝、償い、祈りの犠牲を新たに天父にささげられる。これこそ主の仲介の大いなるみわざである。しかも主は、父の御あわれみをただ一時的に請い求められるばかりでなく、天主の光栄、私たちの救霊のために供えられた生贄(いけにえ)の状態で、常に御身を天父の御目の前に横たえられるのである。
 
 だから天父は、謀反人(むほんにん)なる私たち、不敬な私たちをながめられるとき、同時にこの最愛の御子、天主にして人なるイエズスをごらんになるのである。ここにこそ私たちの救いがあり、富がある。だから、私たちはこのあわれみ深い仲介者を常に賛美しなければならない。
 
 償い 私たちはこのようなあわれみ深い仲介者の功力を無視し、主の多大な犠牲をたびたび無意味にささげている。人間はとかく、天主のご助力なしに事をするのを好み、自分にのみたよっているが、これは傲慢(ごうまん)の結果であって、実に憎むべき盲目といわなければならない。すべての罪の出発点は傲慢である。傲慢者は天主を忘れ、創造主の権力を退けひたすら自力をもって成功しようとする。このように超自然を認めないで、天主を恐れず、イエズスのご教訓と、ご模範とのいっさいを顧みない人々については特にいう言葉がない。それは聖なるものを汚すことであり、主の仲介に対する完全な拒絶であるからである。しかしこの礼拝すべき仲介者を全く無視するまでに至らなくても、主のご助力を軽々しく考える人がどれほどあるであろうか。彼らは祈りを好まず、たびたび聖体を拝領せず、何ごとをするにも自然の動機に従い、天主の思し召しに無関心であり、またほんとうに天主に依頼しない。彼らはまたイエズスを自分の生活の中心とせず、自己の霊魂の中にイエズスを宿らせないのである。このような人々は、イエズスのいつくしみ深い仲介をないがしろにする名ばかりの信者であって、主は最後の審判の日に必ず彼らに厳重な清算を求められるであろう。だからあなたは適当に自分を省み、救霊のために欠くことのできない尊い仲介を最もたいせつに利用すべきである。
 
 祈願 何ごとを決心し、何ごとを求め、何ごとをするにも、すべて私たちの主イエズス・キリストによってこれをなし、万事において主のみ旨を求め、どんな計画を立てるに際しても、必ず、第一に自分の考えを告げ、これに関した誘惑、恐怖、希望などを主に打ち明け、必要な恩恵を請い、繰り返し主に祈り、主の有力なご助力をお願いしよう。できるだけ親しく主と一致し、主に依頼し、困難に際しても落胆せず、また主のお助けがおくれることがあっても決して失望してはならない。たびたび主を思い出し、あなたの意向を清めよう。
 
 こうするなら、あなたは決して孤独ではない。またあなたの仕事はむなしくならず、すべてが聖にして、永遠のためによい実を結ぶものとなるであろう。なぜなら、それらのわざは、みな天主と人との間の唯一の仲介者なるイエズスとともに、イエズスにおいて、イエズスによって、霊感を与えられ、遂行され、完成されるからである。
 
 実行 あなたの行なうすべてのわざを主にささげ、天主である仲介者のいつくしみ深い御助けのもとにおこう。







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