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ケネディー・ホール著「SSPX: The Defence」まえがき:ガニョン枢機卿「彼らのシステムは世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」

2023年06月23日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

最近ケネディー・ホール著「SSPX: The Defence」が出版されました。

この本を、著名なマー神父(Father Charles Murr)がまえがきをかいて、推薦しています。マー神父は、ガニョン枢機卿の親友でした。ガニョン枢機卿は1987年に公式の教皇視察として、エコン神学校を訪問しました。枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロ二世への公式報告の中で、聖ピオ十世会、特に聖ピオ十世神学校を次のように賞賛しています。「私がこれまで見てきた中で、最も素晴らしい哲学と神学の学習プログラムの一つです…思い出してください。私は何年も神学校の校長をしていたのですから」。

「彼らのシステムは、世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」。

マー神父の書いた「まえがき」foreword written by Fr. Charles Murr の日本語訳をご紹介いたします。

「SSPX: The Defence」で、私の友人であるケネディ・ホールが、困難ではあるものの崇高な仕事に取り組んでいます。彼はマルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会(SSPX)に関する多くの質問に答えることを思い切って行いました。驚くべきことに、この二つのテーマに関する問い合わせは、今日、以前よりもはるかに多くなっています。その理由は、極めて皮肉なことですが、教皇フランシスコが聖伝のラテン語ミサ(TLM)を、敵意を持って攻撃していることが大きいと思います。さて、尋ねられている多くの質問(中には鋭い批判の形もあります)は、実際には二つに集約されます。つまり、ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会を設立したときに表明した意向はどんなものだったのか、そして、聖ピオ十世会の現実の状態と法的な(教会法上の)立場はどうなのか、ということです。

「ディスインフォメーション(Disinformation)とは、ロシア語のDezinformatsiyaを文字転写したもので、マルクス主義を作った者たちや発展させた者たちによって、世論を惑わすことを目的とした偽りの報道の流布(報道、ラジオなどで)と定義されます。この言葉は、今や私たちの辞書に欠かせないものとなりましたが、当初の鋭い点はかなり鈍化しています。ディスインフォメーションは、今や、私たちの中で「目覚めた」(woke)人々が不快に思うあらゆるニュースの総称となっているのです。(同様に、ディスインフォメーションのいとこである「ヘイトスピーチ」は、リベラル派が特に好まないものを意味します)。しかし、1968年の文化的反乱以前に生きていて物を考えることのできる年齢だった私たちの多くは、この矛盾した響きを持つ表現を初めて聞いたときのことを覚えています。私が初めて「ディスインフォメーション」という言葉を聞いたのは、リトアニア人の司祭が、1947年以来のヨージェフ・ミンゼンティ枢機卿の「見せしめ裁判」の詳細な内容を語る説教の中だったと記憶しています。1960年代初頭のことです。私は11歳か12歳でした。第二次世界大戦の終結(1945年)からソビエト連邦の解体(1991年)に至る、西洋文明とソビエト共産主義の間が強固に深く凍り付いた状態の「冷戦」の真っ最中でした。

では、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会に関する本のまえがきにおいて、「ディスインフォメーション」についての議論とは、何のことなのでしょうか。まあ、何でもありということです。

嘘をつくこと、すなわち、虚偽を流布する「技術」は、聖ピオ十世会の発足時から今日に至るまで、聖ピオ十世会を批判する者たちの「手口」(modus operandi)です(本書の読者なら、すぐに自分で発見するでしょう)。大司教とその弟子たちを中傷することは、1960年代から70年代にかけて、バチカンの二人の非常に著名で強力な高位聖職者の継続的な「務め」でした。ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿(バチカン国務長官)とガブリエル=マリー・ガロンヌ枢機卿(バチカン神学校・大学聖省長官)です。この二人のフランス人は、現実のものと来るべきものの「新秩序」を体現しているように見えました。彼らは間違いなく、近代(主義者)の教会権力の体現者であり、部下たちのために、歩むべき正しい方向、持つべき正しい態度、持つべき正しい選択肢を示しました。外交的に言えば、ヴィヨとガロンヌは、「政治的正しさ」(political correctness)が庶民的で俗なものになるずっと前から、「政治的正しさ」そのものでした。彼らは死ぬまで、兄弟である司教かつ同国人【ルフェーブル大司教】に激しく反対しました。アンニバーレ・ブニーニと彼の最新の典礼上の創作物からの十分な援助を受け、「新しい神学」(nouvelle théologie)の地平を広げるために、ヴィヨとガロンヌは、まさに「教会クーデター」(coupe-d’église)を引き起こすのに貢献し、その影響は今日でも感じられるものです。

どうしてそんなことが私に分かるのでしょうか。しかも、そんなことを言うとは、私は何者なのでしょうか。

73年間、天主のご寛容と御あわれみにより、天主は、私に最も魅力的で退屈しない人生を与えてくださいました。真の友や偽の敵から、偽の友や真の敵、そしてもちろん、どこにでもいる中間的な人々まで、常に多彩な人物に囲まれながら、天主は、何度も素晴らしい場所に私を植えられ、根を抜かれ、再び植えられました。しかし、私がこの世で過ごしたすべての時間の中で、最も輝いていたのは20代の10年間でした。1971年から1980年まで、私はローマに住んでいました。そのうちの後半の5年間は、大学院で勉強を続けながら、バチカン広報局で働いていました。

1974年、私は、私の人生の行く道を形成することになる、二人の傑出した紳士と友人になりました。ラヴェンナ出身の司祭マリオ・マリーニは、バチカン国務省の「書記」(minutante)でした。(彼は後に、典礼秘跡省長官となり、同時にエクレジア・デイ委員会の委員長となります。)マリーニはすぐに、教皇庁家庭評議会議長のフランス系カナダ人、エドゥアール・ジョゼフ・ガニョン大司教を私に紹介してくれました。(ガニョンは枢機卿となり、1987年には教皇ヨハネ・パウロ二世から派遣されて、エコンでマルセル・ルフェーブル大司教と会見する[1984年]ことになります。)1977年、マリーニ、ガニョン、私の3人は、ジャニコロの丘に近いレバノン人居住区に一緒に住むことに決めました。私は、天主がこの2人の偉大な人物をご自分のもとに召されるまで、2人の近くにいました。ガニョン枢機卿は2007年、モンシニョール・マリーニは2009年のことでした。

私の友人マリオ・マリーニが怒っているのを見ることはめったにありませんでしたが、私の心に強く残ったのは、聖マリア大聖堂での私の初ミサのときのことでした。私はボルゲーゼ礼拝堂にある、エウジェニオ・パチェリが初ミサを捧げた祭壇で初ミサを捧げることになりました。マザー・パスカリーナは、私がミサのローマ典文用に使うことのできる教皇ピオ十二世の白いミサ典礼書を私に貸してくれると申し出てくれました。しかし、メキシコ学院の校長(当時の私の法的な長上)が抗議してきました。彼は「ルフェーブル的・異端的」な儀式には、一切参加しないつもりでした。この小心者は、その貴重なミサ典礼書を使うと私の初ミサは無効になる、と主張しました。

マリーニは憤慨しました。「ピオ十二世のミサ典礼書が異端の烙印を押されるなんて、誰が想像できるでしょうか。これはまさしく狂気です」。

ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿とガブリエル=マリー・ガロンヌ枢機卿が流したルフェーブルのディスインフォメーションの一部を知ったのは、ガニョンとマリーニを通じてでした。この2人のフランス人、特にヴィヨ枢機卿は、親仏派の教皇パウロ六世に話を聞いてもらえることから、フランス司教団に大きな圧力をかけていました。さらに、ヴィヨがもう一人の「気の合う」バチカンの高位聖職者である司教省長官セバスティアーノ・バッジョ枢機卿と目と目を合わせていたことも気になりました。バッジョは、フランス司教区の司教候補者はすべて、ヴィヨの支持を受ける現代思想の持ち主であることを特に確認しました。フランスのカトリックを解体するのに数年かかりましたが、ついには、フランスで統治するすべての司教は、「自由思想の」進歩派となったのであり、彼らは、ルフェーブルと聖ピオ十世会を、やがて――できればすぐにでも――ただ消えてなくなる宗教的・社会的反動派とみなしていたのです。

ヴィヨ国務長官は、バチカンのすべての省、部署、評議会、委員会が「エキュメニズム」に関心を持ち、第二バチカン公会議の新しい精神に心を開くかもしれないカトリック以外のあらゆる団体と「対話」していることを確認しましたが、バチカンとエコンの間の対話を進めることは何もしませんでした。それどころか、彼はそれに反対していました。国務省「書記」のモンシニョール・マリオ・マリーニと国務省人事部のトップ、モンシニョール・グリエルモ・ザンモーニによると、誰かがルフェーブル大司教の話題を持ち出すことほど、ジャン=マリー・ヴィヨ枢機卿の怒りを迅速かつ明白に買うことはありませんでした。1979年に亡くなるまで、このフランス人国務長官は、ルフェーブル大司教がフランスの司教団から排斥され、聖職(a divinis)の停止処分を受けたことに満足していたようです。ヴィヨに関する限り、「ルフェーブル事件」は終わったこと、済んだこと、対処すべき頭痛の種が一つ減ったこと、そして、それは「彼らが言うように」(comme on dit)でした。

ヴィヨが永遠の眠りについたことで、彼の長年の部下だったアゴスティーノ・カサローリ大司教は、彼の脱いだ靴を履こうと躍起になっていました。カサローリは、長年にわたって沈黙を守り、事務職を務め、臭い灰皿からゴロワーズ【フランスのたばこの銘柄】の吸い殻を空にする作業を続けましたが、自分の考えを話し、自分なりの「東方外交」(Ostpolitik)の解釈を広め、ソ連とその衛星国との対話神話に真の弾みをつけようと懸命になっていました。そして今や、新しいポーランド人教皇の支持を得て、この小さな事務職員が征服できないほど高い山はないように思えました。

というわけです。カサローリは、元の長上と同様、「ルフェーブル派」(Lefebvristi)との間にある物事を解決することに興味はありませんでした。全くなかったのです。

しかし、新教皇ヨハネ・パウロ二世は、ルフェーブル大司教と合意(a meeting of the minds)を得たいと思いました。教皇は和解を望んでいました。キリスト教の一致を維持(または再確立)することを望むのは当然ですが、聖ピオ十世会ほど、力と数を増しているカトリック共同体は他になかったのです。

私の非常につまらぬ意見では、教会の中には、また当時は、ジョバンニ・ベネリ枢機卿以上に、教皇ヨハネ・パウロ二世が実現したいと望んでいた、この崇高な目標を、また他の多くの崇高な目標を教皇が達成するのを助けることのできた人はいなかったでしょう。そして、このことを、教皇ヨハネ・パウロ二世以上に、そしてもちろんジョバンニ・ベネリ自身以上によく知っていた人はいませんでした。しかし、フィレンツェを離れ、国務長官としてバチカンに戻るという教皇の要請を受け入れてから2週間もたたないうちに、一見元気そうな61歳のジョバンニ・ベネリは致命的な心臓発作を起こし、1982年10月26日、フィレンツェで死去したのです。

沈痛な面持ちの国務長官代理アゴスティーノ・カサローリ枢機卿は、教皇ヨハネ・パウロに悲報を伝えました。数日後、教皇は彼を国務長官として承認しました。

1987年11月上旬、私のもとに1通の特別送達の手紙が届きました。バチカン市国からのものであることは、郵便局員が切手収集のために封筒の右上隅を破っていたので、すぐに分かりました。(メキシコではよくあることです。)エドゥアール・ガニョン枢機卿の手書きの手紙はまず、特別に祈ってほしいというものでした。彼は、自分とヨゼフ・ラッツィンガー枢機卿は、教皇と何度も会っていると書いていました。話し合いの話題は、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会の不安定な状況についてでした。その結果、教皇ヨハネ・パウロ二世は、ガニョン枢機卿に、スイスに行ってルフェーブル大司教と話し、聖ピオ十世会を、特にその神学校を調査するように命じました。

ガニョン枢機卿は、後にニューヨークで私に説明してくれたように、11月11日(1987年)にエコンに到着し、12月9日までそこに留まりました。彼はルフェーブルに聖座の提案、すなわち、第一に、聖ピオ十世会の存続を保証するためにルフェーブルが1人だけ新司教を聖別するよう説得することに失敗しました。4人ではありません。しかし、彼(ガニョン)はこのミッションを完全に失敗だとは考えていませんでした。教皇ヨハネ・パウロ二世への公式報告の中で、彼は聖ピオ十世会、特に聖ピオ十世神学校を次のように賞賛しています。「私がこれまで見てきた中で、最も素晴らしい哲学と神学の学習プログラムの一つです…思い出してください。私は何年も神学校の校長をしていたのですから」。彼は聖ピオ十世会の神学校をさらに詳しく評価しました。「彼らのシステムは、世界中のすべての神学校でまねるに値します。模範的なものです」。

率直に言えば私は、マルセル・ルフェーブル大司教という人物自身に対する枢機卿の意見には驚かされました。「彼(ルフェーヴル)はバチカンを信用していません。誰が彼を責めることができるでしょうか。あなたならどうしますか。彼は何年もの間、(国務長官)ヴィヨと(カトリック大学・神学校担当長官)ガロンヌと取引しようと試みました。しかし、二人は何年も、教皇と直接話をし、説得しようとする彼の努力を妨害するばかりでした。あなたもバチカンに不信感を抱いていることでしょう。いや、彼が行ったこと(1人ではなく4人の司教を聖別したこと)は許せませんが、なぜそうしたのかは理解できます。彼ら(聖座)は、彼が司教を聖別することを許可しているのです。1人の司教を。彼(ルフェーブル)は死にます。やがて、その一人の司教も死にます。そしてバチカンは聖ピオ十世会に後任として近代主義者を送り込むのです。そうして(指を鳴らして)すべてが終わった、と言うように」。

あることがきっかけで、皆さんが別のことが思い出すとは、面白いものです。

2022年、教皇ベルゴリオは、オプス・デイの顕著な影響力と法的地位を削り取ることを開始しました。教皇ヨハネ・パウロ二世と最も幸福に合意した(1982年の)「属人区」は、現在このアルゼンチン人の監視の目の下で、「修正」を受け始めていました。最初にすることは、属人区専属の高位聖職者でした。オプス・デイは今、司教不在です。しかも、もう司教省の下にはなく、聖職者省によって常に監視されています。このアルゼンチン人のオプス・デイへの命令はこうです。「あなたたちには、司教も、司教の権利に似たものもありません」。

私がこのことを知るやいなや、またしても、私はその独特のフランス系カナダ人【ガニョン枢機卿】のアクセントが私の耳でささやくのを聞きました。「ルフェーブルはバチカンを信用していません。誰が彼を責めることができますか。あなたならどうしますか」。

本書「SSPX: The Defence」の中で、ケネディ・ホール氏は、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会について、一部のカトリック信者がまだ抱いているかもしれない誤解に答えています。私としては、マルセル・ルフェーブル大司教と聖ピオ十世会がこの半世紀、近代主義のローマと数多くのかたくなな「進歩主義者」によってどのように扱われてきたかについて、私自身の懸念を少し付け加えておこうと思います。

Fr. Charles Theo. Murr
チャールズ・セオドア・マー神父
2023年2月23日
ニューヨーク州ニューヨーク市にて


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