Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

2024年から贖いの業の2000周年(33 - 2033)のノベナの年(2024-2033)が始まります

2020年11月22日(主日)前後の聖伝のミサの予定:Traditional Latin Mass for November 22, 2020

2020年11月22日 | 聖伝のミサの予定

アヴェ・マリア・インマクラータ!

--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

愛する兄弟姉妹の皆様を聖伝のミサ(トリエント・ミサ ラテン語ミサ)にご招待します。

最新情報は次のカレンダーをクリック
聖ピオ十世会 ミサのご案内


年間の予定はSSPX JAPAN MISSION CALENDARをご覧下さい。

今週末:2020年11月20日(金)21日(土)22日(主日)のミサの予定を再確定します。予定通りです。

【大阪】「聖ピオ十世会 聖母の汚れなき御心聖堂」 大阪府大阪市淀川区東三国4丁目10-2 EG新御堂4階 〒532-0002 (アクセス)JR「新大阪駅」の東口より徒歩10-15分、地下鉄御堂筋線「東三国駅」より徒歩2-3分(地図

 11月20日(金)  17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 11月21日(土) 10:00 ロザリオ及び告解  10:30 ミサ聖祭

 11月22日(日) 17:30 ロザリオ及び告解  18:00 ミサ聖祭

 11月23日(月)  10:30 ミサ聖祭

【東京】 東京では11月22日(日)のみ会場を変更してミサを捧げる予定です。この主日だけで後は通常に戻ります。ご注意下さい。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

11月22日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ

【お互いに社会的距離を取ることができるように、分散してミサにあずかっていただければ幸いです。】

Ave Maria Immaculata!

My dearest Brethren!

I want to reconfirm the Mass schedule for the weekend of November 22, 2020.

Mass times in Tokyo:
09:00 - Sung mass Facebook live

11:00 - Low mass
12:30 - Low mass

It would help us maintain proper social distancing if you could consider spreading your mass attendance among the three masses. For your information, Sunday mass attendances were as follows:

Address: Plars Iriya 3F, 1-27-4, Iriya, Taito-ku, Tokyo (near Metro Iriya, JR Uguisudani and JR Ueno stations)

Map and directions: Please see the pdf file.

Mass schedule in OSAKA:

Fri, November 20: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Sat, November 21: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30

Sun, November 22: Holy Sacrifice of the Mass at 18:00

Mon, November 23: Holy Sacrifice of the Mass at 10:30 am.










東京では11月22日(日)のみ会場を変更してミサを捧げる予定です。この主日だけで後は通常に戻ります。ご注意下さい。

2020年11月21日 | 聖伝のミサの予定
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

東京では11月22日(日)のみ会場を変更してミサを捧げる予定です。この主日だけで後は通常に戻ります。ご注意下さい。

住所: 東京都台東区入谷1-27-4 
会場の名前:プラーズ入谷 『入谷ホール』  Special Mass Location-0412.pdf - Google ドライブ

11月22日(日)主日ミサが三回捧げられます。

09:00 ミサ聖祭 歌ミサ(ライブ中継をいたします)Facebook live

11:00 ミサ聖祭 読誦ミサ
12:30 ミサ聖祭 読誦ミサ





聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長 ダヴィデ・パリャラーニ神父からの手紙 (8) 最後の勝利をどう準備するか?

2020年11月21日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父の聖ピオ十世会創立50周年にあたっての書簡(2020年11月1日付)の続きをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長からの手紙

1. 聖ピオ十世会は戦闘的であるべきか?
2. 霊的生命とは何か?
3. 霊的生命のために必要な手段
4. 自分に身をゆだね基準を失った現代人

5. 教会の危機の根本的原因──この世と世の精神に開かれたこと

6. なまくらになった福音の剣

7. 聖ピオ十世会は完全に守られているか?

8. Comment préparer la victoire ultime ? 8. 最後の勝利をどう準備するか?
Combien de temps durera cette crise dans l’Église ? Et surtout, pourquoi Dieu permet-il qu’elle dure encore ? Qu’attend-il de nous ? Nous avons tout dit sur la nocivité de la nouvelle messe ; nous avons tout dit sur les erreurs de la liberté religieuse, de l’œcuménisme etc. ; que reste-t-il à dire ? Que manque-t-il pour que la Tradition soit à nouveau à l’honneur dans l’Église ? 教会内のこの危機はいったいいつまで続くのでしょうか? さらに重要なことに、なぜ天主はこの危機がまだ続くことをお許しになっているのでしょうか? 天主は私たちに何を期待しておられるのでしょうか? 私たちは新しいミサの有害性について全てを発言しました。信教の自由やエキュメニズムなどの誤謬を全て明らかに述べました。あとは何を言うべきでしょうか? カトリック教会内で聖伝がもう一度に栄光の場に戻るために何が欠けているのでしょうか?
   
Il ne reste pas quelque chose de nouveau à dire, spéculativement. Même s’il est évident qu’il faut continuer à ne pas nous taire dans la prédication de la vérité et la dénonciation des erreurs du concile Vatican II. En revanche, il reste quelque chose à donner, concrètement : voilà la bataille fondamentale. Cette situation, avec ses difficultés, exige de chacun d’entre nous un effort pour offrir à Notre-Seigneur quelque chose de plus ultime, de plus radical, que ce que nous avons déjà pu lui donner : il s’agit du don inconditionné de nous-mêmes. 思索的には、新しく何か言うべきことはありません。それがたとえ明らかに、真理の説教において、また第二バチカン公会議の誤謬を告発することにおいて、私たちが沈黙せずに話し続けなればならないとしてもです。その反対に、与えるべきものが何か具体的に残っています。これこそが根本的な戦いです。この状況は、そのすべての困難も含めて、私たちの一人一人が、私たちの主に何かより究極的なもの、より根本的なもの、より親密なものを与えること、すでに主に与えることができたことよりもさらに捧げる努力をすることを求めています。つまり自分自身を無条件に与えるということです。
   
C’est précisément cela que nous demande Notre-Seigneur, et c’est pour l’obtenir qu’il permet que cette crise se prolonge encore : dans sa bonté, il nous accorde encore du temps. Non pour nous lasser ! Non pour nous embourgeoiser ! Mais afin que nous nous donnions plus généreusement. Le bon Dieu utilise ce temps pour que nous puissions nous abandonner davantage à sa Providence et à son amour : après tout, puisque cette bataille est la sienne, c’est à lui qu’appartient l’heure de la victoire ! Pour nous, soyons fidèles tant qu’il lui plaira de nous éprouver. La crise est nécessaire pour provoquer chez les amis de Notre-Seigneur une réaction plus vertueuse et plus héroïque aux attaques de ses ennemis, pour susciter des âmes que l’épreuve rendra plus généreuses, plus offertes, plus dociles aux conquêtes de sa grâce. En un mot : plus saintes. これこそがイエズス・キリストが私たちにお求めになることです。これを得るためにこそ、主はこの危機がまだ続くことをお許しになっているのです。主は善いお方であるので、私たちにまだ時をくださっています。私たちを疲れさせるためでもなく、私たちの周りに溝を作るためでもありません。そうではなく、私たちがもっと寛大に自分を主に与えるためです。天主様は、私たちが御摂理と主の愛にもっともっと自分を委ねることができるように、この時を利用なさいます。結局のところ、この戦いは主ご自身のものであるのですから、勝利の時がいつであるのかは、主に帰属しています! 私たちとしては、私たちを試練にあわせるのを主が良しとされている限り、忠実でありましょう。危機は、私たちの主の友人たちが敵の攻撃に対して、より有徳の、より英雄的な行為を起こすために必要であり、試練が天主の恩寵の力にたいしてもっと寛大になり、もっと捧げられ、もっと素直になった霊魂たちを生み出すために、必要なのです。つまり、危機は霊魂をより聖とさせるのです。
   
Alors se dressera, bien vive, la flamme que nous voulons transmettre, à notre tour, à ceux qui poursuivrons demain ce combat qui est le sien ! その時です、主のものであるこの戦いを、将来やり続ける人々に私たちが、今度は私たちが、伝えたいと思うこの炎が生き生きと燃え上がるのは。
   
Cette situation exige un effort pour offrir à Notre-Seigneur quelque chose de plus ultime, de plus radical, que ce que nous avons déjà pu lui donner. この状況は、すでに主にお捧げすることができたもの以上の、より究極的な、より根本的な、何かを私たちの主にお捧げする努力を私たちに要求しています。
   
C’est à cette générosité que je vous encourage. Par la messe, la réception fervente des sacrements, surtout celui de l’Eucharistie, par l’esprit de sacrifice, par la prière, que croissent dans nos âmes la connaissance et l’amour du Verbe incarné ; que la grâce de Notre Seigneur Jésus-Christ nous soutienne dans notre combat spirituel et nous transforme à son image ; que nos âmes ne fassent plus qu’un avec lui et que, toutes choses ayant été ramenées à lui, nous puissions dire comme saint Paul : « J’ai renoncé à toutes choses, les regardant comme des ordures, afin de gagner le Christ, et d’être trouvé en lui avec la justice qui vient de la foi au Christ Jésus ; afin de le connaître, lui et la vertu de sa résurrection, et la participation à ses souffrances, en devenant conforme à sa mort. » (Cf. Ph 3, 8-10) 私はまさにこの寛大さを実行するよう皆さんを励まします。ミサ聖祭によって、熱烈に秘蹟を、とりわけご聖体を受けることで、犠牲の精神と熱心な祈りの精神によって、人となられたみことばへの知識と愛が私たちの霊魂のうちで成長しますように! 主イエズス・キリストの恩寵が、霊的戦いにおいて私たちを支え、主の似姿に私たちを変えますように! 私たちの霊魂が主と一つになり、全てが主に結び聞けられて、私たちも聖パウロのようにこう言うことができますように。「実に、主イエズス・キリストを知るということ優れたことに比べれば、その他のことは何でも丸損だと思う。私はキリストのためにすべてを失う。だがキリストを得るためにはそのすべてを芥だと思っている。律法から出る私の正義ではなく、キリストへの信仰による正義、天主から出るところの信仰に基づく正義をもって、キリストに在ることを認められ、キリストその復活の力を知り、その苦しみにあずかり、その死をまねる。」(フィリッピ3:8〜10)
   
Ces quelques paroles de saint Paul résument bien tout ce que Mgr Lefebvre nous a légué de plus précieux : « l’esprit profond et immuable du sacerdoce catholique et de l’esprit chrétien, lié essentiellement à la grande prière de Notre-Seigneur, qu’exprime éternellement son sacrifice de la Croix [6]. » 聖パウロのこの短い言葉は、ルフェーブル大司教が私たちに残したもっとも貴重な全てを見事に集約しています。「カトリック司祭職の深い不変の精神とキリスト者の精神は、主の十字架の犠牲が永遠に表現している、私たちの主の偉大な祈り[であるミサ聖祭]と本質的に結びついている。」[6]
   
C’est tout ce que je vous souhaite, car rien d’autre n’a véritablement d’importance. 私が皆さんに望むのはこれが全てです。何故ならそれ以外のことは本当に大切なことではありませんから。
Dieu vous bénisse ! 天主様の祝福がありますように!
   
Menzingen, Toussaint 2020 二〇二〇年 諸聖人の祝日 メンツィンゲンにて
   
Don Davide Pagliarani, Supérieur général 総長 ダヴィデ・パリャラーニ神父
   
NOTES DE BAS DE PAGE 脚注
Cor Unum, « Lettre aux membres de la Fraternité », Noël 1977 [1] コル・ウヌム "聖ピオ十世会会員への手紙" クリスマス、1977
Conférence spirituelle, Écône, 29 février 1980 [2] 霊的講話 エコンにて 1980年2月29日
Dom Guillerand, Au seuil de l’abîme de Dieu, Parole et Silence, p. 60 [3] Dom Guillerand, Au seuil de l'abîme de Dieu(ドン・ギユラン著『天主の深みの敷居に』); Ed. Parole et Silence, p.60
cf. Homélie, Porte de Versailles, 23 septembre 1979 [4] ルフェーブル大司教の説教 Porte de Versailes(フランス) 1979年9月23日
Itinéraire spirituel, Iris, 2010, p. 14 [5]霊的旅路 Ed. Iris, 2010, p.14
Itinéraire spirituel, Iris, 2010, pp. 7-8 [6]霊的旅路 Ed. Iris, 2010, p.7-8


聖パウロ「多くの人が十字架の敵として生きている。彼らは自分の腹を神として拝んで、自分の欲望のままに生きている。しかし私たちの国籍は、私たちの心は天国にある。」

2020年11月21日 | お説教・霊的講話
2020年11月8日(主日)聖霊降臨後第23主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

「多くの人が、十字架の敵として生きている。そして彼らは、自分の腹を神として拝んで、自分の欲望のままに生きている。しかし私たちの国籍は、私たちの心は、いつも天国にある。」

聖パウロの言葉を、聖パウロが涙ながらに訴えた言葉を、私たちは黙想致しましょう。

天主の恵みで、私たちは「十字架の友」として生きる事に致しましょう。

コンスタンティノローマ皇帝は、まだ異教徒であった時に、十字架の印を空に見て、そしてその十字架を旗に付けて、勝ちました。

私たちが勝利する事ができるのは唯一、これだけです、十字架。十字架の友となる事。十字架のいけにえであるミサ聖祭、これの友となる事です。

そして私たちがミサに与る事によって、私たちの生活にも十字架の印をたくさん付ける事にしましょう。

十字架の印を切る事を恐れないで下さい。朝起きた時から夜寝るまで、十字架をお捧げ致しましょう。この私たちの生活に送られる十字架を、イエズス様と共にお捧げ致しましょう。

マリア様に、これをする事ができるように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。






もしも私たちがこの地上に生きているとしたら、その目的はただ一つ「霊魂を救う」ため。

2020年11月21日 | お説教・霊的講話
2020年11月8日(主日)聖霊降臨後第23主日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟の皆さん、
このミサは、私たちの霊魂の救いの為に行なっています。

もしも私たちがこの地上に生きているとしたら、この目的はただ一つ、「霊魂を救う」という、「天国に行く」というその為にこそ、イエズス様は地上に降りて来られました。

その為にこそイエズス様は、ミサを制定しました。御聖体を制定しました。

イエズス様は私たちを、天国に来るように、全てをされています。

もしも私たちが、この昔ながらの聖伝のミサをするとしたら、まさに私たちが「天国に行く為」です。「救霊の為」です。

そしてもしもルフェーブル大司教様が命がけで、そしてあるいは他の司祭たちが、どんな事があってもこのミサを守り通した、そのような司祭たちが、老司祭たちが、聖なる司祭たちがいたとしたら、フランス革命の時にも、あるいは中国での共産党革命の時も、文化革命の時も、ミサを守ったとしたら、「霊魂たちを天国に運ぶ為」でした。

もしも聖フランシスコ・ザビエルが日本に来たとしたら、殉教者が出たとしたら、天国に行く為でした。

私たちにとって一番考えなければならないのは、「救霊」です。

救霊の為に全てを懸けて、そしてその為にこそ、この「ミサ」があるという事を知って下さい。

ですから私たちは、特に聖ピオ十世会は、その為に、「救霊」の為に今、働いています。

もしも他の所で救霊の事が語られなくなって、そうではなくて地上のことを、「この地球を守る」とか、他の事を言ったら、すぐに思って下さい、「もっと大切なものを守らなければならない。」「私たちの永遠の命」です。

マリア様にお願い致しましょう。私たちがいつも、この「救霊」の事を考える事ができますように。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




聖体訪問の祈り 「汝が計らずも我を訪いしかは、汝のためによきことなりき。」

2020年11月21日 | カトリックとは
アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様!

「公教会祈祷文」(昭和32年4版)には付録として「聖体訪問」が載っています。皆さまがお持ちの公教会祈祷文には載っていないと思うので、皆さまの参考になるかと思い、ご紹介いたします。




聖体訪問

守護の天使 イエズスはいと淋しく在し(おわし)給う。彼はその愛し給う人々、しかも彼を忘れ奉る人々を待ちかね給うなり。いざ、我らは主を訪い(とい)奉らん。静かに歩め。教会は聖き(とおとき)所、天主はここにましませば跪きて礼拝し奉らん。イエズスの聖心は汝が御側(みそば)近く行く(ゆく)を喜び給う。いざ、主の優しき御声(みこえ)に耳を傾けよ。

イエズス 我が子よ、汝は我を喜ばせんために、多くを知る要なし。ただ、心より我を愛せ。母親の膝にありて語る時の如く、我に語れ。汝は誰が(たが)ために我に求めんとするや。汝の親族と朋友(ほうゆう)との名を我に語れ。しかして汝がそのおのおのになさんとするところを我に告げよ。多く求めよ。我は他の人々のためにおのれを忘るる情け深き心を愛す。

汝が助けんと欲する貧しき者、苦しみ病める者、汝がその改心を望む罪人、汝の愛する人々にして、汝がその愛を得んと欲する人々につきて我に語れ。すべての人々のため熱心なる祈りを唱えよ。我は心の底より出ずる(いずる)祈りをすべて聞き入れることを約せしにあらずや。しかしておのが愛する人々のために捧ぐる祈りは、必ずまごころより出ずる(いずる)ものなり。

汝はおのれのためにも恵みを願わんとするにあらずや。汝の霊魂に必要なるすべてのものを思い出だし(いだし)、しかしてそを我に告げよ。汝は如何に(いかに)わがまま、如何に傲慢、如何に臆病、また如何に怠惰なるかを我に語れ。しかして汝を矯め直す(ためなおす)ために我が助けを求めよ。あわれなる子よ、嘆くなかれ。天国にある多くの聖人たちも汝と同じあやまちを持ちたる者なりき。されど彼らは我に祈れり。しかして次第に癒されたるなり。汝の身体(からだ)と心とのために我に祈れ。汝の健康、記憶、成功のために、我が賜物を願うことをためろうなかれ。我はすべてを與え得る(あたえうる)なり。しかして我は霊魂をいっそう聖ならしめんために、我が賜物を願うものを拒まざるなり。我が子よ、今日汝の欲するものは何なるか。ああ、我如何に汝のためを思えるかを、汝は知らざるや。

汝は我がために熱心なる思いを有するにあらずや。汝は汝が愛する人々にしてしかも我を忘るる人々の霊魂のために、小さき善業をなさんとは思わざるか。汝を益する人々につきて我に語れ。また如何なる動機が汝を動かし、如何なる方法もて汝は我らに善をなさんとするかをも我に告げよ。

汝の失敗を我に打ち明けよ。我は汝にその原因を示さん。汝はおのが仕事に誰が(たが)興らん(あずからん)ことを欲するか。我はすべての心の主なり。しかして我は彼らを静かに我が心に叶うところに導かん。恐るるなかれ。我は汝の周囲に汝の必要なる者をそなえん。

汝をわずらわす者はなきか、我が子よ、汝の小さき苦しみをことごとく我に語れ。誰が(たが)汝を苦しめしや。誰が(たが)汝を軽蔑もてあしらいしや。我にすべてを告げよ。しかして汝は彼らを赦し、かつそれを忘ると言え。しからば我らは汝に我が祝福を与えん。

汝は苦痛(くるしみ)を恐るるにはあらずや。汝の霊魂には、故知れぬ(ゆえしれぬ)恐怖(おそれ)の念ありて、汝を苦しむるにあらずや。我が摂理に全く委ねよ。我はここにあり。我はすべてを見る。我は汝を捨つることあらじ。

汝の朋友(ほうゆう)に以前よりも不親切となりし者ありて、汝が彼らに害をなせし記憶あらざるに、汝に対し無頓着、忘却を装う者あるにあらずや。彼らのために祈れ。しかして実際彼らとの交わりが汝の益となるならば、我は彼らを再び汝に連れ戻さん。

汝は我に語るべき喜びをもてるにはあらずや。何故(なにゆえ)汝は我に汝の楽しみを打ち明けざるか。昨日以来、如何なることの起こりしや。汝を慰め、幸いならしめ、汝に歓喜(よろこび)を與し(あたえし)ものは何なりしかを我に語れ。我に信頼せよ、しからば汝は平安を見出さん。

汝が計らずも我を訪いし(といし)かは、汝のためによきことなりき。恐れは速やかに追い退けられ、汝は求めざりし成功に遭えり(あえり)。汝は愛の印(しるし)を受け、試練は予期以上に汝を強めたり。我が子よ、これらのものはすべて汝のために我が與し(あたえし)ところなり。何故感謝の念を起こさざるか。何故汝は「我御身に感謝す」と言わざるか。感謝は恵みをいや増すものなり。しかして恩恵(めぐみ)を施す者は、常にその恩恵の記憶せらるるを好むものなり。

我に約すべきことはあらざるか。汝は我が人の心の奥底までも視透す(みとおす)ことを知る。人々はあざむかるることあり、されど我は然らず(しからず)。正直に告げよ。汝は罪のたよりを避け、汝を惑わす者を捨て、汝の霊魂の平和を破る不信心なる人との交わりを断つことを決心したりや。汝は直ちに汝を辱めたる朋友(ほうゆう)のもとに行きて(ゆきて)、彼に親切を尽くさんとするにあらずや。

さらば我が子よ。行きて(ゆきて)汝の日々の務めにつけ。言葉をつつしみ、へりくだり、耐え忍びかつ慈しみ深かれ。常に祈りをなし、深く聖母を愛し、しかして明日は更に熱心にかつ深い愛の心もて我がもとに来たれ。明日は我更に新たなる恩恵(めぐみ)を汝に得させん。

我が愛する子よ。ただこの一事(いちじ)を心に留めよ。我は永遠の愛もて汝を愛せり。汝も我を愛せよ。


マリア様はファチマで「もしも聖母の汚れなき御心に対する信心を実践しないならば、ロシアはその誤謬を世界中に広めるだろう」と警告されました。

2020年11月20日 | お説教・霊的講話
栄えの玄義 第5玄義黙想
2020年11月7日(初土)御聖体降福式にて

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

『栄えの玄義 第5玄義:この一連を捧げて、聖母が天使と人類との元后に立てられ給いしを黙想し、その御取次ぎによりて永福の冠を乞い願わん。』

御聖体の内に真に在し給うイエズス様の聖心の御前で、初土の信心の一環として、15分間、ロザリオの15の玄義の内の一つを黙想致しましょう。

今日は、先日諸聖人の祝日を祝ったばかりですので、諸聖人の元后である、天と地の元后であるマリア様、栄えの玄義の第5玄義を黙想致しましょう。

特にマリア様は、イエズス様のすぐ近くで、私たちの為に母として、女王として、元后として、私たちの霊魂の救いの為に、救霊の為に、悪魔に勝利を収める為に、全能の祈りを捧げて取次いで下さっています。

マリア様のその取次ぎの力強さ、マリア様の小さな、ほんの小さな溜息は、お願いの、心の片隅の想いは、イエズス様にとってはご命令であって、マリア様を喜ばせる為に、それをどうしても叶えてあげようと思われる、大切な願いとなって、このマリア様がイエズス様に懇願されるならば、イエズス様は拒否する事が全くできず、最高の方法で、最高のやり方で、一番良い時に、私たちの想像をはるかに超えるやり方で、はるかに超える良いものを下さろうと、マリア様の願いを聞き入れようとされます。

マリア様の、天における祈りの力強さを黙想致しましょう。

100年前に、マリア様がファチマで、「もしも私の要求を人々が聞き入れないならば、天主の御旨である初土の信心を、聖母の汚れなき御心に対する信心を実践しないならば、ロシアはその誤謬を世界中に広めるだろう」と警告されました。

つまり「共産主義の世界を、世界中に広めるだろう」と。
「無神論の世界を広めるだろう」と。
「天主に対する反乱、教会に対する迫害、飢饉、戦争を、世界中に対して起こすだろう」と言うことをです。

私たちは今日、天地の元后であるマリア様の汚れなき御心に、その玉座の元に、信頼して近寄ります。

私たちの避難所であり、天主へと行く道であるマリア様の汚れなき御心に、私たちを憐れみ給うて、特別の御恵みを、憐れみの恵みを、イエズス様に取次いで下さるようにお願い致しましょう。

「ロシアでそれが起こったように、ソビエトであったように、世界中が強制収容所のようになってしまう」と、「もしも、天主のこの最後の手段(聖母の汚れなき御心への信心)を使わないならば、その危険がある」と、警告しておられます。






今から100年前のロシアの誤謬である共産主義が、今、別の形で再現しようとしている。イエズスの聖心に信頼しよう。

2020年11月20日 | お説教・霊的講話
2020年11月6日(初金)御聖体降福式にて

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父

御聖体の内に真に在し給うイエズスの聖心の御前で、礼拝と、讃美と、感謝、罪の償いをお捧げ致しましょう。

今から100年前に、ロシアがボルシェビキ革命によって、共産主義の支配下に置かれてしまいました。その時人々は、所有権を失い、奴隷のようになり、秘密警察の監視下の元に置かれ、この地上での地獄を経験しました。

それから百年後の今、それと同じような事が全世界で起こりつつあろうとしています。ロシアが全世界にその誤謬を広めて、世界中の人々から所有権が奪われ、厳しい監視下の元に生きる世界を人々が作ろうと、天主のない世界を作ろうと、その瀬戸際に立っています。

イエズスの聖心の甘美な軛をふり捨てようとして、イエズス・キリストの王権の支配から逃れようとすればするほど、全人類はますます不幸に、ますます悪魔の奴隷に陥ろうとしています。暴力と死、暗闇と嘘、誤謬。

御聖体の内に在し給うイエズスの御前で、御憐れみを乞い願いましょう。なぜかというと、イエズス様は悪魔よりはるかに強く、憐れみ深い全能の天主であるからです。

今日のこの初金のこの御聖体降福式は、イエズス様の聖心にとって大きな慰めであり、私たちに対する祝福を与えようとされる、その愛のしるしであります。

イエズスの聖心よ、私たちを決して見放したりしない、という事を、深く信頼致します。




聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長 ダヴィデ・パリャラーニ神父からの手紙 (7) 聖ピオ十世会は完全に守られているか?

2020年11月19日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父の聖ピオ十世会創立50周年にあたっての書簡(2020年11月1日付)の続きをご紹介いたします。

天主様の祝福が豊かにありますように!

トマス小野田圭志神父(聖ピオ十世会司祭)

聖ピオ十世会五十周年にあたっての総長からの手紙

1. 聖ピオ十世会は戦闘的であるべきか?
2. 霊的生命とは何か?
3. 霊的生命のために必要な手段
4. 自分に身をゆだね基準を失った現代人

5. 教会の危機の根本的原因──この世と世の精神に開かれたこと

6. なまくらになった福音の剣

7. La Fraternité est-elle totalement immunisée ? 7. 聖ピオ十世会は完全に守られているか?
C’est un vrai danger pour nous, après 50 ans de croissance, de croire que, puisque la Fraternité est aujourd’hui bien établie, la Tradition peut être plus aisément gardée, plus confortablement conservée. Et que la vie chrétienne est aujourd’hui plus facile, moins exigeante. Rien n’est plus faux : l’exigence d’une vie spirituelle, d’une vie intérieure, d’une vie d’union au Christ réclame un combat de tous les jours, un combat généreux contre la tentation séduisante de nous compromettre avec le monde. 私たちにとって実に危険なことは、成長し続けた五十年の後、聖ピオ十世会は今やしっかりと確立され、聖伝はもっとたやすく守られ、より楽に維持されうる、と信じることです。カトリック信者の生活は、今日では簡単になり、多くを要求されていない、と。これほど真理から遠ざかっているものはありません! 霊的生活、内的生活、キリストと一致した生活への強い要求は、日々の戦いを求めています。この世と私たちを妥協させようとする誘惑に反対して高邁(こうまい)に抗う戦いを。
   
« La notion du sacrifice est une notion profondément chrétienne et profondément catholique », rappelait Mgr Lefebvre dans son sermon de 1979. « Notre vie ne peut pas se passer du sacrifice, dès lors que Notre Seigneur Jésus-Christ, Dieu lui-même, a voulu prendre un corps comme le nôtre et nous dire : “Suivez-moi, prenez votre croix et suivez-moi si vous voulez être sauvés.” » 1979年、マルセル・ルフェーブル大司教は金祝のミサの説教で次のように言われました。「犠牲の概念は、深くキリスト教的で、深くカトリック的な概念です。私たちの人生は犠牲なしには送れません。私たちの主イエズス・キリスト、天主ご自身が、私たちのような肉体を取ることを望まれ、私たちにこう言われるからです。《私に従え、救われたいならば、己が十字架をとって私に従え》と。」
   
C’est aussi un danger, après 50 ans de combats, de se laisser gagner par cette lassitude et ce découragement qui ont amené les âmes à perdre peu à peu le sens de la vie chrétienne, et à ne plus voir les raisons profondes qui motivaient leurs efforts toujours nécessaires. 五十年の戦いの後、この疲労と落胆に打ちのめされてしまうのも危険です。疲労と落胆は徐々にキリスト教的生活の意味を失わせ、常に必要な努力を、かつて動機づけていた深い理由を、もう理解させなくするからです。
   
Il est donc fondamental que cette vie véritablement chrétienne demeure notre objectif constant, et que nous fassions chaque jour tout ce qui est en notre pouvoir, avec l’aide de la grâce, pour rendre possible cette vie de charité avec Notre-Seigneur, pour permettre à notre Sauveur de conquérir notre âme, pour écarter tous les obstacles qui empêchent l’établissement de son règne en nous. Le combat spirituel, quotidien, soutenu par l’espérance chrétienne, est indispensable si nous voulons véritablement demeurer fidèles au Christ. Alors il vivra véritablement en nous, et nous serons pour lui comme une humanité de surcroît en laquelle il pourra librement rendre à son Père l’honneur et la gloire qui lui sont dus. ですから、この真実にカトリック的な生活が、私たちの常に変わらぬ目標としてとどまること、私たちの主とともの愛徳の生活を可能にするために、私たちの救い主が、私たちの霊魂を征服することが許すために、私たちにおいて主の御国の確立を妨げるすべての障害を排除するために、私たちが、天主の恩寵に助けられて、自分の力の限り日々戦うことが基本です。キリスト教的な希望に支えられたこの日々の霊的戦いは、私たちがキリストに忠実でありたいと心から熱望するなら、絶対に必要です。そのとき、主はわたしたちの内に本当に住まわれ、私たちは主にとってもう一人の増えた人間となるでしょう。この追加された人間において、主は御父にふさわしい名誉と栄光を思うままにお与えになれるでしょう。
   
Tant que cet idéal de la vie spirituelle demeurera profondément le nôtre, notre fidélité aux combats de la Tradition sera assurée. この霊的生命の理想が深く私たちの理想として深くとどまっている限り、聖伝のための戦いへの私たちの忠実さは確約されます。
   
Faute de donner à notre combat cette dimension profonde, nous risquons de mener une lutte purement abstraite : nos batailles doctrinales ne seront que des joutes cérébrales, spéculatives, désincarnées. Les idées affronteront les idées, sans que notre vie morale soit illuminée par la clarté de notre foi. Notre combat pour la messe deviendra esthétique : nous défendrons la liturgie traditionnelle pour la simple raison qu’elle est plus belle, plus priante. Cela est vrai ! Mais ce n’est pas pour cela que nous la défendons : c’est, plus profondément, parce qu’elle est le moyen par excellence de faire connaître aux hommes l’amour de Notre-Seigneur à l’autel ; le moyen par excellence d’entrer pleinement dans le même amour et dans le même sacrifice, par l’adoration et le don de soi : voilà l’ultime raison du combat pour la messe ; voilà la signification véritable du mot « Tradition » ! もし、私たちの戦いに、この深遠な霊的次元を入れ損なうなら、私たちは単なる抽象的な戦いをする危険があります。私たちの教義に関する戦いは、頭の中だけの、理論上だけの、肉体の存在しないゲームになってしまうでしょう。私たちの道徳的生活が信仰の明確さによって照らされないままで、思想が思想に対立するだけでしょう。ミサ聖祭のための戦いは、美しさを愛でるためだけのものになるでしょう。つまり、私たちが聖伝の典礼を単に新しいミサより美しく信心深いからという理由のためだけで擁護するようになるでしょう。聖伝の典礼が新しいミサより美しく信心深いのは間違いではありません──しかし、私たちが聖伝のミサを守っているのはそのためではないのです! もっと深い理由のためです。聖伝のミサが、祭壇における私たちの主の愛を人々に知らせるための、優れた最高の手段だからです。同じ愛、同じ犠牲の中に、礼拝と自己奉献を通して、完全に入るための最高に優れた手段だからです。これこそがミサ聖祭のための戦いの究極の理由です。これこそが「聖伝」という言葉の本当の意味なのです!
   
Tant que cet idéal de la vie spirituelle demeurera profondément le nôtre, et que de jour en jour, nous permettrons à la grâce du Sauveur de nous transformer à la ressemblance de Jésus-Christ, notre fidélité aux combats de la Tradition sera assurée et vivifiée. C’est cet idéal, s’incarnant dans une vie véritablement animée de cet esprit, qui garantira aux membres et aux fidèles de la Fraternité la force et la vitalité nécessaires à leur constance au service du Christ-Roi. この霊的生活の理想が深く私たちのものである限り、救い主の恩寵が私たちをしてイエズス・キリストに似た者と変えるように働きかけるのを許す限り、聖伝のための戦いに対する私たちの忠実さは確かなものとなり、生き生きとするでしょう。この理想は、この精神によって真に息吹かれた生活の中に、具体的に実現します。この理想こそが、聖ピオ十世会の会員と信者たちに、王たるキリストへの恒常的な奉仕のために必要な強靭さと活気を保証してくれるでしょう。


【参考情報】ヴィガノ大司教「カトリック信者は祈ることができ、祈らなければならない。天主の介入だけが真理を明らかにすることができる。」

2020年11月19日 | カトリック・ニュースなど

アヴェ・マリア・インマクラータ!

愛する兄弟姉妹の皆様、

ヴィガノ大司教のインタビューの記事の翻訳をご紹介いたします。


Viganò: US election still not over, Americans must pray for good outcome

ヴィガノ大司教「米国の選挙はまだ終わっていない。アメリカ人はいい結果になるよう祈らねばならない」

ヴィガノ大司教はまた、10月にトランプ大統領に語った「黙示録的な言い方」が非常に正しかったことを、この新しいインタビューで話しています。

2020年11月13日

【編集者注】以下のカルロ・マリア・ヴィガノ大司教へのインタビューは、ジュゼッペ・ナルディが「Katholisches.info」のために行ったものです。

2020年11月13日(LifeSiteNews) -

1.あなたは何年間か、駐米教皇大使でいらっしゃいました。あなたはこの国を、特にいわゆる自由世界で指導的なこの世界の大国を、非常に身近な経験からご存じです。今、米国では何が起こっているのでしょうか。

ヴィガノ大司教:ここ数カ月、米国は世界統一主義の計画の実現を目の当たりにしています。この計画は、例外はほとんど稀なほど世界のすべての国を巻き込むものです。この計画には、この最も重要な西洋民主主義の国家【つまりアメリカ合衆国】を含めないことができません。それは、この国の経済力と国際政治バランスにおいてこの国が果たす役割という二つの理由からです。

世界統一主義の独裁体制は、反対の声つまり、同調した主流の考えに反対して逆らう声が存在することを容認することはできません。しかし、もしもドナルド・トランプが大統領となり、共和党が議会や州政府で過半数を保持した場合、米国はそのような声になるでしょう。

世界統一主義の左翼のイデオロギーは、それに疑問を呈する不調和な声を受け入れないということを忘れてはなりません。私たちは計画的で高度に組織化された攻撃を目の当たりにしています。それは、政府機関のかなりの部分、ほとんどすべてのメディア、そして多くの多国籍の権力と国際機関の資金調達による協力を利用しています。さらに、経済的な面でも、民主党候補者の支持の面でも、外部からの干渉があることは明らかです。

私はまた、BLM(ブラック・ライブズ・マター)やアンティファのような民主党に近い運動が演じた不安定化させる役割を強調したいと思いますが、これらはすべて[ジョージ・]ソロスによって資金提供されています。ジョー・バイデンの勝利の不十分な発表と、選挙の真の勝者が確定するまでの間の時間の差は、左翼がディープ・ステートのよく知られた手口に倣って、暴動や市民の不安をあおるために利用する可能性があります。

2. 10月末、あなたはトランプ大統領へ公開書簡を送られましたが、その中で黙示録的な言い方を使っておられました。これらの言い方は正当なものだったでしょうか。この選挙は、その言い方を裏付けたと感じられますか。組織的な不正行為についての懸念や非難は正当化されているでしょうか。

ヴィガノ大司教:この文脈で「黙示録的」という用語を使用したことは、私には全く正しいように思えます。なぜなら、この用語は聖書で告知された天主とサタンの間の最後の戦いを指しているからです。私たちが目の当たりにしている出来事は、おそらく、反キリストが勝利し、教会と伝統的な社会が容赦なく迫害されるような最終的な戦いの一部ではないかもしれません。

しかし、確かに、この歴史的局面は、反キリストの国が確立されるであろう方法と時代【どんな方法か、いつごろか】に直接影響を与えることになるでしょう。その意味でトランプが大統領であるということは、ディープ・ステートに対して、そしてその思想的本質が反人間的で反キリスト教的な世界統一主義に対して、強力な障害物となることができるのです。世界の命運がかかっているとすれば、その言い方は黙示録的なものにならざるを得ないと私には思えます。

最近浮かび上がっている不正選挙については、担当機関が、規則に沿った集計を保証するように、明確さを作り出すことが必要不可欠だと思います。国民の意思が、エリートが受け取ることを欲することから離れるや否やすぐさま、それをポピュリズムとしてそれを無効化する時、交代する政治局面において民主主義の名前が使われることはできません。世界の左翼は、権力を獲得してそれを維持するために、武器あるいは詐欺による暴力だけを常に使ってきました。私たちは社会主義的全体主義のことを考え、ナチズム、ファシズム、共産主義といった、そのそのさまざまな化身のことを考えています。

3. すべての代議制民主主義国家のモデルの国家である米国で、どうようにして選挙が操作されてしまうのが可能になるのでしょうか。

ヴィガノ大司教:選挙が操作されている可能性があることは、事実の証拠によって証明されているように私には思えます。ソーシャルメディアに投稿された何十本もの動画の中には、集計員が投票用紙を操作している様子や、ごみ箱に投げ捨てられたり道端に捨てられたりしている票のいっぱい入った袋、トランプへの憎しみから票を改ざんしたと自慢する狂信者たちの姿がありますが、これらはすべて疑う余地を残していません。検証すべきことは、これらの不正の存在ではなく、その程度および重大性です。そして、票の管理を担当している複数の企業の株主やオーナーによって行われている票をスキャンするためのソフトウエアに改ざんがあるのが発覚したことも忘れてはなりません。

ここで私たちが話しているのは、ある特定されていない郡での小さな詐欺のことではなく、外部による干渉が組織的で、常にバイデンを支持しトランプに損害を与えるようにだけ調整されていることが明らかにされているシステム全体のことです。この選挙の結果は、誰が最終的な勝利者であるかに関係なく、これらの深刻な不正によって引き起こされた疑念によって、妥協したままにすることはできません。裁判所が何百もの糾弾を経て、今、実際に何が起こったのかを検証するために行動を起こしているのは偶然ではありません。

しかし、私は、一つの非常に重要な要素を強調したいと思います。それは、民主主義が、左翼によって権力の道具とみなされていることです。つまり、もし市民が、メディアによって巧みに説き伏せられて、左翼のために投票するの[が良い]と信じ込まされるがままになるのを許せば、国民は勝利を収めた、とされます。しかし、もし国民が政治家から繰り返し叩き込まれる洗脳やユートピア的な約束に屈しなければ、もし国民が左翼ではない政党や候補者に投票するならば、今度は【マスコミ操作や選挙不正などにより】国民は誰に統治されるかを選ぶことができなくなります。その時、エリートである上流階級が、大衆にとって何が良くて何が悪いかを、国民の代わりに決定するのです【これが「民主主義」です】。

4. バイデンや民主党、大多数のマスメディアが主張しているように、選挙は終わったと考えていいのでしょうか?

ヴィガノ大司教:選挙は非常に緻密な法律と規則によって規制されています。決定的なデータのように見せかけているテレビネットワークの予測に頼るのは、自分たちの望みを議論の余地のない現実として押し付けたがっている者たちの手のうちに滑り落ちる(auf jene zurückfallen)危険があります。

世界の指導者たちが、メディア、多国籍情報企業、世界金融、人道的組織、そしてベルゴリオの教会自体と一緒になってどちら側に立っているのかを私たちは十分に理解しています。しかしだからと言って、このことによって不正の存在が本当でなくなったりはしませんし、法を遵守した慎重な再集計の必要性が急務でなくなるわけではありません。--- もし法を尊重することが、まだ民主党にとって何か意味があるならの話ですが。


5. あなたは、カトリック信者やすべての善意のアメリカ人にもアピールをしています。それに耳を傾けてもらえると思いますか。歴史的に見て長い間、民主党に近い立場にあったカトリック信者は、今回の選挙でどのように投票したのでしょうか。

選挙結果から今のところ理解できることで言えば、カトリック信者の大多数はトランプに投票しました。米国司教協議会と自称カトリック信者の進歩的知識人たちによる中傷キャンペーンに、ホルヘ・マリオ・ベルゴリオと彼のバチカンの「マジック・サークル(魔術陣)」という異常な組織編成が加わって実行された中傷キャンペーンにもかかわらず、米国のカトリック信者は、妊娠9カ月目までもの妊娠中絶やジェンダー理論、LGBTQイデオロギー、世界統一主義の要求を支持する自称カトリックの候補者よりも、生命と家族を擁護するプロテスタントの候補者の方が望ましいと理解していたのです。

【訳注:教皇フランシスコの"マジック・サークル"とは、インサイド・バチカン紙によると、ローマでフランシスコと親しい友人たちの少数グループのことを指して使われている、とのことです。特に、影響力のある「進歩的な」イエズス会士らがその中に入っているとのことです。元教理省長官のミュラー枢機卿もこの言い方を使って、フランシスコの「マジック・サークル」のメンバーたちは、スパイをして誰がフランシスコの敵か味方かを区別し、オープンでバランスの取れた話し合いをすることを妨げていること、彼らは神学的な素養がない、教皇にへつらって、自分の利益だけを考えている、と批判しています。ヴィットリオ・メッソーリも、クリエレ・デラ・セラ紙に疑問を投げかける記事を書いたところ、「マジック・サークル」からこの新聞に圧力がかかり、メッソーリは協力者から外されたとのことです。】

浮かび上がってくることは、紛れもなく、カトリック位階階級の最高レベルが背信的にも世界統一主義の奴隷となっていることに目の当たりに見て、信徒が方向性を見失って【どうしていいか分からなくなって】いることです。さらにまた、キリスト教徒の国民と彼らの牧者たちの間に、はっきりした溝がますますできていることです。これらの牧者たちは、不法な外国人の無差別な歓迎を嘆願したり、公衆衛生委員会の「命令」(diktats)に従って教会を閉鎖したりするのに忙しいからです。

確かに、進歩的な司教たちの大部分の金融スキャンダルや性的スキャンダル、その道徳的な緩み、その教義上の逸脱は、米民主党、そして世界中の左翼一般に位階階級が与えた政治的支持と完全につじつまが合うものです。広い範囲で相互になされている支持で、私たちをいやでも考え込ませてしまいます。

6. トランプは、4年間にわたり、誹謗中傷され、嘲笑され続けてきましたが、2016年に得た(最新の数字によると)800万票は、政界左翼の一種の世俗的な「救世主」であったバラク・オバマよりも多くの票を得ています。果たしてトランプは、ロナルド・レーガン以来、最も人気のある米大統領と本当に言えるのでしょうか。

ヴィガノ大司教:トランプの人気を測るには投票の最終結果を待つしかありませんが、私たちは、これらの価値と健全な愛国心の感覚を兼ね備えている彼の能力に注目できると思います。こういったものは、逆に民主党が、世界統一主義の計画への無条件の愛着という名目のもとに、否定し、打ち消したがっているものです。トランプは、米国の有権者の大多数の声を表現する方法を知っており、彼の人気はそこから来ています。残念なことに、他の国々においては(in anderen Ländern)、たとえばイタリアのように、野党は、門番(Gatekeeping)的な役割に追いやられ、つまり、昔は他の政治運動が担っていたが今では政府の一部となっている役割で満足しているようです。土壇場で考え直すこと(Umdenken)がない限り、これは一種の理解しがたい政治的自殺への前奏曲のように私には思えます。


7. トランプは大統領在任中の4年間で、連邦機関の完全なコントロールを得ることができなかったと言われています。ディープ・ステートと呼ばれるものは存在するのでしょうか。存在するとすれば、選挙でもディープ・ステートが活動してきたのでしょうか。

ヴィガノ大司教:民主党政権が何年にもわたって続いた後に米国の大統領になった者が、短期間で明確な制度システムを改革できるとは想像できません。トランプがこれまでに行ってきたことは、彼の称賛に値する関与を示していますが、同時に、権力の中枢にディープ・ステートが広く浸透していることを明らかにしています。イタリアでも見られるように、左翼による政府機関、司法、メディアの支配は、数十年にわたる破壊活動、任命、脅迫、利害の衝突の結果です。私たちは、このような一般化した状況を4年以内に修復できるとは期待できません。特に、法を尊重して行動し、法と司法に対する組織的な違反 -- これを他方はするのですが -- によらないで行う場合には、そうです。


8. 聖座と教皇フランシスコが、このトランプを疎外するのを自分たちのやり方で支持したというのは、どうしてありえることなのでしょうか。私たちは混乱しています。民主党とカトリック教会の間に関連性があるのでしょうか。

ヴィガノ大司教:カトリック教会は、民主党とは何の関係もありません。その思想がキリストの教えと相いれないからです。むしろ、明らかなことは、ディープ・チャーチのディープ・ステートへの利他的ではない支持です。それは、政治的進歩主義が宗教的進歩主義と結びつく同盟であって、独自の「普遍的な宗教」を持つ反キリスト的な社会を確立するという目的のためのものです。

進歩的知識人と民主党の結びつきがなされたのは、1968年に、学生運動にまでさかのぼることができます。この結びつきは、第二バチカン公会議が採用した、ある意味で左翼が政治の領域で行ったことに劣らないほどの破壊的な、刷新の行動計画(アジェンダ)の教会の側面に基礎をおいています。カトリックの大学や団体でさえ含めた、十数年にわたるイデオロギー的洗脳の後には、社会に悲惨な結果を見ないわけにはいきませんでした。

確かなことは、今日、ベルゴリオは、ジョン・ポデスタが「教会の春」に関する有名な電子メールで表現した「切実な要求」(desiderata)に基づいて、世界統一主義の霊的役割の保証人として世界的レベルで選ばれたということです。私には、このアルゼンチン人の教皇がこれまでに行った仕事は、民主党と、さらに一般的には新世界秩序(New World Order)を打ち立てよう望む人々とにとって、まさに拍手に値する功績を持つように思えます。

【訳注:ジョン・ポデスタは、2016年のアメリカ大統領選挙の時、クリントンのための選挙対策長だった。自称カトリックのポデスタは、カトリック教会内にリベラルなグループの浸透を画策し、アメリカの司教たちに対してリベラルな反乱を起こさせるように図った。彼は、特に避妊について教会の教えを変えさせるために、左派にメールで「カトリックの春 Catholic Spring」を呼びかけていた。】


9. 選挙の数日前、ナイジェル・ファラージ[ブレグジット党(現リフォームUK)代表]は、「勢い」はトランプにとって好都合だと発言していました。票の集計からは、その反対の意見が出てきたようです。あなたのご意見では、トランプは今、何をすべきなのでしょうか。

ヴィガノ大司教:トランプの任期は2021年1月20日までとなっています。私たちは、法律で求められているように、またこの問題のすべての当事者が望むべきこととして、投票の再集計の結果と不正行為の糾弾の結果を待っているところです。その時点で、ファラージが正しかったかどうかを判断できるようになるでしょう。それまでの間、米上院で確認されたように、トランプには、透明性を要求し、投票箱で表された有権者の意思を守るために法律が彼に提供するあらゆる手段を行使する完全な権利があります。

10. 私たちは心理戦も目の当たりにしているのでしょうか?

ヴィガノ大司教:この戦いは本質的に心理的なものです。これは、主に主流メディアの仕事によって、大衆をあからさまに操作することに基づいています。虚偽だと恣意的に判断されたニュースをブロックするメディアの権利があるという名目で、ソーシャルメディアやテレビでの米大統領の発言を検閲するまでに至っています。しかし、このような検閲の姿勢は、イデオロギー的に同じ団体による「ファクトチェック」と、公式の物語に適合しないニュースを「フェイクニュース」と呼ぶ試みで始まったのです。




同じことが、世界的レベルで、パンデミックに関する情報で起こっています。公式データは、このパンデミックが大災害であると私たちに伝えるメディア発の内容に容赦なく反証しているのですが、これにもかかわらず、大衆はまだ恐怖にさらされています。なぜなら、新型コロナウイルス感染症は、その死亡率を考慮せずに、そうしないと受け入れられないような基本的権利に制限を課すための道具として使用されなければならないからです。ですから、バイデンが次の都市封鎖を発表し、どこでもマスク着用を義務化したいという彼の願望を聞いても、驚かないでください。彼は、パンデミック緊急事態の背後にあるのと同じ権力と一致しているのです。

世界人口の削減に熱心な「慈善家」のビル・ゲイツが株主であるファイザー社が製造したワクチンの発表でさえ、バイデンの勝利と想定されるとの発表後に延期されたことは、製薬会社が科学的研究という手段で追求する政治的なアジェンダ(行動計画)を露骨に表していると思います。私がインターネットで読んだところによると、PD[イタリア民主党]の元副大統領で現在はコンテ政権の次官を務めるサンドラ・ザンパが、この作戦に対してファイザーに感謝したということです。

11. あなたの考えでは、米国や世界中のカトリック信者は何ができるのでしょうか、あるいは何をすべきなのでしょうか。

米国のカトリック信者は祈ることができますし、祈らなければなりません。なぜなら、これほどの大規模な反対勢力の展開に直面しているため、天主のご介入だけが真実を明らかにすることができるからです。明らかなことですが、このことは、社会秩序の中でカトリック信者の首尾一貫した証しを新たにすることを排除するものではありません。

しかし、この人間的な行動は、常に共通善に触発されたものであって、超自然的な次元を見失ってはならないのです。イエズス・キリストは歴史の主であり、諸国の王でいらっしゃいます。彼らがイエズス・キリストとその至聖なる御母に忠実に依り頼むならば、主は試練の時にも子どもたちをお見捨てにはなりません。

【参考資料】【拡散希望】ヴィガノ大司教(前・駐米教皇大使)のトランプ大統領への第二の公開書簡:「グレート・リセット」計画について警告 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた

Abp. Viganò on U.S. Election: "We Are Witnessing a Planned and Highly-Organized Attack" led by "Globalist Dictatorship" - Catholic Family News

Editor’s Note: The following interview of Archbishop Carlo Maria...

Catholic Family News


聖ピオ十世会第三会の重要性に関する総長からの手紙 ダヴィデ・パリャラーニ神父

2020年11月18日 | 聖ピオ十世会関連のニュースなど

聖ピオ十世会第三会の重要性に関する総長からの手紙
ダヴィデ・パリャラーニ神父

Letter from Fr. Pagliarani on the Importance of the SSPX Third Order

聖ピオ十世会第三会の重要性に関する総長からの手紙

聖ピオ十世会総長ダヴィデ・パリャラーニ神父は、現状における聖ピオ十世会第三会の重要性について、聖ピオ十世会の信者及び友人たちに書簡をしたためた。


聖ピオ十世会の親愛なる信者並びに友人の皆さま、

この手紙は、聖性を熱望するすべての人々、つまり天国に安心して確実に到達するための道を探し求める人々、聖ピオ十世会を真摯に愛し、もっと密接に同会に結ばれたいすべてのカトリック信者にあてて書かれています。なによりもまず、私たちの主を愛し、彼に「さらなるもの」を与えることで主への愛を証明することを望む誠実なすべての霊魂たちに向けて書かれています。

私はここで司祭職や修道生活について話すつもりはありません。そうではなく、教会が信者たちを助けるために差し出す別の手段について語っているのです。つまり第三会のことです。すべての大規模な修道会には第三会があります。ルフェーブル大司教が聖ピオ十世会のために第三会を作りたいと強く望んでいたのなら、それは彼が第三会を力強い聖化の手段であると見ていたからなのです。

第三会は聖ピオ十世会の「枝」の一つです。第三会の会員になるということは、つまり、同会の司祭、修道士、奉献修道女(オブレート・シスター)と同じように聖ピオ十世会の共同体に属するということです。つまり、聖ピオ十世会の生活、その戦い、喜びや憂慮の中に入るということです。一人一人の忠実さで自分以外のすべての会員を支えることであり、戦いに疲れ、勇気が挫かれる時、代わりにすべての会員たちから助けられるのです。つまり、これこそが非常に美しく慰めとなる、日々生きている諸聖人の通功です!

今日この日、2020年11月1日は、私たちの創立者が聖ピオ十世会第三会の会則を書かれて、ちょうど40年目です。この会則は大司教様の生涯のように、控えめで簡潔でありますが、非常に豊かで深いものです。この会則に忠実に寛大に従うなら、聖性への明確な道筋を辿ることになります。

会則を読めば、それが特殊なことや難しいこと、尻込みしてしまうようなことを要求してはいないとわかります。朝と晩の祈りをすること、ロザリオを唱えること、ミサにあずかること、数日間の大斎、道徳的に危険な娯楽を慎むことです。これは、信者が洗礼以来約束している、キリスト者の普通の生活ではないでしょうか?

しかし、反対する人がいるかも知れません。第三会はエリートたち、霊的生活に進歩した人々のために取って置かれたものではないか? と。「第三会は自分のためのものではない」という考えに傾きがちではないですか?

第三会がエリートのためであるとするなら、それは愛徳のエリートのことです。第三会に、偉大かつ誰にでも手が届く両面性を備えさせているもの、それは、会に生き生きと命を与える霊性です。教会のそれと何ら変わらない、主の聖心から流れ出る霊性です。つまり天主と霊魂たちへの愛の霊性です。そしてこの愛の炎は、熱心な、思いやりのある、寛大な心でミサ聖祭にあずかることで、ただ祭壇の足元でのみ燃え上がり、掻き立てられ、保たれるのです。

従って第三会は大人から子どもまで(両親の許可があれば12歳から)、強い者にも弱い者にも、忠実な者にも罪人にも、すべての人に開かれています──私たちを愛するあまり、私たちのためにカルワリオに登って十字架上で死し給うた主の愛に、皆がお応えする準備ができているならばという条件でです。

第三会会員には多くの利点があります。第一の利点は彼ら自身の聖化です──聖ピオ十世会の霊的宝にあずかることで、彼らは個人的に、会員たちによって得られたすべての超自然の富の中にある、もっと素晴らしいあふれ出る豊かな恩寵を受け取るのです。世界中で捧げられるすべてのミサ聖祭、唱えられる祈り、すべての会員たちの犠牲と功徳、これらすべては彼らのものであり、そこから自由に引き出すことができるのです。

けれど、さらに多くのものがあります。第三会の会員一人一人は、その使徒職、戦いの中で聖ピオ十世会を直接に助けることができるという、計り知れない慰めを持つのです。毎日その義務を果たすためになす努力によって、天主に捧げる祈りと犠牲によって、会員は霊的宝を増していき、その一部である優れた共同体を力強く支えるのです。

親愛なる信者の皆さん、天主のみ心に非常に大切な、この聖ピオ十世会の慎ましい軍隊に皆さんを委ねることは、皆さんをどれだけ励ますことでしょうか! 私たちが今日祝っている聖ピオ十世会の五十周年は、個人が、あるいは家族ごとでも、王たるキリストのみ旗のもとに入隊する一歩を踏み出し、決意を固める素晴らしい機会です。

もしも今年、膨大な数の新しい会員が入会し、すでに会員となっている者たちがますます熱意に燃え、聖なるものになるならば、天主のみ心にとってなんという喜び、教会にとってなんという支え、皆さんにとってなんという名誉、そして聖ピオ十世会にとってなんという助けとなることでしょう! これは私の最も大切な望みの一つです。私はこの望みを主イエズス・キリストの燃える聖心にお委ねし、皆さんの寛大さに感謝致します。皆さんすべてに喜んで私の祝福を与えます。

2020年11月1日 メンツィンゲン
総長、ダヴィデ・パリャラーニ神父

Letter from Fr. Pagliarani on the Importance of the SSPX Third Order

The Superior General of the Society of Saint Pius X, Fr. Davide Paglia...

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2020年11月22日は、聖霊降臨後最終主日(降临后最后一个主日、성신강림 후 마지막 주일)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします。

2020年11月18日 | ミサ聖祭

2020年11月22日は、聖霊降臨後最終主日(降临后最后一个主日、성신강림 후 마지막 주일)です。聖伝のミサのラテン語と日本語・中文・韓国語の対訳のテキストをご紹介いたします。

Dominica Ultima post Pentecosten 聖霊降臨後最後の主日 降临后最后一个主日 성신강림 후 마지막 주일
II Classis 二級祝日 复式【绿】  (2급) 초록색
Ant. ad Introitum. Ier. 29,11,12 et 14. 入祭文 エレミア 29ノ11,12と14 进台咏(耶29:11-12,14) 초입경(예레미아29.11,12,14)
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : in vocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主は言い給う。私は、平和の考えを考える、苦しみの[考え]ではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたち[の祈り]を聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から連れ戻そう。 上主说:我所怀的计划是和平的计划,不是降灾的计划。你们必呼吁我,我也必俯允你们。从你们被掳所在的各国各地,我要重新聚集你们。 주 가라사대 나는 고난의 생각을 하지 않고 오직 평화의 생각을 하노라. 너희가 내게 부르짖으면 나 너희를 들어 허락하여 도처에서 사로잡힌 너희를 구원하리라 하시도다.
Ps. 84, 2. 詩篇 84ノ2 咏84:2 (성영84.2) 
Benedixísti, Dómine, terram tuam : avertísti captivitátem Iacob. 主よ、御身は、御身の地を祝福し給うた。御身はヤコブの俘虜を帰させ給うた。 上主啊!祢已降福了祢的领域,救回了被掳的雅各伯。 주여 너 네 땅에 강복하시고 사로잡힌 야곱을 구원하셨나이다. 
V/.Glória Patri. V/. 願わくは聖父と・・・(栄誦)。 光荣归于父……。 영광이 부와 자와...
Dicit Dóminus : Ego cógito cogitatiónes pacis, et non afflictiónis : in vocábitis me, et ego exáudiam vos : et redúcam captivitátem vestram de cunctis locis. 主は言い給う。私は、平和の考えを考える、苦しみの[考え]ではない。あなたたちは私を呼ぶだろう、そうすれば私はあなたたち[の祈り]を聞き入れよう。そして私はあなたたちの捕囚を全ての場所から連れ戻そう。 上主说:我所怀的计划是和平的计划,不是降灾的计划。你们必呼吁我,我也必俯允你们。从你们被掳所在的各国各地,我要重新聚集你们。
Oratio. 集祷文 集祷经 축문
Excita, quǽsumus. Dómine, tuórum fidélium voluntátes : ut, divíni óperis fructum propénsius exsequéntes ; pietátis tuæ remédia maióra percípiant. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、御身の信徒らの意志をふるい起たせ給え。そは、彼らがますます熱心に、天主の業の実りを行いつつ、御身の優しさの薬を一層ゆたかに受けんためなり。天主として、(…)。 主,求祢激起祢信众的意志,使他们以更大的热忱,营求祢超性大业的果实,以便多蒙祢仁慈的救济。因我们主……。 주여 비오니 네 신자들의 마음을 분발시키사 저들로 하여금 선행의 열매를 더욱 열심으로 찾음으로써 네 자비의 도움을 더욱 풍성히 받게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...
Léctio Epístolæ beáti Pauli Apóstoli ad Colossénses. 使徒聖パウロの、コロサイ人への書簡の朗読 书信 서간경
Col. 1, 9-14. コロサイ 1ノ9-14 哥1:9-14 (골로새서1.9-14)
Fratres : Non cessámus pro vobis orántes et postulántes, ut impleámini agnitióne voluntátis Dei, in omni sapiéntia et intelléctu spiritáli : ut ambulétis digne Deo per ómnia placéntes : in omni ópere bono fructificántes, et crescéntes in scientia Dei : in omni virtúte confortáti secúndum poténtiam claritátis eius in omni patiéntia, et longanimitáte cum gáudio, grátias agentes Deo Patri, qui dignos nos fecit in partem sortis sanctórum in lúmine : qui erí puit nos de potestáte tenebrárum, et tránstulit in regnum Fílii dilectiónis suæ, in quo habémus redemptiónem per sánguinem eius, remissiónem peccatórum. 兄弟たちよ、そこで私たちは、このことを聞いた日から、たえず祈り、すべての知恵と霊の悟りとをもって、あなたたちが、天主のみ旨を深く知るようにと願っている。こうしてあなたたちは、すべて主に嘉されるようにそのみ旨にしたがっておこない、すべての善業の実をむすび、いよいよ深く天主を知るであろう。また、天主の光栄の勢力によって、すべての力を強められ、すべてに耐える忍耐と根気強さとを得、光のうちに、聖徒たちの遺産にあずかるにたるものとされた父に、よろこびをもって感謝するであろう。天主は、私たちを闇の権力から救い出し、愛する子の国に移された。私たちは子において、おん血によってあがないと罪のゆるしをうける。 弟兄们:我们不断为你们祈祷,求天主赏赐你们具有充分的超性智慧和知识,完美地认识祂的圣意。这样,你们要度一种与主相称的生活,在一切事上使祂喜悦;在种种善功上多结果实;在认识天主方面日日有进步;你们要藉着祂光荣的能力充分坚强起来,因而在一切事上,修成完美的忍耐和宽容。你们要喜悦地感谢天主圣父,因为祂使我们配在光明中与圣徒共同分享遗产。天主把我们从黑暗的势力中抢救出来,把我们引入祂爱子的王国。因着这爱子、藉着祂的血,我们获得了救赎之恩和罪过的赦免。 형제들아 우리는 너희를 위하여 기구하기를 그치지 아니하며 너희가 모든 지혜와 신령한 명오로 천주의 성의를 (아는) 지식으로 충만하여지기를 간구하노라. 이는 너희가 천주께 합당하게 걸으며 만사에 마음에 흡합하고 온갖 선공에 열매를 맺으며 천주를 (아는) 지식에 있어서 자라고 저의 영광의 능력을 따라 모든 힘을 증가하며 기쁨으로 참고 인내하여서 우리로 하여금 광명중에 성인들의 몫을 받기에 합당한 자 되게 하신 천주 성부께 감사하기 위함이로다. 저는 어두움의 권하에서 우리를 구원하사 당신 사랑하온 아들의 나라에 옮겨 주셨나니 우리는 그 아들안에 그 피로 말미암아 구속 즉 죄의 사함을 얻었도다.
Graduale. Ps. 43, 8-9. 昇階誦 詩篇 43ノ8-9 台阶咏(咏43:8-9) 층계경(성영43.8,9)
Liberásti nos, Dómine, ex affligéntibus nos : et eos, qui nos odérunt, confudísti. 主よ、御身は、私たちを苦しめる人々から私たちを解放し給うた。御身は私たちを憎む人々を恥ずかしめ給うた。 主啊!祢曾救我们脱离我们的仇人,使忌恨我们的,蒙受羞辱。 주여 너 우리를 핍박하는 자들에게서 구원하시고 우리를 미워하는 자들을 부끄럽게 하셨나이다. 
V/. In Deo laudábimur tota die, et in nómine tuo confitébimur in sǽcula. V/. 私たちは天主において一日中賛美されるだろう。そして御身の聖名において代々に私たちは告白するだろう。 我们整日以天主为自豪,时时颂扬祂的圣名。 우리는 종일 천주 안에서 자랑하고 영원히 네 이름에 찬미를 드리리이다.
Allelúia, allelúia. V/.Ps, 129, 1-2. アレルヤ、アレルヤ。 V/. 詩篇129ノ1-2 阿肋路亚,阿肋路亚。(咏129:1-2) 알렐루야 알렐루야.(성영129.1,2) 
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam. Allelúia. 深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。アレルヤ。 上主啊!我自深渊向祢呼吁。吾主啊!求祢俯听我的祈祷。阿肋路亚。 주여 나 깊고 그윽한 곳에서 네게 부르짖나이다. 주여 내 소리를 굽어 들으소서. 알렐루야.
+ Sequéntia sancti Evangélii secúndum Matthǽum. マテオによる聖福音の続誦。 福音 복음
Matth. 24, 15-35. マテオ  24ノ15-35 玛24:13-25 (성마두24.15-35)
In illo témpore : Dixit Iesus discípulis suis : Cum vidéritis abominatiónem desolatiónis, quæ dicta est a Daniéle Prophéta, stantem in loco sancto : qui legit, intéllegat : tunc qui in Iudǽa sunt, fúgiant ad montes : et qui in tecto, non descéndat tóllere áliquid de domo sua : et qui in agro, non revertátur tóllere túnicam suam. Væ autem prægnántibus et nutriéntibus in illis diébus. Oráte autem, ut non fiat fuga vestra in híeme vel sábbato. Erit enim tunc tribulátio magna, qualis non fuit ab inítio mundi usque modo, neque fiet. Et nisi breviáti fuíssent dies illi, non fíeret salva omnis caro : sed propter eléctos breviabúntur dies illi. Tunc si quis vobis díxerit : Ecce, hic est Christus, aut illic : nolíte crédere. Surgent enim pseudochrísti et pseudoprophétæ, et dabunt signa magna et prodígia, ita ut in errórem inducántur (si fíeri potest) étiam elécti. Ecce, prædíxi vobis. Si ergo díxerint vobis : Ecce, in desérto est, nolíte exíre : ecce, in penetrálibus, nolíte crédere. Sicut enim fulgur exit ab Oriénte et paret usque in Occidéntem : ita erit et advéntus Fílii hóminis. Ubicúmque fúerit corpus, illic congregabúntur et áquilæ. Statim autem post tribulatiónem diérum illórum sol obscurábitur, et luna non dabit lumen suum, et stellæ cadent de cælo, et virtútes cælórum commovebúntur : et tunc parébit signum Fílii hóminis in cælo : et tunc plangent omnes tribus terræ : et vidébunt Fílium hominis veniéntem in núbibus cæli cum virtúte multa et maiestáte. Et mittet Angelos suos cum tuba et voce magna : et congregábunt electos eius a quátuor ventis, a summis cælórum usque ad términos eórum. Ab arbóre autem fici díscite parábolam : Dum iam ramus eius tener túerit et fólia nata, scitis, quia prope est æstas : ita et vos tum vidéritis hæc ómnia, scitóte, quia prope est in iánuis. Amen, dico vobis, quia nonpræteríbit generátio hæc, donec ómnia hæc fiant. Cælum et terra transíbunt, verba autem mea non præteríbunt. そのとき、イエズスは弟子らにおおせられた。預言者ダニエルがいった"荒らすもののいとわしいもの"が聖所に立つのを、あなたたちが見たら、・・・読む人はさとれ・・・そのとき、ユダヤにいる人は山に逃げよ。屋根のうえにいる人は、家のものをとり出そうとしておりてはならない。畑にいる人は、マントをとりにひきかえすな。その日、不幸なのは、みごもった女と、乳をのます女である。こういうことが冬や安息日に起って、逃げ出すことのないように祈れ。その時には、世のはじめから今までにもなく、のちにもないほどの大難難が起るだろう。その日がちぢめられないなら救われる人は一人もないが、しかしその日は、選ばれた人々のおかげで、ちぢめられるだろう。そのとき、あなたたちは、"そら、ここにキリストが!あそこにキリストが!"といわれても信じてはならない。偽キリストや偽預言者たちが起って、できるものなら選ばれた人たちをさえ迷わすほどの偉大なしるしや奇跡を見せるだろう。いま、私は、あらかじめこのことをあなたたちに知らせる。だから、ある人が、"かれは荒れ野にいる"といっても出て行ってはならない。"かかれは奥の間にいる"といっても信じてはならない。人の子の来臨は、いなずまが東から西へとひらめきわたるのに似ている。はげたかは、死骸のある所に集まってくる。これら日々の艱難がすぎると、直ちに日がくらみ、月は光を失い、星は空からおち、天の力がゆれうごくだろう。そのとき、人の子のしるしが天にあらわれる。地上の民族はみな後悔し、人の子が権力と大いなる栄光とをおびて、空の雲にのってくだるのを見るだろう。また、らっぱの高いひびきとともにつかわされた天使たちが、天のこの果てからあの果てまで、地の四方から選ばれた人たちを集めるだろう。いちじくの木から、このたとえをくみとるがよい。その枝がやわらかくなって葉が芽生えれば、もう夏は近いことがわかる。それと同じことだ。そういうことが起ったら、事はもうせまってきた。門に近づいていると知れ。まことに私はいう。それらがみな実現するまで、今の代はすぎ去らない。天地はすぎ去る、しかし私のことばはすぎ去らない。 那时候,耶稣向祂的门徒们说:“你们见了达尼尔先知所说的‘那悲惨可恶的事’临到圣地——读者注意——那时在犹太的人,该逃到山里去;在屋上的,不要下来拿家中的物件;在田里的,也不要回去拿外衣!在那些日子,怀孕和哺乳的是不幸的。你们该祈祷使你们逃走时,不遇到冬天,或安息日。因为那时,必有大灾难,从世界开始,直到那天,从未有过那样大的,后来也不会再有。这些日子若不缩短,一总人都不得保全,但为了选民的缘故,那些日子必要缩短。那时如果有人对你们说:‘看!基督在这里。’或说:‘在那里。’你们切勿相信,因为的确将有假基督、假先知出现,大显奇迹、大显奇能,倘若可能,连选民也要受到诱惑。我在这里预先告诉你们了。所以,如果有人对你们说:‘基督在旷野里。’你们不要去;或说:‘在内室。’你们不要信。正如闪电从东方发出,照到西方,将来人子降来,也是如此。尸体在哪里,老鹰也聚在哪里。    这灾难的日子一过,太阳就要昏暗,月亮要不发光,星辰要从天上落下,天地要动摇起来。那时人子的标记要在天空显出;地上各名族都要哀哭。他们看见人子,乘着天上的云,显着大能光荣地降来。祂要遣天神,用响亮的号筒,从四方,从天这边到天那边,召集祂的选民。你们可从无花果树取个比喻:一到树枝嫩了,叶子生出来了,你们就知道夏天近了。同样,你们看见了这一切事,也该知道祂近了,就在门口。我切实告诉你们:这世代尚未过去,而这些事都先要发生。天地要过去,我的话却不会过去。” 유시에 예수 그 제자들더러 이르시되 '너희들이 다니엘선지자의 이른바 멸망시키는 즈기여운 것이 거룩한 곳에 섰는 것을 보리니 읽는 자는 착심할지어다. 그때에 유데아에 있는 자는 산에로 피하며, 지붕에 있는 자는 집안에 무엇을 가지러 내려오지 말며, 들에 있는 자는 제 겉옷을 가지러 들어오지 말진저. 그때에 잉태한 이와 젖 먹이는 부인들에게 앙화로다. 너희 피난할 때가 겨울이나 혹 파공날에 당하지 아니키로 기구하라. 대저 그 때에 환난이 어떻게 심한지 그런 환난은 세상 배포할 때부터 지금까지 없었고 이후도 없으리라. 그 날수를 만일 줄이지 아니 하셨더면 한 사람도 구원함을 얻지 못할 것을 오직 간선자들을 위하사 그 날수를 줄이시리라. 그때에 누가 너희게 이르되 보라 그리스도 여기 있다 혹 저기 있다 하여도 믿지 말라. 대개 거짓 그리스도와 거짓 선지자들이 일어나 큰 괴변과 요술을 행하여 써 (만일 할 수 있으면) 간선자라도 그런데 빠지게 하리라. 나 문득 너희게 미리 고하였으니 이러므로 누가 너희게 이르되 보라 들에 있다하여도 나가지 말고, 보라 집안에 있다 하여도 믿지 말라. 대개 마치 번개가 동편에서 발하여 서편까지 비침같이 인자의 임함도 이와 같을 것이요, 어디든지 시체가 있는 곳에 독수리가 모이리라. 그때 환난이 지나매 곧 해가 어두워지고 달이 제 빛을 발치 아니하고 별이 하늘로 조차 떨어지고 하늘의 능력이 진동할 것이요, 이에 인자의 표가 하늘에 나타나매 보세 만민이 애통하다가 인자 하늘의 구름을 타고 큰 권능과 엄위로 내려옴을 보리라. 이에 천신들을 보내어 나팔의 큰 소리로써 그 간선자들을 사방에서 모으되 하늘 극변에로부터 저 극변에까지 하게 하리라. 너희는 무화과나무로써 비유를 삼으라. 그 가지가 연하여지고 잎새가 돋아나면 여름이 가까운 줄을 너희가 아나니 이와같이 너희가 이 모든 것을 보거든 인자 목전에 가까이 임한 줄을 알라. 나 진실히 너희게 이르노니 이 세대가 지나가기 전에 이 모든 것이 다 되리니 하늘과 땅은 변할지라도 내 말은 변치 않으리라.'
Credo 信経 信经 (신경 외움)
Ant. ad Offertorium. Ps. 129, 1-2. 奉献文 奉献咏(咏129:1-2) 제헌경(성영129.1,2)
De profúndis clamávi ad te, Dómine : Dómine, exáudi oratiónem meam : de profúndis clamávi ad te. Dómine. 深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。主よ、私の声を聞き入れ給え。深い淵から、主よ、私は御身に向かって叫んだ。 上主啊!我自深渊向祢呼吁。吾主啊!求祢俯听我的祈祷。上主啊!我自深渊向祢呼吁。 주여 나 깊고 그윽한 곳에서 네게 부르짖나이다. 주여 내 소리를 굽어 들으소서. 주여 나 깊고 그윽한 곳에서 네게 부르짖나이다.
Secreta. 密誦 密祷经 묵념축문
Propítius esto, Dómine, supplicatiónibus nostris : et, pópuli tui oblatiónibus precibúsque suscéptis, ómnium nostrum ad te corda convérte ; ut, a terrenis cupiditátibus liberáti, ad cæléstia desidéria transeámus. Per Dóminum. 主よ、われらの祈願に対して憐れみ深くあり給え。御身の民の祈りと供物とが受け入れられ、われらすべての心を御身の方へと回心させ給え、そは、この世の欲望から解放され、天上を欲することへと我らが向かわんがためなり。天主として、(…)。 主,求祢显示仁慈,惠顾我们的哀恳;望祢接纳了祢子民的奉献和祈祷以后,变化我们的心归向于祢,使我们脱免了世俗的贪欲,转望天上的荣福。因我们主……。 주여 우리 간원함을 인자로이 굽어 들으사 네 백성의 제물과 기구를 받으시며 우리 마음이 네게로 향하게 하사 하여금 세속 원욕에서 구원을 받은 후에 천상 원욕에 이르게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...
Præfatio de sanctissima Trinitate  序誦  三位一体と主日との序誦 天主圣三的颂谢引 성삼감사경
Vere dignum et iustum est, æquum et salutáre, nos tibi semper et ubíque grátias ágere : Dómine, sancte Pater, omnípotens ætérne Deus : Qui cum Unigénito Fílio tuo et Spíritu Sancto unus es Deus, unus es Dóminus : non in uníus singularitáte persónæ, sed in uníus Trinitáte substántiæ. Quod enim de tua glória, revelánte te, crédimus, hoc de Fílio tuo, hoc de Spíritu Sancto, sine discretióne sentímus. Ut, in confessióne veræ sempiternǽque Deitátis, et in persónis propríetas, et in esséntia únitas, et in maiestáte adorétur æquálitas. Quam laudant Angeli atque Archángeli, Chérubim quoque ac Séraphim, qui non cessant clamáre cotídie, una voce dicéntes : Sanctus… 主よ、聖なる父よ、全能永遠の天主よ、われらが御身に、いつもどこにても感謝を捧げるのは、実にふさわしく正しいこと、義務と救いである。御身は、御独り子と聖霊と共に、唯一の天主、唯一の主にて在す。すなわち、御身は、一の位格の単一にて在すのではなく、唯一の実体(substantia)の三位にて在す。御身の御光栄について、御身が啓示するがゆえに、われらが信じ奉ることを、聖子について、聖霊について、差別なく、われらは信じ奉る。真の永遠の天主の本性を告白するにおいて、位格における固有性が礼拝され、本質(essentia)における唯一性と、御稜威における等しさも礼拝されるためである。これを、天使らと大天使らは、智天使も熾天使も、讃美し、絶え間なく声を上げ、日々声をあわせてこう言う。聖なるかな、… 主,圣父,全能永生的天主!我们时时处处颂谢祢,实是正义而必须的,属于我们天职的,也属我们得救的。祢与祢的独子及圣神,只是一个天主,只是一个主;不是因为位是单独一个,却是因为三位同具一个性体。的确,我们所怎样依照祢的启示,相信祢享的光荣,我们无区别地也同样确认祢的圣子,也同样确认圣神共享这个光荣。因此,我们在明认圣三真实而永在的天主性上,同时论位,我们敬拜圣三的各一,论体,我们敬拜圣三的无二,论尊荣,我们敬拜圣三的均等。这圣三的尊荣,是天神们和总领天神们,普知天神们和炽爱天神们,所虔诚歌颂的;他们日复一日,永不停止同声高呼说:圣、圣、圣…… 주여, 성부여, 전능하시고 영원하신 천주여, 우리가 어디서나 항상 주께 감사하는 것이 참으로 당연하고 옳으며, 지당하고 구령에 유익하나이다. 주는 외아들과 성신과 더불어 오직 한분의 천주시요, 오직 한분의 주이시되, 한 위가 아니시고, 한 체로서 세 위시니이다. 주의 계시로 우리가 주의 영광에 대하여 믿는 바를, 성자와 성신에 대하여서도 조금도 다름이 없이 믿나이다. 그리하여 우리는 참되시고 영원하신 천주성을 찬미함에 있어, 위로서는 각 품이시요, 체로서는 하나이시요, 지존하시기는 같으심을 찬송하나이다. 천신들과 대천신들 및 케루빔과 세라핌이 이를 찬양하며, 날마다 간단없이 제창하나이다. 거룩하시다, 거룩하시다, 만군의 천주이신 주는 거룩하시나이다. 하늘과 땅에 주의 영광이 가득하나이다. 천상에 좌정하신이여 호산나, 주의 이름으로 오시는 이는 찬미받아지이다. 천상에 좌정하신이여 호산나.
Ant. ad Communionem. Marc. 11, 24. 聖体拝領誦 マルコ 11ノ24 领主咏(谷11:24) 영성체경(성말구11.24)
Amen, dico vobis, quidquid orántes pétitis, crédite, quia accipiétis, et fiet vobis. 真に私はあなたたちに言う。あなたたちが祈って願うことは何であれ、あなたたちはそれを受けるだろうと信じよ。そうすればあなたたちにそのようになるだろう。 我实在告诉你们:你们祈祷时所求的一切,相信必可得到,你们就必能得到。 나 진실히 너희게 이르노니 너희가 기구하여 구하는 바는 무엇이든지 너희가 받을줄로 믿으라, 곧 너희게 되리라.
Postcommunio. 聖体拝領後の祈 领后经 영성체후축문
Concéde nobis, quǽsumus, Dómine : ut per hæc sacraménta quæ súmpsimus, quidquid in nostra mente vitiósum est, ipsorum medicatiónis dono curétur. Per Dóminum nostrum. 主よ、願わくは、われらが受け奉ったこの秘蹟を通して、われらの心にある不徳なものをそれが何であれ、秘蹟の薬の賜物によって癒されんことを、我らに与え給え。天主として、(…)。 主,求祢开恩:使我们所领的圣事,以其回春的功效,疗愈我们的各种邪恶。因我们主……。 주여 우리가 이 성사를 영하였사오니 빌컨대 선물의 효험으로써 우리 영혼의 병을 낫게 하시되, 네 아들 우리 주 예수 그리스도를 인하여 하소서. 저 너와 성신과...

【参考リンク】

2018年11月25日は、聖霊降臨後最終主日です。聖伝のミサ(ラテン語ミサ、トリエント・ミサ)のテキストをご紹介します。 - Credidimus Caritati 私たちは天主の愛を信じた


聖ピオ十世会」という特別の天からの宝物、その創立の目的は「聖なる司祭を養成する」こと

2020年11月17日 | お説教・霊的講話
2020年11月1日(主日)諸聖人の大祝日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父様メッセージ


聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄妹姉妹の皆さん、今日は諸聖人の祝日、そして「聖ピオ十世会」の教会法による創立50周年の日です。

今日この日に当たって、心から私は天主様に、そしてイエズス様の聖心に感謝致します。なぜかというと、「聖ピオ十世会」という特別の天からの宝物が、私たちに与えられたからです。

その目的は、この創立の目的は、「聖なる司祭を養成する」です。

司祭の聖化の為に存在する修道会」という事です。

イエズス様の聖心の計画によると、その愛の御計画によると、イエズス様は全世界の霊魂たちを、司祭を通して、聖なる司祭を通して、聖化する事を御望みです。イエズス様の聖心は、司祭をまず愛で満たして、その司祭からの愛の溢れを世界中に配る事、これを御望みです。

そしてルフェーブル大司教様はこの聖ピオ十世会を、「司祭の養成」の為に、「カトリックの伝統的な司祭の養成の為」に創立されました。

私たち聖ピオ十世会の司祭は、ルフェーブル大司教様のそれを、その行動や、御説教や、その徳を、謙遜、あるいは剛毅、柔和、その他をただ真似しているだけにすぎないのですけれども、ローマから受けたその伝統を伝えて、今働いている事ができる事を、感謝しています。

そしてもしも、今でも、そして日本でも、聖伝のミサが毎週主日に捧げられている事ができるという事も、世界中でこのミサがまだ生き残っているという事ができるのも、これもひとえに、ルフェーブル大司教様のおかげです。そしてその残して下さった遺産、「聖ピオ十世会」という宝のおかげです。この教会が、この業を祝福して下さっているおかげです。

どうぞ愛する兄弟姉妹の皆さん、今日この日に、心からこの祝福を感謝致しましょう。そしてどうぞ、たくさんお祈り下さい。

司祭たちが、カトリックの司祭たちが、ますます聖なる者となりますように、イエズス様の愛に満たされますように、お祈り下さい。

イエズスの教えに、変わらない教えに満たされますように、そしてそれをそのまま伝える事ができますように。

そして多くの司祭が日本から出ますように、世界中から出ますように、お祈り下さい。

日本の特に若者たちが、カトリックの司祭職に憧れて、その一生を聖なる目的の為に捧げる事ができますように、寛大に全てを、イエズス様の愛に捧げる事ができますように、お祈り下さい。

霊魂の聖化の為に、天国に大聖人たちを送り出す為に働く司祭たちが、たくさん日本から誕生しますように、お祈り下さい。

そして今日この機会に、聖ピオ十世会が日本で働く事が活動する事ができる為に、多くの兄弟姉妹の方々の寛大な犠牲や、奉仕や、お祈りや、そしてサポートが影にあります。

そしてこの多くの皆さんのご協力とそのご支援、そしてお祈り、そしてその汗と、その友情、助けを、心から感謝致します。天主様が、皆さんのその寛大さに何千倍にもして報いて下さいますように。

そして今日、諸聖人の祝日を今日地上でお祝いしていますけれども、遂には天国で、天主様を目の前にまみえて、そして多くの聖人聖女たちと共に、私たちが共に集って、世界中のカトリックの信者たちが集って、そして永遠の喜びを分かち合う事ができますように、お祈り致しましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




2000年間カトリック教会がやってきた事が間違いであるわけがない。私たちはこれをやり続けなければならない。霊魂の救霊の為に

2020年11月17日 | お説教・霊的講話
2020年11月1日(主日)諸聖人の大祝日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(大阪)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

愛する兄弟姉妹の皆さん、今日は諸聖人の祝日、そして「聖ピオ十世会」のこの創立50周年です。

今日この日に、教会法に従って、聖ピオ十世会が創立されました。そしてその教会の生きる枝の一部として、聖ピオ十世がこうやって全世界で働いていて、霊魂の聖化の為に仕事をしているという、この特別の御恵みを、イエズス様の聖心に深く感謝します。

特にこの創立者であるルフェーブル大司教様、ピオ十二世教皇様の元で、教皇使節である教皇大使である、アフリカの16のフランス語の国々で教会を指導した、教皇様の代わりに指導した方、また「聖霊修道会」という、世界で最大の修道会の内の一つの総長を長年勤めて、そして世界中を司祭、司教様たちの指導をしてまわった方、第二バチカン公会議を準備して、その準備委員会に特別に選ばれた教父であった方、その方が、イエズス様の聖心に従ってたてた修道会が聖ピオ十世会です。

「イエズス様は、この世界を聖化する為に、天国に多くの聖人を生み出す為に、聖なる司祭を必要としている。」そこで、「聖なる司祭の養成」の為に、聖なる司祭をカトリック教会に生み出す為に、そして司祭の聖化の為に、特別な修道会を創りました。それが「聖ピオ十世会」です。

50年前、教会の祝福と認可を以て、今でも全世界で活動しています。最初はほんの少数で始まったものですけれども、今では世界中で650人以上の司祭、聖ピオ十世会の司祭、修道者、修道女、そして神学生を含めると、約1000名ほどになります。

また数年前までは、あまりよく知られていなくて、誤解をされていました。しかし今では、ヴィガノ大司教、元アメリカの教皇大使とか、あるいはシュナイダー司教、あるいはその他の高位聖職者たちが、あるいは司祭たちが、「やはり、ルフェーブル大司教様は正しかった、と気が付いています。

今、世界がおかしくなっている。今、狂い出している。この世界を救うのは『聖伝のミサ』しかない。聖伝のミサこそが今、世界が反キリストの方に向かうのをストップさせるものであった。(これは、聖パウロの書簡によれば、“カティコン”と言われています。)それだ。これが無くなってしまっては世界が崩壊してしまう、反キリストが到来してしまう。だからこの『ミサ』こそ、これをこそ、守らなければならない。」

もはや、私たちは一人ではない、という事をますます確信しています。多くの方が目を覚まして、「やはり『聖伝』こそが正しかった。2000年間カトリック教会がやってきた事が間違いであるわけがない。私たちはこれをやり続けなければならない。この霊魂の救霊の為に、世界の救いの為に、多くの霊魂を天国に生み出す為に、その為に、聖なる司祭が必要だ。」

今日、この諸聖人の祝日、そして聖ピオ十世会の50周年、心から喜びを捧げて、そして日本で、そして世界中で、カトリックの聖伝の為に働く聖なる司祭たちがますます増えますように、お祈り致しましょう。多くの召命が与えられますように、お祈り致しましょう。

そして特に、日本に住んでいる方々が目を覚まして、「やはり、聖伝に戻らなければならない」という方々がますます増えますように、諸聖人に御取次ぎを願いましょう。

マリア様に、御取次ぎを願いましょう。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。














諸聖人の大祝日、また聖ピオ十世会創立50周年のこの日に天主に感謝いたします

2020年11月17日 | お説教・霊的講話
2020年11月1日(主日)諸聖人の大祝日のミサ

聖ピオ十世会司祭 トマス小野田神父説教(東京)

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。

今日は諸聖人の大祝日、また聖ピオ十世会創立50周年のこの日に、特に私は、イエズス様の聖心が、この現代の社会に、今、特にこの日本に、聖ピオ十世会の司祭が常駐する事ができる事を、深く感謝致します。

そしてこのミサが主日に特に捧げられる事ができるように計らって下さった事を、深く感謝致します。

また、ルフェーブル大司教様という偉大なカトリックの聖職者、大司教様を私たちに送って下さった事を、深く感謝します。

元「聖霊修道会」という世界最大の修道会の総長、ピオ十二世の教皇使節、次に教皇大使、そして第二バチカン公会議を準備した教父、世界中を、多くの司祭や司教様たちを指導してまわったその方が、ルフェーブル大司教様です。

教会の、自分がローマで勉強したままのその神学、その信仰、そしてその秘跡、ミサ、それをそのまま、何も変える事なく、私たちに伝え、命がけで、自分の名誉がどうなっても、自分がどうなっても、これを霊魂の救いの為に、イエズス・キリストが私たちの社会を統治する為に、イエズス・キリストに従った、それがルフェーブル大司教様です。

そのルフェーブル大司教様を私たちに与えて下さった事を、天主様に感謝致します。

このルフェーブル大司教様が創立して下さった、そして教会が「まさしくこれこそ、カトリックの御業である」として認可した、そしてそれで50年経つこの聖ピオ十世会が与えられた事を、深く感謝します。

願わくは、イエズス様の聖心の御望みの通り、「司祭を通して、この世界を聖化しよう」とするイエズス様の聖心の通り、聖ピオ十世会の司祭たちが、イエズス様への愛に満たされて、それに溢れるばかりの愛を受けて、それを世の多くの人々に、このイエズス様の愛を伝える事ができますように!

そしてイエズス・キリストの伝えた教えを、何も変える事なく、秘跡を何も変える事なく、教えを変える事なく、「イエズス・キリストだけが、私たちの真の救い主、私たちを愛する真の天主だ」と伝える事ができますように!

聖なる司祭が与えられますように、お祈り致しましょう。

特に日本からも、聖なる司祭たちが続々たくさん輩出しますように、皆さんの心からのお祈りをお願い致します。

聖父と聖子と聖霊との御名によりて、アーメン。




--このブログを聖マリアの汚れなき御心に捧げます--

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